復本一郎 子規の文鳳絵解き一件[『図書』2022年11月号より]
子規の文鳳絵解き一件
晩年の子規の楽しみは病牀で絵本を見ることにあった。中でも川村(河村)文鳳の絵本を好んで繙いた。文鳳は、安永八年(一七七九)京に生まれ、文政四年(一八二一)に四十三歳で没している。子規は、広重と文鳳を「景色画の二大家」と高く評価しつつも、文鳳の絵に対して「世間ではそれほどの価値を認めて居ないのは甚だ気の毒に思ふ」との感想を、最晩年の随筆『病牀六尺』において述べている。子規の時代に版行されている狩野寿信編『本朝画家人名辞書』(明治二十六年六月、大倉保五郎刊)には、
文鳳 河村文鳳、名ハ亀、字ハ俊声、京都ノ人ナリ。画法ヲ岸駒ニ学ビ、殊ニ人物、生類ヲ能クス。文政年中。
と記されている。子規は、この解説に目を通していたことであろう。文鳳の絵本の中でも、子規が注目したのは、『手競画譜』であった。『病牀六尺』中、「日本新聞」明治三十五年(一九〇二)五月十二日付に発表されている「六」回に、左のごとく記している。
『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画はいづれも人物のみを画き、文鳳は人物のほかに必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向なきものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、かつその形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。
「南岳」は、渡辺南岳。明和四年(一七六七)に京に生まれ、文化十年(一八一三)に四十七歳で没している。「応挙門中十哲ノ一人」(『本朝画家人名辞書』)。右では文鳳を高く評価し、「もとより南岳と同日に論ずべきに非ず」とまで断じている。ただし、後日、南岳の「艸花画巻」を目にしていたく感嘆、「余の命の次に置いて居る草花の画であつたために、一見して惚れてしまふたのである」とまで述べることになるのである(八月三十一日「百十一」回)。
が、今はそのことは措いておいて、あくまで『手競画譜』に焦点を合わせる。正しくは『南岳文鳳手競画譜』。もともとは、上田秋成作の十八番の狂歌合(左が楮道心、右が篁処士としてある)に、南岳、文鳳が絵を加えて、秋成没後の文化八年(一八一一)に『海道狂歌合』上・下として刊行されたものである。それが、後に、下巻の絵の部分のみが独立して『南岳文鳳手競画譜』として流布したのであった。この本、また、文政七年(一八二四)正月、文ちょう※堂(吉田新兵衛)より『南岳文鳳 街道雙画 全』として出版されている。私の架蔵本はこれであるが、内容は、『海道狂歌合』下巻によっており両者はまったく同じである。元来は、全十八番の狂歌合であり、その左の楮道心(秋成)の狂歌に絵を付しているのが南岳、右の篁処士(秋成)の狂歌に絵を付しているのが文鳳ということである。
※「ちょう」の漢字は「徴」の異体字。「山」と「王」のあいだに「一」が入る
子規は『病牀六尺』の「十」回目(明治三十五年五月二十二日付「日本新聞」掲載)に、まず、「文鳳の方に絵の趣向の豊富な処があり、かつその趣味の微妙な処がわかつて居るといふことは、この一冊の画を見ても慥に判ずることが出来る」として、
ここには『手競画譜』にある文鳳のみの絵について少し批評して見よう。(もとこの画譜は余斎(筆者注・秋成)の道中歌を絵にしたものとあるからして大体の趣向はその歌に拠つたのであらうが、ここにはその歌がないので、十分わからぬ。)
と記している。子規は、文鳳の十八枚の絵の総てを、文章によって批評してみようというわけであるから、大変な力業である。ここでは、「日本新聞」五月二十四日付に掲載の「十二」回中の『病牀六尺』に見える子規が批評するところの「十六番」の右の絵の記述に注目し、下に全文を引き写してみる。その前に、別掲の「十六番」の文鳳の絵をまずは見ていただき、それから、次の子規の文章をお読みいただきたい。子規の文章力に少なからず感嘆させられるであろう(口述筆記と思われる)。
十六番の右は鳥居の柱と大きな杉の樹とがいづれも下の方一間ばかりだけ大きく画いてある。それは社の前であるといふことを示して居る。その社の前の片方に手品師が膝をついて手品をつかつて居る。襷をかけ、広げた扇を地上に置き、右の手を眼の前にひらけて紙屑か何かの小さくしたのを散かして居る。「春は三月落花の風情」とでもいふ処であらう。この手品師が片寄せて画いてあるために見物人は一人も画いて居ない。そこらの趣向は余り類のない趣向である。
子規は「批評」と言っているが、『手競画譜』十六番右の文鳳画の「絵解き」である。子規は「鳥居の柱と大きな杉の樹とがいづれも下の方一間ばかりだけ大きく画いてある」と読み解いている。「鳥居の柱」はその通りであろうが、「杉の樹」はやや無理があるように思われる。が、ともかくも「社の前であるといふことを示して居る」ことは納得し得る。次に左側に描かれている人物である。子規は「手品師が膝をついて手品をつかつて居る。襷をかけ、広げた扇を地上に置き、右の手を眼の前にひらけて紙屑か何かの小さくしたのを散かして居る」と読み解いている。これもなるほどと納得し得る。その「紙屑か何かの小さくしたのを散かして居る」のは何なのか。子規は、手品師の口上「春は三月落花の風情」を紹介している。すなわち手品師が散らしている「紙屑か何か」を「落花」が風に舞っている様と見ているのである。そして文鳳のこの絵を「この手品師が片寄せて画いてあるために見物人は一人も画いて居ない。そこらの趣向は余り類のない趣向である」と解し、文鳳のこの「趣向」を高く評価している。
「日本新聞」掲載の『病牀六尺』は、連載当時から、熱烈なる読者を獲得していたようである。例えば、『病牀六尺』の最後「百二十七」回目(九月十七日)に登場する芳菲山人(西芳菲)なども、その一人であったように。そして、この『手競画譜』文鳳論にも注視していた読者がいて、子規を覚醒させているのである。子規のもとに寄せられた読者某の指摘に、子規は素直に従っている。明治三十五年(一九〇二)六月十四日付「日本新聞」掲載の『病牀六尺』の「三十三」回目の末尾に、「正誤」として左のごとく記している。「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」(『論語』)というわけである。
「病牀六尺」第十二に文鳳の絵を論じて十六番の右は鳥居の前に手品師の手品を使つて居る処であると言つたのは間違ひだといふ説もあるから暫く取消す。
読者某は、恐らく文化八年(一八一一)版『海道狂歌合』の上巻に目を通していたのであろう。そこには「十六番」の右の作者篁処士(秋成)の狂歌、
ぬさぶくろ
秋の葉に色くはゝれる風のぬさあらぶる神のこゝろなごめん
が示されている。すなわち、文鳳は、この狂歌を絵としたのであった。題の「ぬさぶくろ」は、「綾錦の五色のきれなどを入て首にかけ道祖神を祈る手向にする也」(『和訓 栞』)ということである。一首の意味は「秋の紅葉の葉に「ぬさ」の「五色のきれ」が風に舞って加わり、これにて「荒ぶる神」の心をおだやかにしよう」ということになろう。とすれば、文鳳の絵は、子規の絵解きのごとき春「三月の落花の風情」ではなく、秋の紅葉に加わって風に舞う「五色のきれ」、ということなのである。子規が言う襷がけの男の絵は、襷ではなく、「ぬさぶくろ」を前に吊し、後で結んでいる様だったのである。「手品師が片寄せて画いてあるために見物人は一人も画いて居ない」ということではなく、一人「ぬさ」を撒き、旅の安全を祈願している絵なのであった。
子規は、『手競画譜』全十八番の右の文鳳絵すべてにわたって、明治三十五年(一九〇二)五月二十二日、二十三日、二十四日付(「十」回、「十一」回、「十二」回)の「日本新聞」の『病牀六尺』において見事な「絵解き」を試みたのであったが、右に見たように「十六番右」のみは、その「絵解き」を誤ったのであった。
病牀での子規は、さまざまな絵本を繙き、眺めることを無上の楽しみとした。従来、そんな子規と絵本との関係の検討が手薄であったように思われる。小稿は、その一つの試みである。
*テキストは、二〇二二年二月十五日刊行の岩波文庫本『病牀六尺』の改版第一刷によった。
(ふくもと いちろう・俳文学)