【特別公開】埋もれていた東京大空襲の記憶(早乙女勝元『東京大空襲――昭和20年3月10日の記録』より)
今から80年前の1945(昭和20)年3月10日。一夜のうちに東京の下町一帯が焼け野原に変わり、数多くの死者で街や河が埋まるほどの惨事、東京大空襲が起こりました。
自身が被災者でもある早乙女勝元さんは空襲から25年後、生きのびた人々を訪ね、それまで埋もれていた記憶を掘り起こし、無差別絨緞爆撃の非人間性を暴いていきます。
庶民にとって戦争とは何であったか。早乙女勝元著『東京大空襲――昭和20年3月10日の記録』(岩波新書、1971年)より一部を抜粋して掲載します。
傷痕は今なお深く
昭和42年6月11日午前11時頃、江東区深川門前仲町の地下鉄東西線工事現場で、作業員たちが、工事で痛んだ歩道を改修しようと掘りかえしていたところ、奇妙なものを発見した。
歩道の下、深さ1.5メートルほどの地下に防空壕らしい跡があって、そこに、まるでよりそうようにした人骨6体があった。子ども2体に、大人4体で、男女はよくわからない。みな恐怖に耐えるかのようにうずくまり、うち大人の1体は、胸に2つの位牌を抱いている。
防空壕の中も、猛火にさらされたとみられ、1体は焼けたあとがあり、遺体のそばには、さびた鉄カブト、くさった防火用バケツがころがり、この発掘を見にきた近所の人たちに、昭和20年3月10日未明の東京下町大空襲を思い起こさせた。
22年ぶりに発掘されたこの人骨6体は、はたして、どこのだれだったのだろう。この事件が毎日新聞の墨東版(昭和42年6月12日)の記事になると、大人の1体が抱いていた位牌の文字が、手がかりとなって、2日後に杉並区上荻に住む会社社長T氏が、「自分の肉親、親類と考えられるので引取りたい」と申し出た。
12日づけの新聞記事を、T氏の友人が見て知らせたもので、T氏の談話によると、3月10日未明の大空襲の際、T氏は妻(当時35歳)と長女(4歳)とともに、深川永代にあった妻の実家にいて、空襲と同時に妻の母と、その娘たち、孫と計7名で近くの臨海小学校へ避難したが、途中でT氏だけ忘れものをしたのに気づいて実家へもどり、ふたたび同小学校へいったときには、もう家族6名の姿は見えず、以来行方不明になっていたという。
T氏は、戦後22年ぶりに、白骨となった妻子と対面したわけだった。
私は、この記事を見たとき、すぐにでも飛んでいって、T氏から恐怖の夜の実状をきき、あわせて犠牲者の冥福を祈りたい気がしたが、しかし、T氏に会う勇気がくじけた。
なるほど、私は作家のはしくれかもしれない。そして、T氏の妻子が犠牲になった3月10日を中心とする東京空襲では、子ども心に鮮烈な印象を胸にとどめている。私もまた、猛火の中を逃げまどい、かろうじて生き残った一人だったからである。だから、人間の義務として、あの夜の惨状を復元し、戦禍の真相を活字にとどめておきたいと思う。できることなら、正確な史実として、後世に残したいとも思う。
あえていうまでもないことであるが、東京空襲に関する資料は、8万人からの死者、100万人をこえる罹災者の重苦しい思いにくらべ、あまりにもすくない。信じられないほどである。ことに昭和28年に『東京都戦災誌』が東京都によってまとめられ、またおなじ年に雄鶏社の『東京大空襲秘録写真集』などが出版される戦後の8年間は、東京空襲に関する文献は、あまりにもすくなかった。それから今日まで、この2冊に匹敵するような資料はまだ出ていない。かろうじて、個人の単行本が、ほんの2、3冊思いつくていどである。しかも、その唯一の総合的な資料集と考えられる『東京都戦災誌』は、一般には手に入りにくいものだし、数字的にも再検討しなければならない部分がかなり目だつ。またこの記述には、体験者のせつせつたる魂の記録は、いっさいはぶかれている。これでは、東京空襲の悲劇の真相と全容は後世に伝えられないだろう。
死者8万人、とひとくちにいってしまえば、それっきりだが、私はときどき、これらの犠牲者たちが、凄惨そのものの姿で、一堂に集結したら……と考えることがある。ふりはらっても、ふりはらっても、いよいよ色濃く脳裏に浮かび上がってくるこのイメージをおさえきれず、私はじっとしていられなくなるのだ。戦後四半世紀を経過したこの夏、東京空襲の遺族をたずねて、その声なき声をノートにうつしとろうと思いたったのは、私の体験者としての責務ばかりではない。私自身「平和」の思想をこの手ににぎるには、25年前の戦争の真実をしかと見きわめ、8万人の犠牲者の浮かばれる道を、自分なりに考えたかったからである。
しかし、遺族の門戸は意外に固かった。
「かんべんしてくださいよ、その話は」
思いきって、一度お会いしたいのですが、と電話でおずおずときりだせば、T氏の答は否だった。
「もう結構です」
とも、T氏はいった。
私は、神妙に引きさがるよりほかはなかった。だれしも、過去の傷にふれられるのはつらい。できることなら、二度と思いだしたくもないだろう。ましてや、戦後22年も地下の暗闇でひっそりとうずくまっていた妻子の白骨に対面したなどというのは、第三者には考えられぬものがあるだろう。名も知れぬ作家に、そんなことなど話したとて、一体なんになるか。T氏はそう心の中につぶやいたかもしれぬ。東京空襲が、都民の、とりわけ下町の勤労庶民の心に残した傷痕は、平然と人に語れるほど生やさしいものではないのだ。それはわかる。なぜなら、私だって、生死の境いのスレスレを生きのびた少年だったから。
わかるからこそ、私はなおさらのこと、悲壮なほどの決意をもって、体験者の重い胸をきりひらき、その心の底に沈みこんでいるものを掘りださねばならないのだ。悲惨ということばをこえる東京大空襲の事実を、あきらかにせずにはいられないのだ。たとえどんなにつらくても、戦禍の「原体験」を直視することこそが、平和へのたしかな足場をきずくことにむすびつくはずである。
私は、戦後25年めのこの夏、ノートにボールペンを手にして、毎日のように、東京空襲の、主として3月10日の大空襲の遺族をたずねて歩いた。人づてに、あるいは直接に。その数は20名をこえるだろう。ずいぶん門前払いをくらわせられた。また、私の真意を受けとめ、話したくない話をうちあけてくれた人も、一人として平静だった人はいない。みな申しあわせたように話の途中で絶句し、私はペンを片手に、顔を上げることができなかった。傷は、それほどまでに深いのだ。この人たちにとっては、この世に生きてあるかぎり、その傷は癒えず、戦後は絶対に終ることがないのだろう。
ここには、当時12歳の少年の私をふくめ、警視庁カメラマンだった石川光陽氏をのぞいて、8人の下町庶民が登場する。私は、この8人の名もなき庶民の生き証言を通じて、“みな殺し”無差別絨緞爆撃の夜に迫る。話すほうも、きくほうもつらかった。だが、そのつらさに耐えてくれた人のために、そしてまた、ものいわぬ8万人の死者のために、私は昭和20年3月10日を、ここに忠実に再録してみたい。
私の人間としての執念のすべてをこめて。
警報発令──火の粉の猛吹雪
「勝元、起きろ!」
父の声に、私ははね起きた。とたんに、南の窓ガラスごしに、目もくらむばかりの光線がつきささる。そして、ドカドカと地脈をゆするような不気味なひびきが、とどろきが。
私はそのおどろきを、まるで昨夜のことのようにおぼえている。
子どもの日のショッキングな印象というものは、ときには網膜にやきつけられたように、いつまでも鮮烈に残ることがあるらしい。そのとき私は、枕元にあった救急袋と非常袋、防空頭巾、それに唯一の“宝物”ともいうべき古銭をいれた布袋をひとつかみにひっかかえて、
「きたァッ、きたぞォ!」
と、さけびながら、ころげるように階下へかけおりた。
きたぞ、と私が口ばしったのは、理由がある。3月10日。この日は陸軍記念日にあたるので、いままでにない大空襲がある、といううわさが流れ、その不安を裏がきするように、9日の夕刻から、北北西の強風が吹きあれはじめたからだ。窓ガラスに反射する火の手と、鼓膜をふるわせるひびきは、子ども心にも、ただごとでないと感じさせるものがあった。
玄関先から、外に出る。あたり一面、まっ赤だ。ぐるりと首を一回転させてみる。どこもかしこも、真紅の炎が闇空を焦がし、耳をつんざくような爆発音が、たえまなしにひびく。東にも西にも、北にも南にも。B29の爆音は頭上をおおいつくし、ヒュルヒュルゴーッと、空気をひきさく音に加えて、ザーッと、夕立のような落下音。短い炸裂音とともに、まぶたの裏に稲妻が走る。地面がゆれる。新しい火の手が、あそこにもここにも! 近所の人たちは、みな防空壕から顔を出して、あまりのはげしさに、畜生、畜生、やりやがったな、とさけび、火たたきを手に歯をむきだしている。が、どうすることもできず、手のつけようもない。消防車がサイレンのうなりもかん高く、つぎつぎと、火災地にむかって殺到していくが、この突風と、集中攻撃では、はたしてどこまで猛火をふせぐことができるか。私の子どもの目から見ても、まったくたよりない感じだった。
「勝元、なにぐずぐずしてるの。早く!」
母がさけんでいる。
その母は、家の前の防空壕の入口に立って、ただおろおろとあたりを見ているだけだ。この姿も私は、はっきりとおぼえている。早く、といいながら、母は私を呼びよせることだけが目的だったのか。
「ほら、どっちを見たって、暗いところなんか一ヵ所もないよ。一ヵ所も。……ああ、ゆんべ、特配を食べちまえばよかった。せめて、死ぬときには腹いっぱいにしてさ」
「ばか」
という声がはねかえり、父が鉄カブトの下を、目ばかりにして走ってきた。
「これは、いつもとちがうぞ。勝元、荷物を用意しろ、急げ」
「はい」
「急ぐんだ」
「はい」
「静子は?」
「まだ寝てるみたい」
のんびりやの彼女は、こんなときでも、まだぐずぐずしているのだ。
「おれ、起してくる」
私は玄関口へひきかえし、台所わきの階段を一気に2階へかけのぼった。そのとき壁にかかっている暦の文字が見えた。電気もつけていないのに、はっきりと。
真紅に染まった空に、黒煙は濃霧のように流れ、おびただしい火の粉がいっぱい。それはまるで火の粉の猛吹雪だ。B29は巨大な火柱の上を、ゆうゆうと旋回しながら、つぎつぎと焼夷弾をぶちまけていく。ピカッと空にきらめく青い閃光。とたんに無数の光跡が尾をひいて黒い屋根の上に吸いこまれ、また新しい火の手がどっと上がる。
「まあ、きれい!」
と、姉が場ちがいな感嘆の声を上げたのを、私はふしぎに記憶している。が、そのとたんに、姉の声を封圧するかのように、金属的な爆音。畳3畳分もあるかと思えるようなB29の巨体が、屋根すれすれの超低空で目の中へつっこんできたのだ。その胴体がぱっくりひらいて、まっくろなものがざざーッと降りそそぐ。はっと頭をふせ、顔をあげれば、もうあちこちに火の手があがった。
「勝元、なにしてるか。ふとんを……2階のふとんを、リヤカーに!」
父の声が、きれぎれに私の耳をかすめた。
わずか2時間半たらずのあいだに、帝都東京の約4割を焼き、ざっと8万人からの生命を奪った3月10日の東京大空襲は、こうして、私の前へやってきたのだった。
著者略歴
早乙女 勝元(さおとめ・かつもと)
1932年東京の下町に生まれる。戦争と貧困の中で、小学校高等科を終えた後、働きながら独学にはげんで文学を志す。18歳で第1作『下町の故郷』を発表、1970年に「東京空襲を記録する会」を結成し、『東京大空襲・戦災誌』(全5巻)で菊池寛賞を受賞。2002年に東京大空襲・戦災資料センターの初代館長となる。『東京大空襲』『戦争を語りつぐ』(岩波新書)、『東京が燃えた日』『生きることと学ぶこと』(ともに岩波ジュニア新書)、『岩波DVDブック 東京・ゲルニカ・重慶』(編)など著書多数。2022年逝去。