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思想の言葉:納富信留【『思想』2022年9月号】

◇目次◇
 
【小特集】G.E.M.アンスコム

思想の言葉  納富信留
その生涯と思想についての講義録  児玉 聡
『インテンション』を読む――「観察によらない知識」をめぐる謎  竹内聖一
道徳の批判者アンスコム  鴻 浩介
アンスコムの論説「トルーマン氏の学位」をめぐって  寺田俊郎
分裂する受精卵と分裂する人――アンスコム的含意  柏端達也
著作解題  中根杏樹+柏端達也
《付録》略年譜
心的生の誕生――ネガティヴ・ハンド(リズムの精神分析(1))  十川幸司
 
 
◇思想の言葉◇
 
エリザベス・アンスコムとヒデ・イシグロ
納富信留
 
 一九九一年冬のケンブリッジ、学期に三回ほど夜八時過ぎに開かれる古典学部Bクラブの講演会は、古いカレッジの薄暗い一室に椅子を並べて、二〇人ほどの聴衆がマデイラワインを片手に西洋古代哲学の最先端の発表を聞いて議論する。日本から来たばかりの大学院生としてかぶり付いていた私は、よく最前列にお年寄りのカップルが席をとっているのに気づいた。男性はがっちりした農夫のような体格で、二人並ぶとだいぶ大きく見えた。小柄なお婆さんは時折ギリシア語かラテン語の片句を交えたおかしな質問をした。奇妙な思いでいたら、ある時、司会者が「エリ(・)ザベース」と最大限の尊敬を込めて呼びかけたのを聞き、私ははたと気づいた。アンスコム女史、隣にいるのがピーター・ギーチ氏であった。夫妻はそのころケンブリッジに住んでいて、こうしてギリシア哲学の討論会にも時々顔を出していたのである。

 アンスコムの『インテンション』は大学に入ったころに菅豊彦訳がでて、仲間うちでこぞって読んだ1。彼女の名前は、東大文学部哲学専攻のゼミで黒田亘先生が講読していたウィトゲンシュタイン『哲学探究』の英訳者としても親しんでいた2。また、ピーター・ギーチの論文集『ロジック・マター』を黒田先生が玄人向けとして評価しているという噂を聞いて、「論理学の堕落の歴史」などを貪るように読んだ3。二人が夫婦で、『三人の哲学者』の共著もあることは、日本にいる頃から知っていた4。思いがけない場で長年書物で馴染んでいた哲学者たちの生の姿を見るのは、ウィトゲンシュタインが教えアンスコムが学んだケンブリッジでの鮮烈な経験であった。

 そのケンブリッジで三年ほど後、アンスコムの弟子に接する。イギリスやアメリカで哲学専攻の学生たちと話していて「日本の哲学者で知っている人は」と尋ねると、きまって返ってくる「ヒデ・イシグロ」である(彼らは「ニシダ」や「ワツジ」といった名前は聞いたこともなかった)。かつて坂部恵先生がライプニッツを講読した駒場でのゼミで、出たばかりの石黒ひで著『ライプニッツの哲学』を読んだ5。哲学を学び始めたばかりの学生には、まったく歯が立たない異次元の本だった。ユニバーシティカレッジ・ロンドン、コロンビア大学で教鞭をとったこの世界的哲学者には、以前日本でお会いしたこともあった。黒田先生がゼミで「今日はゲストがいます」と紹介されたのが、その小柄でチャーミングな女性だった。ところが、にこやかでやや高いトーンの声とは裏腹に、ウィトゲンシュタインをめぐる議論で鋭く突っ込むと、あの黒田先生がタジタジとなって声を詰まらせた。学生には衝撃的な光景だった。アメリカから一時帰国された折のことである。フランス語・英語のトリリンガルの帰国子女で東大教養学部の一期生、英米哲学界の最前線で活躍されながら、たとえば『英国分析哲学』という論文集で「想像力imagination」についてでサルトルを論じるなど6、英米分析系の枠をこえる国際性と魅力で知られた第一線の女性哲学者だった。

 私がプラトン『ソフィスト』篇でPhD論文を書き上げた一九九五年の春に、イシグロ先生は慶應義塾大学からの派遣で半年間ケンブリッジ・ダウニングカレッジに滞在していた。研究会でお目にかかった時、今度「鰻丼」をご馳走するから自分のフラットに来るようにと誘って下さった。私のことは「マイルズから聞いて知っている」と言った。私のスーパーヴァイザー(指導教員)で、ギリシア哲学研究で世界をリードしていたマイルズ・バーニェット教授は、イシグロ先生とはかつてロンドン大学で同僚だった。日本食など食べる機会がほとんどない学生に魅惑的なその申し出に喜んで訪ねると、スコットランド産の燻製鰻を蒲焼風にしたご飯を作って出してくださった。だが、そこでいきなり議論が始まった。先生は書き終えたばかりの博士論文の主要論点に質問を向け、かいつまんで説明する私に次々と疑問や反論をぶつけてきた。私はまったく食事どころではなくなり、今でも味はまったく憶えていない。プラトンが議論で用いる「現れ appearance」という概念に「探究的用法investigatory use」があるという、私の分析をめぐるやりとりだった7。私はその論文をめぐって、それまでバーニェット先生のオフィスで月に何度も息の抜けない厳しい議論を経験していたが、はじめて対面でお話しするイシグロ先生からここまで突っ込まれるとは予期していなかった。何をおいても哲学の議論、その明確化と妥当性に純粋に関心があることを、哲学者の気迫としてひしひしと感じた。日曜の長い午後だった。

 イシグロ先生はオクスフォード大学サマーヴィルカレッジ(女子カレッジの一つ)で学んでいた大学院生時代、カレッジチューター(個人教授)だったアンスコム教授から同様の議論を挑まれていた。カトリックでお子さんがたくさんいた教授は、ある時赤ちゃんを出産したすぐ後で、まだ寝床にいながらヒデのチュートリアル(研究指導)をしたという話も聞いたことがある。想像を絶する哲学への集中、そして女性同士ならではの逸話かもしれない。石黒先生は「アンスコムの行為論」というコラムで自らが指導を受けた体験をこうつづっている。「こちらが書いていったものを読んで、熱心に問い詰め、容赦なく論じるその熱意は、いままで教師との接触で、私が経験したことのないもので、これはウィトゲンシュタインの影響かと考えさせられるものだった」8。後に慶應で石黒先生の講演を聞く機会があった。私がケンブリッジで聞いたアンスコムの講演、そして『インテンション』の議論と、リズムが同じだと感じた。段落と段落の間にちょっとした空白があり、凝縮した思考の塊がその両側でどうつながっているのか、論理は容易に追えない。だが、本人の語りはその溝を越え、つなぐその場所で哲学を進めていく。これはウィトゲンシュタイン『哲学探究』の断章がくりだすリズムの師資相承であろう。

 私は日本に帰国後数年して慶應義塾大学に移ったが、そこで少し前まで教えておられた石黒先生ともお会いする機会が増えた。だが、いわば命をかけて書いた論文をめぐって闘わせたケンブリッジでの議論に匹敵する濃密な経験をもつことはなかった。それでも、二〇一〇年夏に国際プラトン学会の大会を慶應三田キャンパスで開催した際、基調講演でお呼びしたバーニェット先生に会うために、石黒先生も会場にお出でくださった。私の先生たち、その厳しい問答をつうじてアンスコムやウィトゲンシュタインの声を聞かせてもらった闘う哲学者たちに、私が生まれた土地で再会できたのは美しい思い出である。

 ヒデ・イシグロの回想は、四〇年ちかく後に私がケンブリッジで味わった感覚をそのままにつづる。学生街の暗い石畳の道で、頭いっぱい哲学の議論に占領されながら、肌に刺しこむ空気をきって急かされるように漕ぐ自転車の上で、爽快で純粋な幸せを噛みしめる。

 「一〇時過ぎに帰るとき、デートしている男女の学生が歩道のあちこちにいたことを想い出す。しかし私は、アンスコムに問い詰められた問題や示された疑問、そしてあらためて気づかされたポイントに興奮して自転車を走らせたことを」9


(1)G・E・M・アンスコム『インテンション――実践知の考察』、菅豊彦訳、産業図書、一九八四年。菅豊彦は黒田亘の九州大学での弟子。なお、本年岩波書店から柏端達也氏の新訳『インテンション――行為と実践知の哲学』が出ている。
(2)Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations, translated by G. E. M. Anscombe, 3rd edition, Oxford: Basil Blackwell, 1967.
(3)P.T. Geach, Logic Matters, Oxford: Blackwell, 1972.
(4)G. E. M. Anscombe & P.T. Geach, Three Philosophers, Oxford: Blackwell, 1961.私が留学中に日本語訳も出た。G・E・M・アンスコム、P・T・ギーチ『哲学の三人――アリストテレス・トマス・フレーゲ』、野本和幸、藤澤郁夫訳、勁草書房、一九九二年。
(5)石黒ひで『ライプニッツの哲学――論理と言語を中心に』、岩波書店、一九八四年。原著は、Hidé Ishiguro, Leibniz's Philosophy of Logic and Language, London: Duckworth, 1972.
(6)Hidé Ishiguro, Imagination, in Bernard Williams and Alan Montefiore eds., British Analytical Philosophy, London: Routledge & Kegan Paul, 1966.
(7)後に出版した本N. Notomi, The Unity of Plato's Sophist: between the sophist and the philosopher, Cambridge University Press, 1999,邦訳『ソフィストと哲学者の間――プラトン『ソフィスト』を読む』、名古屋大学出版会、二〇〇二年の第三章などで論じた。
(8)石黒ひで「アンスコムの行為論」、飯田隆編『哲学の歴史11――論理・数学・言語』、中央公論新社、二〇〇七年、四九二頁。
(9)石黒ひで「アンスコムの行為論」、四九二頁
  
 

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