第16回 「愛」より、「人を愛したあなた」が綺麗。──『七夕伝説』
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恋は楽しい。そして美しい。人は、恋のために、大切であるはずのものを忘れたり、それを捨ててしまうことさえある。そして、そんな態度を愚かだと切って捨てる人もたくさんいる。私は、恋がなにもかもを覆す絶対的なものだとは思わない。でも、同時に「恋を言い訳に辞めてしまうようなものは、そもそもそんな大切なものではなかったのではないか」みたいな言葉をみると、つらいな、とも思う。たとえば、七夕の伝説であるならば、「恋に夢中になりすぎて己の仕事を忘れてしまった二人を神様が引き裂いて年に一度しか会えないようにした」というのがあらすじだけれど、それで「織姫にとって機織りは大切なものではなかった」とか言えてしまうとしたら悲しい。彼女にとってその程度のものだった、なんて、誰がどのような確信を持って言えるっていうんだろう。恋は、一瞬だけ目の前を走る、流れ星なのに。
恋は、他者との鮮烈な出会いによって始まる。だから恋の発生は「私の人生」のサイコロだけで決まるものではなく、相手と自分のタイミングが奇跡的に合うことで決まっていく、進んでいく。どうやっても起こらないときは起こらないし、起こす気がないときでさえ起こってしまうこともある。それを人は知っているから、一瞬で消える流れ星だとわかっているから、その一瞬を逃してはならないと、自分一人で摑んできたものよりも、とっさに優先して、流れる目の前の星に手を伸ばす。
恋はいつも「とっさに」というにふさわしい反応で、優先され、重要視され、それは他者から見れば軽率に見えるのだろう。「冷静になりなさい」。でも、生きることそのものが冷静さの似合わないものだと、私は思う。人生がどれほど続くのかも、この全貌がどうなるのかも、すべての伏線が回収されるのかもわからない、すべてが理不尽でカオスな人の生涯。そして、生きることをすべて慎重にこなしていくには、私たちの人生のスピードは速すぎる。すべてが儚く、美しいけれど、あっという間だ。
すべてが手から簡単にすり抜けていく。そういうものだ。人との出会いはいつもそう。あんなに確かだったものが、あっけなく消えていく。「また会おうね」と言って転校していった友達と、本当はもう会えないと、子供のころの私はわかっていなかった。いつから、それがわかるようになったのか。そんな経験を一度もしていなかったなら、恋はいま摑まなくてもいい、と思うのだろうか。「いつか」でも、同じみずみずしさで目の前で咲いていてくれると信じられるのだろうか。自分の築き上げてきたものを手放してまで、急いで追わなくてもいいはずだって。
「絶対」なんてない。「いつか」なんてない。感情はあっという間に変わっていく。それは、その感情が弱いとか、意志が弱いとかそういうことではない。永遠に咲き続ける桜が、散っていく桜より美しいなんてことはない。
愛が貫けないのは、あなたが弱いからだ、愛が本当でなかったからだ、と言う人のことを、私は幼稚だと思っている。そう言えるくらい、世界が簡単ならいいね。愛が永遠ならいい。永遠が真実ならいい。でも本当はそんなシンプルなことではない。人と人の心が、完全に一致して、離れることがありえないほど「同じ」になれたなら、それが「恋」だとしたら、気持ち悪いな、と思う。
人は、「あなたでなければならない理由」を絶対的に持った相手に恋をするのではない、と思う。あなたはこの世にただ一人の人。ただ一人の代わりも同じもいない孤独な人。「同じになれる人」も「あなたでなければならない人」もこの世にはいないけれど、でも、出会って、一瞬「あなたが好きだ」と思うなら、誰かにそう思われるなら、それは、あなた一人だけが受け取った陽の光だ。
そもそも、そんなくっきりと100%を知っている他者など存在しない。すべてが同じだと言えるほど「すべて」を知っているわけでも、「あなたでなければならない」と言えるほど、「あなた」を把握しているわけでもない。
自分にとってその人が世界でただ一人の、他に代わりがいない存在だと思う理由なんて、特にないまま、偶然に出会い、関わり、そして私とあなたの間に物語ができる。その物語を共有するのは私とあなただけで、だから私たちは互いに特別。なりゆきのようなもの。あいまいなもの。海の沖合の光を宝石だと信じるようなこと。それでも、縁が深まり、信じているのだと伝えて、信じてくれているのだと信じて、そうやって互いの手を握るからこそ築いていける「確かさ」がある。人は、それぞれが異なるものを持ち過ぎているから、きっとそれが摑めるすべてなのだと思う。そしてそれは、「絶対的な理由」より脆い、なんてことはない。それは、生きる時間によって紡いだ、手作りの「確かさ」だからだ。
他人からすれば、ただのなりゆきの出会いと、日々の積み重ねでしかないのかもしれない。ありきたりな出会いと恋なのかもしれない。けれど、そこに長い時間が注がれて、人生の一部として、「私」の中で輝いている。それ以上の「私」にとっての真実ってないだろう。誰にも宝石には見えない、小さな石を強く握りしめてひたすら駆け抜けていくことで、手のひらの中で火がついたように、その石を熱く熱く感じるようになる。その人にとってだけその石は、ある時点から、星になるんだ。
もしも不意に、握りしめた手を広げる瞬間が来たのなら、その手にあるのはただの石だとわかるのかもしれない。それは本人の意思であることもあれば、なんらかの悲しいきっかけ、避けられない出来事であることもあるだろう。そうして、そこにあるのが普通の石だということを知った人は、最初はそれに傷つくのかもしれない。けれど、大切なのは、握りしめていたその時、確かにその手には恒星があった、ということだ。人生って、そんなふうに「私が信じたもの」が真実になる場所なのだと思う。信じた瞬間、心が最高速度になった瞬間、あなたが見たものがあなたの「本当」。愛が消えてしまったとしても、覆せないものがたくさんある。あなたは人を愛せた、という事実は、愛そのものより美しいだろう。
恋に溺れて夢を諦めるような話や、仕事が疎かになる話を見るたびに、それがその人にとってくだらない仕事や夢だったのだと言ってしまうのは悲しい、と思っていた。しかし同時にそう言いたくなる人の、「愛はそんな唯一無二ではない」という気持ちにある根拠にも、私は見覚えがある。「愛は、絶対的なものではない」、本当にそうだ。でもそれでも。それでも、愛はくだらないなんて言えない。宇宙規模から見たら、どうやってもくだらないのかもしれないが、そんな小さな光の中を全力で走り抜けて、そして死んでいく人生だよ。きみの命が走り抜けるスピードが、きみの摑んだものをすべて特別にするだろう。きみにとっての特別だ。他人にはわからない、きみの人生の尊さだ。愛そのものではなく、愛することに費やされたきみの人生の尊さについて、ずっと話しているんだ。
七夕伝説は、特別な二人だから起きたことでもなんでもなく、等身大の恋愛の話のように感じている。私だって織姫や彦星だし、あなただって織姫や彦星だ。たとえば、引き裂かれるのではなく、二人から仕事を完全に取り上げて下界に落としてしまう(そして二人は細々と夫婦として生きた……みたいなの)とか、そんな話だったら最悪だったな、と思う。すべてを失っても愛を取るかどうか、二人が選択するシーンだとか、そんなものがあったら、なにもかも捨てることができる愛以外すべて偽物だと言われてるみたいで、私はこの話が大嫌いになっていただろう。
人は、曖昧なものを互いに信じて、完全にわかりあうなんて不可能ななかで、それでも勇気を出して、見つめあっている。愛ではなく、「愛する人」の勇気が、美しいです。
引き裂かれて、己の人生を大切にしながら、一年に一度逢えるその人のことを大切に思う。それはその「勇気」の象徴のようだ。
織姫が放棄している機織りが彼女にとってどんなものか、彦星は本当の意味ではわからないだろう。彦星にとって牛がどんな存在か、織姫にはわからない。二人がそれらを一時的に忘れ、お互いのことだけを考え、ずっとそばにいたとしても、それでも、相手は自分と同じにはならず、完璧な一つになることなどありえない。互いが置いてきたものがどれほど大切かわかることもないのだから。そして、わからなくていいのだ。完璧な一つになんてならなくていい。そんなものになれないのに、愛するから、だから愛には勇気が必要で、愛する人の勇気は美しいんです。
天の川によって、愛は、「絶対」とか「永遠」とかそんなフィクションみたいな夢を期待するのではなく、現実の問題、人生の問題になっていく。それぞれの人生がある中で、他者を愛するということ。それが、天の川のある関係だ。この二人だけでなく、すべての人の間には天の川が流れている。そうやって、現実としての愛をみな生きている。川の向こうにいる間、お互い、お互いの人生を、頑張りましょう。そうしてそのまま愛していましょう。勇気だけでいいならば、どこまでも、心すべてで、貫いてみせましょう。
(イラスト/三好 愛)




