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復本一郎 新出子規書簡「浮世絵書翰」[『図書』2026年1月号より]

新出子規書簡「浮世絵書翰」

 

 大正10年(1921)12月5日発行の雑誌『錦絵』第37号中に、従来知られていなかった子規書簡が眠っていた。同誌の表紙に載っている目次に、

浮世絵書翰  故正岡子規

と記されている。本文4頁には「俳人正岡子規の浮世絵書翰」として、左のごとく掲出されている。句読点、振り仮名等を付して全文を示してみる。

  うき)))るい)こう)

 右は寛政の頃、ささ))くに)のり)の著ハス所ナル由、後、きよう)でん)さん))等増補して、続浮世絵類考といふ。そをげつ)しん)更に増補して、増補浮世絵類考といふ(此書は活版にて当地のある所より売出也)。浮世絵類考はえん)せき)じつ)しゆ)中にありしかとも覚え候へども、其他に小生は見たることこれ)なく)候。只、当時の活版本のみ所持致居候。もつと)も増補浮世絵類考(新増補に非ず)は現に温知叢書第四編中に挿入致あり)候故、御購求になるのは訳なく、又、新増補の御購求の御望ありながら、御地に御見当りこれ)なく)候はゞ、御送可申上まうしあぐべく)候(代価三、四十銭と覚え候。とにかくやすきもの也)。錦絵ならばどれでもよろしかるべく、)し又赤本、黒本、古本草双紙等にて、○○ママ)○○○○○○○○○○○書物あるべく候へども、それとても新増補浮世絵類考と附録致在り候へば、それでもたるべく候。吾妻錦絵類考あずまにしきえるいこう)といふ本も、外題の違ふからで、浮世絵類考と寸分違ひこれ)なき)よし)に候。物の本))さく)しや))るい)とかいふ本は、温知叢書中にこれ)あり)候。

 国華一号より(何号まであるかしらず)フエノロサの浮世絵史考といふもの掲載いたし)あり)候。

 右、思出おもひだし)々々おもひだし)申上候故、不順序に御座候。当地錦絵の一班をいへば、二代豊国(こう)ちよう)ろう)又は))てい)といふもの)尤も多し。後に二代豊国といふものは実は三代ナルヨシ。又是等の画工は代々同名故、初弟子は分りがた)き処これ)あり)候。次は初代豊国、よし)むね)よし)とし)の先生)等なり。しか)これ))は、小生ももちをり)候ものにて、餘り珍らしきものにはこれ)なく)、歌麿、しゆん)しよう)など))は中々えが)たき)ものにこれ)あり)候。歌麿は左程珍らしくもなく、)つ近来翻刻もの絵草子にヘンポンとひるがへ)をり)候。春章は容易に見当らず。又、すけ)のぶ)の彩色画(多くはえん)))ト称スルごく)粗末な彩色)の如きは中々珍宝にて、又まれに)御座候(小生、二、三枚を所持す。是小生画文庫中の玉。呵々)。更にまさ)のぶ)もろ)のぶ)の如きに至りては總てこれ)なし)

 以上もと)より版行ものについ)て、肉筆は小生など知ル所に非ズ。君一ツ又平の肉筆デモ堀り出し給へ。それらの珍宝は到底えが)たき)ゆへ)、金のないものは書物(種々の絵本)にて画工をあつめるものあり。それならば師宣とても珍らしからず。小生も二、三冊所持いたし)をり)候。

餘り長くナルカラ以下次号。

十月すゑ  西の子

小生といへども不自由でたまらんから、どこかへ下宿して見たいと思ふてゐます。

君早クトリ給へ。

  旧製拙句

家にまつ女房もなし冬の風

呵々

 

 名宛人も執筆年代も不詳であるが、子規の『浮世絵類考』に関する見解が窺える貴重な書簡である。

 執筆年代の手がかりとなるのが署名の「西の子」。明治24年(1891)9月16日付河東碧梧桐、高浜虚子宛書簡では「西子」と署名している。大いに注目してよいであろう。この時、子規は、本郷真砂町18番地の常盤会ときわかい)寄宿舎にいた。簡末の「小生といへども不自由でたまらんから、どこか下宿して見たいと思ふてゐます」は、そのことを言っていると思われる。このことと、同年10月21日付くが)かつ)なん)宛子規書簡で、

小生、先日来下宿致したき)心願しきり)にて相探し候へどもかつ)こう)の場処これ)なく)、困り居候。

と述べていることとは符合する。ちなみに、「旧製拙句」として示されている、

家にまつ女房もなし冬の風

の一句は、句稿『かん)ざん)らく)ぼく)』中の明治24年の抹消句であるので、「旧製」といっても、ほんの少し前の作、との意味であろう。

 そこで、書簡本文の検討に入る。まず、冒頭に出てくる笹屋邦教である。『国書人名辞典』第2巻(岩波書店)をひもと)くと、 

笹屋邦教(ささやくにのり) 商家 〔生没〕生没年未詳。江戸時代後期の人。〔名号〕笹屋邦教と称す。〔経歴〕江戸日本橋本銀町で縫箔屋を営む。

 〔著作〕浮世絵類考 編〈寛政一二〉

と見える。この記述に明治22年(1889)刊『新増補浮世絵類考』が少しく補ってくれる。左のごとく記されている。

笹屋邦教 称新七郎本銀町壹丁目に住して縫箔屋を業とす

 通称が笹屋新七郎であることが新たにわかる。また日本橋ほん)しろがね)ちょう)が、より詳しく本銀町壹丁目と記されている。山東京伝(1761―1816)、式亭三馬(1776―1822)はいいであろう。この二人が増補して『続浮世絵類考』となった、と子規は説明している。この『続浮世絵類考』を増補した斎藤月岑(1804―1878)は『武江ぶこう)ねん)ぴょう)』の著作者として知られている。月岑増補のそれが『増補浮世絵類考』だと、子規は説く。「此書は活版にて当地のある所より売出也」と記しているが、筆者架蔵本は、明治23年(1890)5月再版のもの。著者は「山形県士族」本間光則(東京小石川区諏訪町廿七番地)、発行者は「新潟県平民」万松堂・西村六平(新潟県北蒲原郡水原町第475番戸)、印刷者は、近藤圭造(東京麹町区飯田町5丁目26番地)、発兌元は、東京博文館、春陽堂となっている。子規が「浮世絵類考」を執筆したのは、先にも述べたように、明治24年と思われるので、この本を披見した可能性は少なくない。念のため『正岡子規文庫目録』(法政大学図書館)を繙いてみると、やはり、この本であった。

 「浮世絵類考は燕石十種中にありしかとも覚え候へども、其他に小生は見たることこれ)なく)候」――『燕石十種』は、江戸時代の風俗に関する随筆を集めたもの。子規の読書範囲の中にあったことは注目してよいであろう。『燕石十種』中に入っているのは『無名翁随筆』(無名翁は、浮世絵師けい)さい)えい)せん))と書名されている『続浮世絵類考』。続けて子規は、次のごとく記している。 

増補浮世絵類考(新増補に非ず)は現に温知叢書第四編中に挿入致在候故、御購求になるのは訳なく、又新増補の御購の御望ありながら、御地に御見当りこれ)なく)候はゞ、御送可申上候(代価三四十銭と覚え候。とにかくやすきもの也)。 

 子規は『近古文芸温知叢書』にも目を通していたことが窺える。右に子規が記しているように『増補浮世絵類考』は、『温知叢書』第4編中に収録されている。明治24年4月23日刊。発行は、博文館。定価は、25銭。

 少しく曖昧な記述が続くので省略するが「それとても新増補浮世絵類考と附録致在り候へば、それでもたるべく候」とあるのは、慶応つちの)えたつ)春(この年の9月8日、明治と改元)の前書のあるりゅう)でん)しゃ)しゅう)きん)補の『新増補浮世絵類考』を指している(この書は『日本随筆大成』第2期11に収められている)。竜田舎秋錦なる人物については未詳。子規は、次のごとく続ける。

吾妻錦絵類考といふ本も、外題の違ふからで、浮世絵類考と寸分違ひこれ)なき)由に候。

 このことについては『温知叢書』所収『増補浮世絵類考』の「解題」においても、

一種吾妻錦絵類考と題するものあり。本編と全く同書なり。後人のみだ)りに改題したるものならん。

と記されている。子規は、この「解題」を参照したものであろうか。次に、やや唐突に、

物の本江戸作者部類とかいふ本は温知叢書中にこれ)あり)候。

との記述がある。これは、資料冒頭に記した京伝、三馬との関係より、子規の中で発想されたものであろう。子規の記述どおり、『近古文芸温知叢書』の第5編(明治24年5月18日刊)に『近世物之本江戸作者部類』は収録されている。また、慶応4年春の竜田舎秋錦の前書のある『新増補浮世絵類考』の付録として「戯作者略伝」が付されているので、それとのかかわりで、話柄が『近世物之本江戸作者部類』に転じたということでもあろう。先のやや判然としない「又赤本、黒本……」の条も、このことを言わんとせんとした、ということとも思われる。

 話は、明治11年(1878)に来日し、明治23年までを過ごした、アメリカの東洋美術研究者アーネスト・フェノロサに移っている。そのフェノロサが、雑誌『国華』1号より「浮世絵史考」なる論文を連載しているというのである。『国華』が子規の目に触れていたということが窺える。この連載が「何号まであるかしらず」と記しているが、第8号に「未了」とあるので、第8号まで。以上を、子規は、不順序に思い出し、思い出ししながら綴ったとしている。

 ここから転じて、子規は、東京の錦絵流布事情を述べている。子規の筆先に上っている絵師たちは、順に、二代歌川豊国、初代歌川豊国、歌川芳宗、喜多川歌麿、勝川春章、西川祐信、奥村政信、菱川師宣、等である。子規は正直に「以上固より版行ものに就て、肉筆は小生など知ル所に非ズ」と吐露している。

  「君一ツ又平の肉筆デモ掘り出し給へ」の「又平」は、正しくは「又兵衛」、岩佐又兵衛であり、『新増補浮世絵類考』では、「岩佐又兵衛」の項に、

世人呼で浮世又兵衛と云。世に又平と云は誤なり。

と記されている。そして、子規は、最後を、

それらの珍宝は到底えが)たき)ゆゑ)、金のないものは書物(種々の絵本)にて画工をあつめるものあり。それならば師宣とても珍らしからず。小生も二、三冊所持いたし)をり)候。余り長くナルカラ以下次号。

と結んでいる。

 以上、雑誌『錦絵』第37号中に眠っていた正岡子規の浮世絵書簡について紹介、少しく検討を加えてみた。「余り長くナルカラ以下次号」は、子規のユーモアであろう。『錦絵』第38号は、大正12年(1923)1月1日に発行されているが、子規の浮世絵書簡は、掲載されていない。

(ふくもと いちろう・俳文学)


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