web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

浜野佐知 金子文子を撮る[『図書』2026年2月号より]

金子文子を撮る

 

 2025年9月、吉行和子さんが亡くなった。

 私にとって吉行さんは特別な存在だった。出会ったのは1998年の『第七官界彷徨──尾崎翠を探して』の現場だった。それまでピンク映画しか撮ったことのない私にとって初めての自主制作だ。現場は混乱を極め、まるで戦場のようだった。その中で、吉行さんは一人静かに座っていた。「吉行さん、怒ってるんじゃないの?」とスタッフたちは心配したが、私にはそんな吉行さんを気遣う余裕すらなかった。

 ラストシーンは尾崎翠を演じた白石加代子さんや、その親友役の吉行さんなど、女性作家たちが楽しそうに遊ぶ鳥取砂丘を上空から空撮する予定だったが、四国から撮影用のヘリコプターを呼ぶ予算がなくなっていた。プロデューサーも兼ねた私は煩悶したが、全国の女性たちにカンパを呼びかけた通帳に、ギリギリのタイミングでまとまった入金があった。早速四国に電話をし、値切りに値切って空撮が実現したが、撮影終了後にそれが吉行さんからの振り込みであったことを知った。

 吉行さんが2019年に出版した『そしていま、一人になった』(ホーム社)では、以下のように記述されている。

 「浜野佐知監督とは20年近く前、『第七官界彷徨──尾崎翠を探して』という映画に出演したときに初めて出会った。こんな気分のいい女性がいるんだと感動した。そのすさまじいまでの情熱は全員を巻き込み、撮影現場ははじけるようだった。また浜野監督の作品に出たいという思いが叶って『百合祭』、『こほろぎ嬢』、『百合子、ダスヴィダーニヤ』と続けて出演した。テレパシーだ」

 2001年の『百合祭』は、高齢女性の性愛がテーマだったが、吉行さんは大胆にもミッキー・カーチスさんを相手に濡れ場まで演じてくれた。私は吉行さんが現場にいてくれると、迷ったり悩んだりした時に「大丈夫、それでいいのよ」と背中を押されたような気になって頑張ることが出来た。

 

 そんな吉行さんと最後に組んだのが、今年2月末に公開される『金子文子 何が私をこうさせたか』だ。私が金子文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』を読んだのは1997年前後だっただろうか。書店でふと手に取ったその本は、読み進めるうちに私の心を鷲づかみにした。100年前の日本で「無籍者」として育ち、悲惨な境遇の中を生き抜いた少女の、痛苦が、絶望が、私の心に真っ直ぐに飛び込んできたのだ。

 私が映画監督を目指した1960年代は、監督になるには「大卒・男子」が条件だった。日本の映画界は女に門を閉ざしていたのだ。女であるという理由だけで弾き飛ばされた私は、ピンク映画というジャンルで泥の中を這いずるように映画を学び、1971年に23歳でピンク映画監督としてデビューした。セクハラやパワハラという言葉もなかった時代に、女というだけで受けた理不尽な仕打ちが、金子文子の言葉の中から立ち上がってくる。文子はもがきながら自らの思想を確立していったが、私もまた男社会の映画界であらゆる差別を受けながら監督の道を歩んできた。私はいつか文子と自分を重ねていた。

 金子文子を映画にしたい。そう思ったが、少女時代に朝鮮半島で悲惨な生活を強いられ、関東大震災の際に朴烈と共に検束される文子の生涯は、一介の貧しいピンク映画監督にとって手が届くものではない。いつか、必ず。その想いだけがくすぶり続けていたが、日々の仕事に追われ、いつしか四半世紀近くが過ぎた2019年、日本で韓国映画『金子文子と朴烈』が公開された。

 金子文子が映画になった? それも韓国映画で? 先を越された悔しさと、一抹の不安を抱えながら私は映画館に足を運んだ。不安は的中した。スクリーンに描かれていた文子は、朴烈を愛し、朴烈と共に死ぬことを自らの幸せとする、可愛い女、として描かれていた。

 「違う! こんなの文子じゃない!」

 観ながら私は、叫び出しそうになっていた。原題は『朴烈』。日本公開時に『金子文子と朴烈』というタイトルを配給会社がつけたと聞いたが、この映画の製作者たちは、誰も金子文子を理解していない。文子の思想を紐解こうとすらしていない。この映画の文子が「金子文子」として世界中に知られていくことは耐えられない。私の中で再び金子文子が立ち上がって来た。だが、目の前の仕事がある。吉行さん主演で完成したばかりの『雪子さんの足音』を公開しなければならない。

 2020年3月、私はパリに向かった。フランス国立社会科学高等研究所主催で『雪子さんの足音』が上映され、続いてベルギー・ゲントの「ジャパン・スクエア映画祭」に参加することになっていた。だが、2月頃から懸念されていた新型コロナウィルスがヨーロッパを直撃し、EU間は封鎖、ベルギーの映画祭は中止、航空機も減便され、私は無念の思いを抱えて帰国せざるを得なかった。

 日本でもコロナ禍が始まった。映画館は閉まり、上映会も中止され、『雪子さんの足音』は行き場を失った。何とかしなければ……私は焦り、金子文子を撮るという決意を心の奥にしまい込んだ。

 

 2022年、コロナ禍も落ち着いてきた頃、私は吉行さんでもう一本撮りたいと考えていた。『雪子さんの足音』を大きく育てることが出来なかった悔いがあった。吉行さんに「どんな役がやってみたいですか?」と聞いてみたら、即座に『エレンディラ』の祖母のような役、とちょっとおちゃめな表情で微笑んだ。

 私は『エレンディラ』という映画を知らなかったが、1984年に日本でパルコによって公開されていた。原作はガブリエル・ガルシア=マルケスの「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」で、イレーネ・パパスが祖母を演じている。

 早速DVDを取り寄せ(フランスから!)原作も読んだが、描かれていたのは極悪非道な老婆だった。孫娘のエレンディラを鎖でつないで売春させ、砂漠のテントに毎日何十人もの男たちの行列が続く。エレンディラを助けようとした若者が毒を仕込んだ大きなケーキを、食べても食べても死なない描写は、イレーネ・パパスのド迫力の怪演と相まって思わず観入ってしまった。

 DVDを吉行さんに渡すと、ずいぶん前に観たんだけど、こんな映画だったのね、と笑っていた。毒ケーキをむさぼるシーンが特に印象に残っていたようだ。思えば『雪子さんの足音』も吉行さんの「私、とんでもないバーサンが演りたいの」という一言から始まった企画だった。アパートの大家である雪子さんが、部屋を貸した大学生の薫を真綿で首を絞めるようにからめとって行くストーリーだ。老女の心の奥に潜む底知れない欲情を吉行さんは見事に演じてくれたが、「老女」という概念を打ち壊す、もっと過激な役を吉行さんは望んでいる。

 そう確信した私は脚本の山﨑邦紀と相談していくつかの原作やオリジナルのシノプシスを読んでもらったりしたが、なかなか企画として決定するには至らなかった。1年ほどそんなやりとりが続いた頃、迷走する私を見かねたのだろう、吉行さんから「浜野監督、本当は何が撮りたいの?」という質問があった。心の中を覗かれたような気がした。私の心に住んでいるのは金子文子だ。私は正直に「金子文子を撮りたいと思っています」と答えた。吉行さんは「いいわね。浜野監督の撮る金子文子、観てみたい」と答えてくれた。

 吉行さん主演の映画は実現しなかったが、映画について語り合った1年は、私にとって珠玉の時間として心に刻まれている。

 

 金子文子を撮る! 私は山﨑に宣言した。日本ですら、金子文子はたえず朴烈とセットで語られてきた。二人の大逆事件も「朴烈・文子事件」と呼ばれている。文子を朴烈と切り離し、文子独りの生き方を描く。そのためには、大審院での死刑判決から独房で自死するまでの121日間を描こう。しかし、その時期の資料はほとんど残されていない。山﨑が着目したのが、栃木女子刑務所で最後の時期に詠まれたと思われる獄中短歌だった。文子の思想を、残された多くの予審調書や裁判記録から追い、自死に至る刑務所当局との苛烈な、たった一人の闘いを、死後宅下げされ、ハサミで切られ墨で消された原稿用紙から同志たちが救出した短歌八首をもとに、最後期の文子像を描いた。

 一方、私は、生活者としての文子を瀬戸内寂聴さんの『余白の春 金子文子』から作りあげていった。1960年代、まだ金子文子と共に闘った日韓の同志たちが健在だった頃、瀬戸内さんが入念な取材とインタビューを行っている。その肉声は、私に的確なイメージを与え、文子の実像に迫ることが出来た。

 2023年9月、私と山﨑は韓国・聞慶市の朴烈義士記念館が主催したセミナー「関東大震災・朝鮮人虐殺/朴烈・金子文子の闘争」に参加した。テーマは「関東大震災100年を迎え、その時に起きた〈朝鮮人虐殺〉と〈朴烈・金子文子の大逆事件〉」。

 この記念館の前庭には文子の墓がある。私は、金子文子研究者の亀田博さんから、このセミナーと墓のことを聞き、即座に参加することを決めた。もの言わぬ文子でも、私は文子とリアルに対面してみたかった。記念館は驚くほど立派な建物で、その正面脇に、朴烈の親族の所有する山中から移築された文子の墓と墓碑が置かれていた。主催者が用意した白い花を一輪手向け、手を合わせたが、こんな華やかな場所を文子は望んでいただろうか? 1974年に72歳で北朝鮮に没した朴烈は骨も戻らなかっただろうから、せめて朴烈義士記念館の側に、という韓国の人たちの思いなのだろう。

 セミナーの後、文子が9歳から13歳まで暮らした芙江にも行き、岩下家(祖母の家)の跡地や、自殺しようとした錦江(自伝では白川)や対岸にそびえる芙容峰を見ることが出来た。当時の面影はないが、芙江の元町長に文子がいた頃の錦江の写真を見せてもらえたのは収穫だった。

 

 映画『金子文子 何が私をこうさせたか』が動き出した。まず決めなければいけないのがキャスティングだが、私は文子を演じられるのは菜葉菜さんしかいないと決めていた。『百合子、ダスヴィダーニヤ』(2011)で、ロシア文学者・湯浅芳子の葛藤と中條(宮本)百合子へのヒリヒリとするような愛を、心の奥の哀しみと共に演じ切った菜葉菜さんだ。彼女なら文子の魂を演じられる。私は菜葉菜さんに全てを賭けた。

 2024年9月、クランクイン。菜葉菜さんの身体の内奥から文子が立ち上がってくる。死刑判決を受けて笑いながら「万歳!」を叫ぶ文子。全身全霊で権力に抗い、自らを貫き通す文子。回想する朴烈との出会い、そして別れ。どのシーンも、どのカットも、菜葉菜さんは文子そのものだった。私にとって、撮影現場は文子と出会う場だったのだ。私はこの作品に大きな手応えを感じていた。

 

 撮影はロケ地の松本市から独房のセットを組んだ栃木県佐野市に移り、いよいよ終盤近くになってきたが、私には大きな不安があった。文子を虐め抜き、自殺の寸前まで追い込んだ朝鮮の祖母の役を、吉行和子さんにお願いしていた。体調がすぐれないことは知っていたが、私はたとえワンカットでも吉行さんに出演して欲しかった。

 撮影最終日は、吉行さんに無理がかからないよう選んだ都内でのスタジオ撮影だった。吉行さんは私を見ると、「作品の足を引っ張らないように頑張ります」と笑いながら言われたが、声の力が弱くなっているような気がした。吉行さんの出番は3シーン、台本で6行にわたる長いセリフもある。カットを割って撮った方が負担は少ない。だが、私は1シーン1カットで撮ることをスタッフたちに伝えた。皆、大丈夫かな?と心配したが、だからこそ私は一発勝負に賭けたのだ。

 カメラの前に立った吉行さんの気迫は凄まじかった。ぞっとするような悪意をむき出しにした瞳、文子の心までも凍らせる残酷な言葉の数々。子供の文子が置かれた苛酷で悲惨な日常を一瞬で分からせる演技だった。その後メールで「現場に行けば、もう少し、しゃんとするかと、自分に期待しましたが、奇跡は起こらず、悔やみました」と書かれていたが、いや、まさに奇跡は起きたのだ。

 脚本の完成稿を読んでもらった時、小さな役ですみません、と恐縮する私に「この祖母の役、私、演りたい」と言ってくれた吉行さん。『エレンディラ』の邪悪な祖母を心に置いて演じてくれたのかも知れない。

 

 撮影が終わると、待ったなしで編集、グレーディング(色調整)、音楽制作、ダビング(音入れ)等の作業が始まる。私はそれを一つ一つ、時には並行しながらこなしていった。菜葉菜さん演じる金子文子が素晴らしかった。出演してくださった俳優さんたちの熱量が画面から迸っていた。この作品を一日でも早く吉行さんに届けたかった。

 2025年4月、『金子文子 何が私をこうさせたか』は完成した。最初の初号試写(関係者試写)に吉行さんは来ることが出来なかった。私はすぐにDVDを作って吉行さんに届けた。

 「息をするのも忘れるくらい集中して観ました。素晴らしい映画。画面が美しく、迫力が迫ってきます。菜葉菜さんがいて良かったです。素敵でした」

 観てもらえてよかった。間に合ってよかった。私はこの「邪悪な祖母」を生涯忘れない。

 

 今年は金子文子没後100年にあたる。この節目の年に全国公開できることは本当にうれしい。文子の命日の7月23日には、聞慶市の朴烈義士記念館で、この映画の上映と文子についてのシンポジウムが開催されることも決まっている。国家権力に命を懸けて抗った文子が、100年後の世界に蘇る。朴烈が投げようとした爆弾の代わりに、酷い勢いでおかしな方向に向かっている「今」という時代に「文子」という爆弾を投げ込みたい。私が最後にやるべき仕事なのだ。

(はまの さち・映画監督)

映画『金子文子 何が私をこうさせたか』公式サイト
https://kanekofumiko-movie.com/


『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)
  2. 岩波書店 ポッドキャスト ほんのタネ

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

新村 出 編

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる