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赤坂憲雄 武蔵野は地人考のフィールドになる[『図書』2026年1月号より]

武蔵野は地人考のフィールドになる

 

 震災が大きな転換をもたらした。その数か月前に拠点を東京に戻していたわたしは、あらたな地域学の可能性を探りはじめた。東北学の延長上に、やがて武蔵野をフィールドとした地域学が生まれてくるだろうと、ぼんやり想像していた。いつしか、あることに気づいた。たとえば、武蔵野からの学びをテーマに講演をする。あきらかに、聴衆の反応はそれまでとは違っていた。東北とかぎらず、地域学の担い手の多くは、その土地に生まれ育った人々であった。だから、地域学はそこに暮らす人々の内なるアイデンティティを再構築するための、いわば文化的な仕掛けとして受容されている。しかし、どうやら武蔵野というフィールドでは、いくらか事情が異なっていた。聴衆の圧倒的な多数派は、外からの新来の移入者か、せいぜいが2、3代前にどこか地方からやって来た移入者の子孫であった。土着の武蔵野人に出会うことなど、滅多にない。そこでは、地域学の存在理由そのものが、まず問われねばならなかった。

 東北では、わたしは父が福島の出身であるとはいえ、どこでも都会からの訪れ人、つまりマレビトとして迎えられた。そして、武蔵野という、幼少期から育った場所に20年振りに還ってきたとき、今度は自身が移入者の子孫であるという現実を突きつけられた。わたしには故郷が存在しない。地域学のフィールドとしての東北/武蔵野のあいだには、まさしく裂け目が存在した。わたしのなかに残された、雑木林と畑と原っぱのある武蔵野の原風景(と、信じてきたもの)は、どうやら移民の子どもゆえの固有なゆがみを抱いた記憶の所産にすぎなかった。それが武蔵野だという思いこみは、速やかに相対化され、遠ざかった。わたしはそうして、ひとたび武蔵野の学びに挫折したのかもしれない。

 いま、『いくつもの武蔵野へ』という、国木田独歩への挨拶状のような『武蔵野をよむ』(岩波新書)の続編を上梓して、ある思いに駆られている。移民の大地としての武蔵野から、新たな地人考を立ちあげることが、これからのテーマになるのではないか、と。なぜ、地域学ではなく、地人考なのか。ここでは、その問いへの覚書のような応答を書き留めておくことにする。

 さて、地人考とはなにか。いささか唐突に、地人考なる言葉が口を衝いて出たとき、わたしはほとんど狼狽したのだった。それはまるで、間歇泉のようにやって来た。しかし、それがなぜ地域学の代わりになるのか、知らなかった。わたしにとって、地人という言葉は、宮沢賢治とその羅須地人協会とともにあり、それ以外ではない。不思議な響きをもった言葉だと感じてはきたが、とりたてて関心はなかった。羅須については定冠詞という解釈にしたがう。本体は地人であったか。それでは、あらためて地人とはなにか。そこでの地は故郷を意味しない、という呟きを書き留めておく。

 わたしの前には、地人論の系譜をたどるための何冊かの本が並んでいる。ここで参照すべき著書と思われるのは、内村鑑三の『地人論』(初版は『地理学考』という書名で、明治二七年)と、石川三四郎訳によるエリゼ・ルクリュの『地人論』(初版は昭和五年)であろうか。しかし、正直に書いておけば、この2つの『地人論』を読んでも地人論の輪郭が浮かびあがるわけではない。地人論はたぶん、体系にいだかれた叙述をめざさず、知の向かうべき方位だけを指し示している。そもそもわたしは、地人とはなにか、という問いを前にして立ち往生させられてきた。宮沢賢治その人が、同時代の思想家である内村鑑三と石川三四郎の影響を受けていることは、斎藤文一が『宮澤賢治―四次元論の展開』(国文社)のなかで論じている。その第6章は「地人論の系譜」と題され、賢治の地人論への流れがたどられており、とりあえずの参照枠になる。

 斎藤によれば、地人論は「抑圧された者の解放」という理念に支えられていた。その基礎には、「地・人ともに、自然的・普遍的な権利を持つ」という考え方や、「神のもとでの被造物としての人間の平等」といったキリスト教の信条に近いものが見いだされる。地人論の系譜のはじまりには、たしかに内村鑑三の『地人論』が存在したが、それはほかならぬ花巻の地で、斎藤宗次郎を仲立ちとして賢治に伝わった、と斎藤文一はいう。羅須地人協会の時代に、賢治は「地人芸術概論」と題した講義を行ない、「農民と云わず地人と称し」とか、「農民芸術とは宇宙精神の地人の個性を通ずる具体的なる表現である」といった言葉を残していた。農民ではなく地人という言葉が、より宗教哲学的な意味をこめて選ばれたようだ。あるいは、賢治の蔵書目録のなかには、無政府主義者である石川三四郎の『非進化論と人生』が含まれていたらしい。その著書へのエリゼ・ルクリュの『地人論』の影響は大きい。賢治の「農民芸術概論綱要」には、『非進化論と人生』が大きな影を落としている、と斎藤は指摘する。石川は『土民芸術論』のなかで、デモクラシーを「土民生活」と翻訳しているが、それは土民という「地の子」の自治の生活を指していたらしい。賢治の農民芸術論は、あきらかに石川三四郎の『土民芸術論』の影響下にあったかと思う。

 斎藤によれば、賢治の地人には以下のような多面的な意味が託されていた。第1に、地人は大地を対象にした直接生産者であり、宇宙を含めて大地のあらゆる生命と共生するものであり、第2には、それは農民以下の者や、農民にもなりえない者を指していた。第3に、法華経が示す「地涌の菩薩」という言葉、第四には、内村鑑三の『地人論』の影響が見られる、とされる。賢治の地人は、「大地のあらゆる生命と共生する、生産即芸術の世界を理想とし、実践的には農業の資本主義化と戦うという、世界史的な課題を担うもの」である、そう、斎藤は述べていた。前半は首肯されるが、後半については判断を留保せざるをえない。わたし自身がいまだ、そこまで届いていない。

 それにしても、賢治にとっては、地人とは地の人、地に生きる人であり、微妙に農民とのズレを抱えこんでいた。とはいえ、農民を地人に置き換えるには、どこか生煮えな言葉に感じられ、逡巡があったのかもしれない。石川三四郎などは、農民より広やかな概念として土民といい、そこには農民や工場労働者が包括されていたらしい。あらためて、地の人とはだれか。琉球では地人はジニンとよまれ、農村の中核をなす農民を指していたらしい。いずれであれ、地人は地に生きる人、地に生かされる人、だから地を耕す人ではあったが、そこに収斂されるのは窮屈であり、地を這う人、地を駆ける人、地を移ろう人などへと広げておきたいと思う。宮崎駿監督の『もののけ姫』には、ジバシリ(地走)と呼ばれる山野を駆ける狩猟集団が姿を見せる。地に生きる人はただちに農民を指すわけではないことを、確認しておいたほうがいい。さらに、地人の地が定住や故郷を一義的に意味するわけではないことにも、あらためて注意を促しておく。

 わたし自身は、地の人の呪縛からも解き放たれるべきだと感じている。それを、地域学からの離脱という意味合いも込めて、地と人、大地とそこに生きる人間をめぐる考察へと読み換えてみたい気がする。そうして、いつしか地人論ですらなく、地人考へと立ち位置を移すことになった。武蔵野という大地と、そこに生き死にを重ねてきた人間たちこそが、地人考の主役となる。農の人だけを主人公にして、武蔵野という歴史・文化的な風土を描きだすことはそもそも不可能なのである。その農が水田稲作と結ばれるとしたら、なおさらトータルな風土の叙述はむずかしくなる。

 武蔵野の地人考はむしろ、10万年前から古多摩川がえぐり刻んできた大地の紋章のうえに、3万年前の旧石器時代以降、くりかえし棲み処を求めて移り住んだ人々とその末裔たちが織り成してきた、いわば風土のタペストリーを解析することをめざす知の営みとなるはずだ。武蔵野はまさしく移民の大地であった。多摩川や野川、湧水とそこから流れだした幾筋ものほそい河川と、玉川上水をはじめとする人工の水路を起点として、武蔵野のはじまりの風景は描かれてきた。わたしが原風景と信じてきた雑木林と畑と原っぱは、水辺からは遠い、台地上に広がっていた草の武蔵野を切り拓いて近代以降に産み落とされた、もっとも新しい異相の風景だった。大正から昭和にかけての移民とその子孫は、それを擬似的な故郷として再発見した。国木田独歩もまた、そうした移民の一人であった。それゆえ、「武蔵野」のなかで、消滅に瀕した黄昏の雑木林を武蔵野の原風景として発見し、懐かしく描いたのである。独歩はむろん、その雑木林が、江戸という都市の開発とともに生まれた、あくまで近世的な副産物であることを知らなかった。

 くりかえすが、それぞれの故郷を棄てて、帝都・東京の周辺に棲み処を求めた移民とその末裔たちは、そこを新たな故郷として選び取ろうとした。帝都の郊外は、中央線や私鉄沿線が放射状に伸び広がってゆくなかで、ささやかな名所・旧跡とともに再編されていった。葛飾北斎の武蔵野図では、どうやら多摩川と玉川上水にはさまれた武蔵野台地の草と雑木林のなかに、甲州街道に沿って村々が点在していた。われわれはいま、もうひとつの武蔵野図を生かされている。思えば、独歩の武蔵野は甲武鉄道、いまの中央線の開通以後に属している。信子との玉川上水べりの逢瀬は、開通したばかりの甲武鉄道なしにはありえなかったのだ。帝都の力学は故郷を棄ててきた移民たちを、武蔵野という、牧歌的なふるさとの幻想空間へと誘い回収することになった。

 移民の末裔たちは近代によって、国家によって、幾重にも引き裂かれながら、西へ、西へとそれぞれの旅を強いられていった。武蔵野/東京をめぐる構図は、あらためて再編されるべきときを迎えている。そこに、帝都の東に広がる東京湾沿いの世界が視野に収められることで、さらに豊饒な帝都とその郊外をめぐる景観が生まれてくるのかもしれない。それを西の武蔵野と呼んでみたい気はするが、これからのテーマだといっておく。武蔵野をフィールドとする地人考はいま、ようやく幕を開けようとしている。

(あかさか のりお・民俗学)


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