web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

山本貴光 岩波文庫百話

第16話 ドイツ哲学の19世紀

 19世紀の哲学(青帯600番台)に目を移そう。書目も著者も一段と数が増える。17世紀の6人、18世紀の10人に対して、19世紀は23人、20世紀は49人だ。この19世紀は大きな画期にも見える。というのも、この辺りから学術の専門分化が本格化し始めて、それまで大きく哲学とくくられていたものが、19世紀の終わり頃から物理学、心理学、社会学、言語学その他の専門領域へと枝分かれしてゆくのだ。別の見方をするなら、19世紀はヘーゲルのように1人で自然科学、論理学、歴史、法学、美学などの多様な諸学術を総合的に視野に収めようとする哲学の構えを観察できる最後の時代かもしれない。

 19世紀に並ぶ面々を見てみよう。煩瑣になるので名前だけ並べてみる。例によって岩波文庫の著者別分類番号順とする。ただし、ケトレーは番号がない。

フィヒテ、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリング、ショウペンハウアー、フォイエルバッハ、スチルネル、キルケゴール、シュヴェーグラー、ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ、リッケルト、ヴィンデルバント、チェルヌィシェフスキー、ブチャー、カーライル、ラスキン、ブレンターノ、ディーツゲン、ギュイヨー、パース、ゲルツェン、ケトレー

 ご覧の通り圧倒的にドイツの哲学者が多い。いわゆるドイツ観念論(またはドイツ古典哲学)と称されるフィヒテ、シェリング、ヘーゲル、あるいは日本でも明治期から読まれてきたニーチェをはじめ、全23名のうち半数以上の13名をドイツが占める。19世紀はじめ、プロイセンがナポレオン率いるフランスに敗れたのを契機に改革が起こる。その一環として新しく創設されたベルリン大学(現フンボルト大学)は、後に近代大学のモデルとして他国にも影響を及ぼすことになる。シェリングやシュライアマハーらはその構想にも一役買うとともに教鞭を執っている。他にもヘーゲルや彼をライヴァル視していたショウペンハウアーも同大学で教えていた。また、デンマークのキルケゴールがシェリングの講義を聴いたのもこの大学だった。キルケゴールの著作には、ドイツ語訳を経由して訳されているものもある。

 その他の地域としては、アメリカ哲学を代表するプラグマティズムを提唱したパースやこれを広めた心理学者のウィリアム・ジェイムズが目に入る。イギリス方面では、ホメロスの翻訳も手がけたブッチャー(アイルランド、古典学)、ドイツ文学の研究や翻訳の他、ゲーテとの往復書簡(赤407―6)もあるカーライル(スコットランド、歴史家)、ラスキン(イングランド、批評・社会思想)と、広く人文学とも言えそうなメンバーが並ぶ。変わり種はロシアのチェルヌィシェフスキーとゲルツェンで、西欧の哲学を摂取しながらロシアの現状を批判し、流刑や亡命など波瀾に富んだ人生を送っている。二人は論争した仲でもあった。彼らについては稿を改めて述べるつもり。

 点数で見ると、多いほうからヘーゲルの7点12冊、ニーチェの7点9冊、フィヒテの5点6冊で、ドイツ哲学が並ぶ。ヘーゲルについては、没後100年1931年には年には岩波書店から『ヘーゲル全集』が刊行されており、その後、増補・改訳などを経て、最新版は2000年に完結した全20巻32冊がある。

 ところで、日本に西洋哲学が入ってきたのはいつからか。戦国期にイエズス会の宣教師らがもたらした例が思い出されるものの、これは広がることなく終わったようだ。それを除くと幕末にオランダ留学を果たした西周と津田真道が学んで持ち帰ったあたりが嚆矢だろうか。Philosophyを「哲学」と訳したのは、この西周である。その後、明治新政府が日本最初の大学となる東京大学を開設したのが1877(明治10)年で、西洋諸国からいわゆる御雇外国人を教師として招いて教育を進めたのをご存じかもしれない。哲学方面については、当初、ベンサム、ミル、スペンサーなど、イギリス系がもてはやされたとも言われるが、東京大学で哲学を(も)講じた御雇外国人教師のうち、フェノロサ、クーパー、ブッセ、ケーベルらは、カント哲学やドイツ観念論哲学を扱ったようで、日本にドイツ哲学の素地を築いた様子が窺える。この中でドイツ出身はブッセだけで、他はアメリカ、イギリス、ロシア出身というのは少し面白く感じるところ。

 このうち、「ケーベル先生」は、後に哲学者や文学者となる青年たちにも強い印象を与えた人物で、大正教養主義を語る際にも欠かせない存在となっている。岩波書店の創業者である岩波茂雄もその一人だった。そのせいか初期の岩波書店の刊行物や岩波文庫の哲学書にもドイツ哲学を重視していた気配が感じられる。

 さて、もしこの19世紀のコーナーに追加するならなにがよいか。例えば、明治期の日本の思想にも多大な影響を与えたスペンサーについては、『第一原理』を筆頭として、生物学、心理学、社会学、倫理学から成る「総合哲学体系」という総合的な仕事があった。これをダイジェストでよいから、その全体像が見えるかたちで収めるのはどうだろう。また、ドイツ学術の振興にも大いに寄与したフンボルト兄弟の仕事も、どこかに入れたいところ。政治家で言語学者だった兄のヴィルヘルムなら大学論や言語論を、幅広い自然学者だった弟アレクサンダーなら、これも大著だが当時の知識を総集して宇宙と地球を論じた『コスモス』も抄訳でよいのであるとうれしい。ここに物理学者のアンペールが晩年に書き、没後に刊行された『諸学問の哲学についての試論』のような、全学術を網羅的にマッピングする仕事を加えると、20世紀以降見失われてゆく総合的に学術全体を捉えようとした19世紀的なあり方を思い出し、文理融合や分野横断の必要が謳われる昨今の手がかりにもなると思うがいかが。

(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)

[『図書』2025年12月号より]


『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 山本 貴光

    1971年生まれ。文筆家、ゲーム作家。現在、東京科学大学 未来社会創成研究院・リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学環境情報学部卒業。著書に『文学のエコロジー』(講談社)、『世界を変えた書物』(橋本麻里編、小学館)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)、『記憶のデザイン』(筑摩書房)など。

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)
  2. 岩波書店 ポッドキャスト ほんのタネ

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

新村 出 編

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる