思想の言葉:雑賀恵子【『思想』2026年2月号 特集|ポストヒューマン文学研究】
【特集】ポストヒューマン文学研究
〈討議〉物語と想像力の行方
──ポストヒューマン的転回と文学研究
小川公代・本橋哲也・結城正美
* * *
ポストヒューマン文学史
──『フランケンシュタイン』から『わたしを離さないで』まで
小川公代
能の身体史
──鬼からサイボーグへ
横山太郎
異種の存在に対する倫理的責任とは
──ポストヒューマニズムと演劇
塚本知佳
森と島は考える
──シェイクスピア演劇におけるポストコロニアリズムとポストヒューマニズムの連接
本橋哲也
カズオ・イシグロ『クララとお日さま』にみるポストヒューマニズムの相貌
結城正美
その男,ポストヒューマンにつき
──ホイットマン,ピンチョン,『ブレイキング・バッド』
波戸岡景太
ヒューマニティの再構築に向けて
──アフリカ文学と多元的共生の想像力
粟飯原文子
関係の思考
──ミハル・アイヴァスの「パッサージュ」
阿部賢一
人新世のトルコ文学
──ラティフェ・テキン『マンヴェス・シティ』,『漂流』とオルハン・パムク『ペストの夜』を中心に
宮下 遼
光との対話の試み
──津島佑子『光の領分』論
村上克尚
ポストヒューマンの条件,韓国SF文学の条件
──キム・チョヨプの2つの長編とそのオブジェクト
黄鎬徳/渡辺直紀訳
〈三体〉から『羅小黒戦記』へ
──「長い90年代」を超える現代中国の思想=文化
楊駿驍
* * *
ポストヒューマン的転回
──近年のアメリカ文学における「種」の変換
ウルズラ・K・ハイザ/本橋哲也訳
「私たち」は共生してはいるが,1つでも同じでもない
ロージ・ブライドッティ/本橋哲也訳
生の意志を物質は持つ
ある夜半、目覚めて起き上がろうとすると、全くもって体が動かない。いつもは取り立ててなにも考えずにすることなのだが、どこにも力が入らないので、明確な意志をもってしてもまるで反応がない。腕はかろうじて動くので姿勢を変えようとすると、思わず悲鳴を上げるほどの激痛が全身に走る。腕を使いベッドから転げ落ち、立ち上がろうとしても足はへなへなとなり、ともかくも這いずっているうちに、ようやくあちこちに摑まり支えを受けて移動できるようになった。あとから知ったことであるが、極めて強い薬剤を使って胴体の内部のあちこちにできた大きな異形細胞の塊を破壊して小さくするという過程の中で、変形した塊が神経を圧迫したのが原因らしい。ともかくも、その時は、体を巡っている神経系が断線した、電気が通っていないと思えて、人間の体は機械のようなものだと実感し、面白い経験だった。つまり、意識というものが体とは別にあり、自分が体という物体を運転しているという実感である。
しかし、その自分さえ、揺るがせになることがある。いまいる部屋から台所に行ったはいいが、なにをしにきたのか忘れてしまったり、今まで考えていたことがすっと消えてしまったりすることがある。そういう時は、意識の流れが断線したとか、混線したとかという実感がある。自分という意識もまた、物質の運動によって呼び起こされる映像のようなものだという実感である。
心―脳問題は、さておこう。人体は、いや、生物は、物質であるのだ。
多細胞生物である人体は、内臓や骨や筋肉や皮膚や脂肪やその他多種多様な器官からさまざまな物質を放出している。それを受容した器官は、その物質の意味を読み取って、反応する。
たとえば、こんなふうに。
酸素の薄い環境に人体が置かれるとする。人体に酸素が不足すると、腎臓は普段微量に放出しているエリスロポエチンという物質を大量に放出し始める。エリスロポエチンは血管の流れにのって体内を巡り、骨の隙間を流れる血管から骨髄に入る。骨髄の中にある造血幹細胞から分化した赤血球前駆細胞がエリスロポエチンを受け取ると、赤血球前駆細胞の増殖が加速して赤血球が増産される。こうして、酸素を運ぶ赤血球が増えることにより体中に酸素が行き渡るようになる。
栄養を吸収した腸はインクレチンを放出し、それを受容した膵臓はインスリンを分泌して血液中のブドウ糖濃度を調節するし、同じく胃は胃の内容物の排出速度を遅らせ、脳が受容すると食欲が抑制されたりする。
こうして書くと、どうしても原因と結果がある反応のようになってしまう。それはそうとも言えるのではあるが、人体の外部環境と擦れあいながら、あらゆる器官が絶えず運動し、情報となる物質を放出し、さまざまな器官が連関し、都度変化する無数の流れの中で行われていることなのだ。そしてまた、器官というのはある孤絶した塊ではなく、無数の穴が開き、繫がり、融合したものである。
しかし、言語を用いてこれを書き留めようとすると、ある部分を一つの独立した器官として名前をつけ、そこで起こっていることを、部分に分節して記述せざるを得ない。
なぜなら、言語は、つまるところ線形記述しかできないからである。
それはともかく。
人体を構成している臓器は、細胞で構成されている。DNAを持つものと、赤血球のように持たないものがあるが、DNAを持つ細胞は、通常自己複製が可能であるので生命の最小単位と考えられている。だが、細胞内部にも膨大な数の細胞小器官が存在して、これらもまた、細胞の内外からの物質の放出や受容で相互に動き、それぞれの機能を果たしている。どこからどこまでも物質であるのだ。
これら物質がより集まり、かたまり、まとまりをつくり、入れ込み、繫がって形成した人体を総体としての自己として認識し、成長のための変化や代謝、修復、保持などを行って、生きるという運動を営んでいる。物質でできた臓器や器官は、物質の放出や受容を通して情報を伝達し、解釈し、応答する。
つまりは、物質がそれぞれの間で物質をコトバとして会話しているのだ。
物質間のコミュニケーションによって、総体としての自己は生を営むのであるが、自己は個体性を持ち、唯一無二の個物となる。コミュニケーションの解釈や応答からやがて情動というものが生まれてくるのかも知れない。過剰―充足―欠乏、快―不快というように。これは無論人間ばかりではなく、もちろん哺乳類や鳥類ばかりではなく、さらには魚類ばかりではなく、自然界の生物を観察した映像などを見ると、クジャクグモにも、ウミウシにも、そのほかの多細胞生物にも個体性があって、情動というものがあるのではないか、と思えてしまう。
物質のコトバは、個体内部だけではなく、他の個体とのコミュニケーションにも使われている。
たとえば、こんなふうに
アカシアはタンニンを防御物質として利用している。キリンに葉を食べられると急激に苦味を持つタンニンを産生してそれ以上食べられないようにする。と、同時に、伝達物質としてエチレンガスを放出する。エチレンガスは風に乗って撒き散らされ、近隣の樹木がエチレンガスを受容すると、被害を受けていない樹木は警告と読み取ってタンニンを作り始め、襲撃に備える。
また、毛虫に食害された植物は、毛虫の天敵である寄生蜂を誘引する何種類かの揮発性物質のカクテルを放出して蜂を呼び寄せる。このカクテルの配合比率の違いによって、寄生蜂は、今どの植物がどの毛虫に食べられているのか感知する。
地球上のあらゆる生物は、究極のところ物質で構成されており、物質のコトバを飛び交わしてコミュニケーションを取っている。
コミュニケーションの在り方は、状況に応じて、あるいは偶然に変容し、生み出され、消尽する。
物質は、記憶する。
世界の中に在り続ける、個として消滅しても痕跡は残して在り続ける、そうした意志がある。
そうすると、地球そのものが、人間の認識とはかけ離れたところでひとつのなにか運動をするもの、それを生物だとは言えないが、なにかの総体であるというふうにも夢想したくなるのだ。
生命は互いに触れあい、コトバを交わし、食い合いし、むつみ、干渉し、協働し、連関し、入れ込み、繫がり、生成し、消滅し、存続する。そのような生命で溢れかえった地球は、存在することによって、特異なものとして存在することによって、虚空に向けてメッセージを発信しているのだろうか。
孤独に。
人間がいなくとも、世界は存在する。
世界は、生きている。
認識するものがいないだけだ。
人間は、言語で漉して世界を認識する他はない。範疇の中で動く言語によって、世界を細かく分節し、概念化し、解釈し、意味を付与する。その意味は、しかし、時代や社会と共に変化する。
人間という言葉の意味もまた、「われわれ人間」というとき、その「われわれ」性は西欧中心社会の男性から西欧中心社会の男女に、西欧中心社会中心の男女から領域の広がった社会の男女に、理念型としての男女から理念型としての肉体を持つものに、理念型としての肉体から外れたものに、と変容してきた。
さらには、テクノロジーの進展が、肉体の一部を、あるいはほとんどを、全部を機械や人工物と融合させたものが、現在の「われわれ人間」の延長として存在せしめることを可能にしている。
もっともこうした存在そのものは、そしてこうした存在がいる世界観そのものは小説や漫画、映像などの創作品のなかではありふれており、現在の哲学や社会学や倫理学などから提起される諸問題について扱われてもきた。むしろ、現実がようやく追いつこうとしていることに、いささかの退屈を覚えるほどだ。
環境に応じて物質のコトバをやり取りしながら、個物としてのまとまりを増殖し、保持し、運動し、分解して個物として停止するのが物質である生の営みであり、進化であるとするならば、機械に置き換わった人間の変容を進化として捉えられるのだろうか。ロボット工学者の石黒浩は、人間は身体や脳の能力を機械やAIに置き換えていき、いずれ最終的には機械に進化する、と提唱している。そうなのかもしれない。それはしかし、地球の物質のコトバとは隔絶したもののように思うのだ。
物質のコトバは、稠密に存在している物質が他と絶えず関わることで、個物として在り続けることを意志して交わされる。そのなかから、情動が生まれる。
言語を持った人間は、世界の存在物に、世界の状態に、世界そのものに、言葉を付与し、解釈し、意味を見出そうとする。価値をつける。功利の価値ばかりではなく、自己にとっての大切さ、情動に裏打ちされた大切さ、愛おしさだ。
世界は人間がいなくとも存在する。絶対的なニヒリズムである。
だが、私は世界を愛する。たとえ苦悩に満ちていようと、悲惨さに覆われていようと、私は、そこに意味を見つけようとする。物質の持つ生の意志を身体の中に実感する。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか。
否。おそらく。




