山極壽一 人間の生き方を根本から考え直させてくれる──山本太郎『微生物世界の探求』を読んで
17世紀のレーウェンフックによる発見以降、微生物世界の探究は、病原体の特定、ウイルスや遺伝子の発見など、多くの科学的知見をもたらし、私たちの生命観、世界観を変革し続けています。400年にわたる壮大な知と精神の旅を描いた『微生物世界の探究──生命誕生の謎へと至る四〇〇年』について、京都大学名誉教授の山極壽一さんに、書評をお寄せいただきました。
人類は縮尺を変えて世界を見る能力を持っている。古来、人々は山に登り、海に漕ぎ出して世界を広く見つめる機会を利用し、人間とはどんな存在なのかを理解しようとしてきた。著者の山本太郎は微生物の研究者であり、細菌やウイルスによってもたらされる感染症の予防や治療に関わってきた医師である。人間の目には見えないミクロな世界を探検する彼が、山登りを好み、縮尺を変えて人間世界を見つめ直そうとするのは至極当然の成り行きかも知れない。冒頭に出てくる谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』という詩は、著者の心を見事に表現している。
著者が言う通り、2011年の東日本大震災で私たちは人間の営みがいかに脆く、地球という惑星が、ちょっとしたくしゃみによって崩れ去ってしまうということを思い知った。著者はその頃から山に登り始めたという。そして、今度は新型コロナウイルスによる感染症によって世界中が凍り付いた。それまで人間がこの惑星の主人公だと思い込んできたのに、細菌よりも小さなウイルスによって生物界が大きな影響を受けていることがわかった。この世界はまだ私たちの知らないことに満ちているのだ。
本書はその反省の下に、人間の目に見えない微生物を発見した時代に遡って、人々がどう微生物とわたり合い、人間と世界の認識を変えてきたかについて解説する。それは、17世紀のオランダに生まれたレーウェンフックの発見に始まる。ガラス球を磨いて顕微鏡を自作した彼は、雨水や血液、歯垢など身の周りのあらゆるものの観察を始め、人類が初めて目にする微小な生き物を発見した。それはイギリスに発足したばかりの王立協会に伝えられて驚きを産んだが、当初は人間や地球にとって取るに足らない存在と見なされていた。それが、この300年間に顕微鏡の改良や生命科学の進展、医学の進歩によって、微生物こそがこの世界を揺り動かす巨大な存在であり、発酵や腐敗、感染症の原因となることがわかってきた。
微生物の発見とその理解の歴史は、望遠鏡の発明による宇宙の解釈と連動していた。ガリレオ・ガリレイは地球と他の惑星の軌道を明らかにし、宗教界から大反発を受けたものの、天体のなかで地球はどんな存在であるかという謎について、大きな一歩を踏み出すことに成功した。それ以後、人々は顕微鏡と望遠鏡によって世界を新しく見る訓練を積み重ねてきた。それには認知や意識の変化が必要だったと著者は指摘する。数々の絵画や小説はそうした変化に対応していた。私たちが実物を縮小し、線や色で表現してそれを認識できるのはこの時代の訓練の賜だったと著者は言う。京都大学霊長類研究所で訓練されたチンパンジーのアイちゃんは、実物のリンゴを見てリンゴという記号を指すことができる。しかし、リンゴという記号から実物のリンゴを指すことはできない。実際には無数の形や色の違うリンゴがあり、それを特定できないからである。私たちがそれを苦もなくできるのは、みんなが了解できるリンゴのカテゴリーを即座に認識できるからである。考えてみれば、これは不思議な能力だ。
さて、微生物の発見から、パスツールやコッホがそれを病原体と結び付けるまで長い時間がかかった。著者はその間に起こった科学革命をわかりやすく解説している。ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論、量子力学に至る過程は何回ものパラダイムシフトを含んでいた。それは、ギリシア的自然観からキリスト教的世界観、そして科学的世界観へのゆるやかな脱皮だった。なかでも病原体の発見から近代細菌学の登場は医学界に大きな変化をもたらした。当初は微生物が病気を引き起こすことに対してさまざまな反対意見が巻き起こったが、天然痘、コレラ、発疹チフスなどの感染症の原因と免疫の関係が明らかになるにつれて、人間の目に見えない世界とそれに対抗する体の仕組みがわかってきた。著者はこの時代に科学という概念についての大きな論争があったことを述べている。
さらに、20世紀の中盤からは遺伝子の発見とその仕組みが解明されて、医学と生物学は大きく変貌する。生物の進化は19世紀の中盤にチャールズ・ダーウィンによって提唱されたが、その分子的なメカニズムが解明されたのはつい最近である。DNAやRNAの塩基配列を解読するシークエンサーの登場によって、ゲノム科学は生物の系統関係と病原体の構造を解析する技術を格段に高めた。著者が長年関わってきた腸内細菌は、どの生物においても消化の中心的役割を果たし、近年臓器や脳の働きに重要な影響を及ぼすとして注目されている。
また、生物の条件を満たさないウイルスの発見は、生物の本質と生物進化についての大きな議論を引き起こした。ウイルスはタンパク質と核酸からなり、細菌の50分の一程度の大きさで、細胞を持たない。生きている細胞に入り込んでそこにある物質を使って増殖する。ウイルスは感染によって宿主のゲノムに組み込まれて、親からの遺伝子伝達とは違う水平伝達によって宿主の適応力が増すことがある。人間の遺伝子の10%はウイルス由来と言われていて、ウイルスは人間に害をなすだけでなく、地球環境の変化に適応するために役立ってきたのである。
この地球に生命がどの様にして誕生したかはまだ解明されていないが、生命の進化の歴史は微生物の活躍の賜として理解されるようになった。現在でも微生物の生息域は上空5000メートルから地下1000キロメートル以上に及び、その総重量は地球上のすべての動植物の総重量より重いというから驚きだ。ウイルスの起源についてもまだ仮説の段階で、その全容は明らかになっていない。一方で、さまざまな生物と共生関係を結び、宿主の環境適応度を上げている例が報告されるようになった。
現代は微生物や病原体の再発見の時代であると著者は言う。微生物どうしが対話をして集団を組み、さまざまな機能を発揮する。人間に常在する細菌の種類は1000種類を超え、その数は100兆個に達する。シークエンス法の技術開発や遺伝子組み換え、遺伝子編集などのゲノム科学の進展によって微生物やウイルスが引き起こす感染症への対処法が大きく変わってきた。また、微生物との共生の仕方もわかってきた。抗生物質の大量投与は耐性菌を作り出し、さらなる害毒をもたらす。肥満や喘息、各種のアレルギー、糖尿病などの生活習慣病は、抗生物質の乱用が常在菌の働きを害した結果であることもわかりつつある。
私たちは微生物の惑星に生きている。その中の一部と共生関係を結ぶことで人間は進化してきた。微生物の生態系こそ、今私たちが解明しなければならないことであり、これからは、微生物やウイルスの働きを重視して、彼らと幅広く共生できるような人間の暮らしをデザインしなければならない。それが本書を通じて著者の伝えたかったことだろう。人間の生き方を根本から考え直させてくれる本だと思う。
【略歴】
山極壽一
1952年生まれ.
京都大学理学部卒業.生態環境生物学,人類進化学,専攻.
京都大学大学院理学研究科教授,京都大学総長(第26代),日本学術会議会長(第29代)などを歴任. 現在,京都大学名誉教授,総合地球環境学研究所所長.
山本太郎
1964年生まれ.
長崎大学医学部卒業.医師.医学,国際保健学,専攻.
京都大学大学院医学研究科助教授, 長崎大学熱帯医学研究所教授,などを歴任. アフリカ諸国,ハイチなどおよそ50か国で感染症対策に従事.現在,長崎大学名誉教授.





