第1回 現代語訳 南方熊楠『十二支考』「馬に関する民俗と伝説」 松居竜五
午年には馬の話をするものだ
狭いすき間から見る馬の足は速く見える。そのように月日の過ぎるのは早いもので、この文章が披露される頃には、すでに午年(うまどし)を迎えていることだろう。とりあえず十二支に当てられている動物たちに、優劣があるというわけではない。ただ、それらにまつわる伝説には、多いものと少ないものとの差がずいぶんとある。
たとえばヒツジは、現在に至るまで日本にはあまり多くないので、和製のヒツジ譚はほとんど聞いたことがない。猿の話は東洋には少なくないけれど、ヨーロッパにはいないから、あちらの古伝は乏しい。これに反して馬は、アジアとヨーロッパが原産ときている。その弟格というべきロバは、アフリカが本元だ。そこから世界中のたいていの場所に広まっているのだから、その話は数え切れないほどある。
とはいえ、今年は全国の新聞・雑誌の新年号が、馬の話で読者を楽しませるはずだ。これは、馬を題材にした初唄を芸者が唄ったり、張り子の馬を舞わせながら、旅芸人が芸能にやって来たりするようなものだ。こちらも、ありふれた和漢の故事を述べていては、「またその話かい」と言われてしまう。まずは唐の時代に漢訳された「律蔵(りつぞう)」〔仏教者が守るべき規範集で、多くの仏教説話を含む〕から、とってもめでたい「智恵の馬」という話のあらすじを語って、新年の祝賀に替えておこう。そこから「意馬」、つまり心の中の奔馬が疾走するようないきおいで、思いつき次第にあれこれ語っていくつもりだ。
まずは「智恵の馬」の話だけれど、これは現存するパーリ語文書の「ジャータカ」〔釈迦の前世の物語〕にも載っている。しかし「律蔵」に載せたものの方がよほど面白い。ということで「律蔵」の集大成である『根本説一切有部毘奈耶(こんぽんせついっさいうぶびなや)』にある話を紹介しよう。
「智恵の馬」が生まれたよ
むかし、北方の馬を売る商人が、500頭を連れて中天竺(ちゅうてんじく)を目指していた。その途中、1頭のメス馬が「智恵の馬」を身ごもった。その日から他の馬はみな、いなないたりしないから、病気にでもかかったのかと思っていた。さて、いよいよ子馬が生まれると、馬たちは耳を垂れてくしゃみさえしない。商人の親方は、メス馬が変なものを産んだおかげで、馬どもの様子がおかしくなったとのことで、子馬をたいそう憎んだ。いつもこの馬を乗りつぶして、エサも良いものは与えなかった。
南に行き中天竺との国境の村に至ると、雨期に入った。大雨をついて旅をすると、馬を傷めてしまうということで、その間滞留することとした。すると、村の人々が思い思いに手作りの珍品を、商人に贈りものと称してくれた。そこで雨期が過ぎて、出立しようとする際に見送りに来た村人たちに、前日にもらった品に応じて、それぞれお返しをした。
こういうのはボクも遊学中にはよく経験したことだよ。いりもしない物をたくさん持って来てくれるのは、ずいぶん親切なように見えるけれど、実は目算がある。まるで盗人が昼寝しながら時機を待っているようなものだ。まったく返礼の準備ときたら並大抵じゃあないんだよ。
さて、その村には陶工がいた。まずは焼きものを馬売りの親方に贈った。彼らが去ろうとしているのを聞いて、その妻は「アンタも見送りに行ってお礼の品をもらってきなさいよ。あげたものはちょっとだけど、向こうさんは覚えているでしょ」と言った。そこで陶工は、泥を丸めて吉祥の印を作った。それを持って行って親方に別れを告げると、「なんでこんな遅く来たのかね。うちの荷物はみんなあげちまったよ」ということだった。
とはいえ、まあ「気は心から」というものだ。親方は何かやろうと考えた末、「そうだ。あの新しく生まれた子馬は災難の種だ。あれがいい」と気がついた。それで「これでも持って行かんかね」と聞いてみた。陶工は「かたじけなくはあるのですが、そいつを家に連れて帰ったら、うちの焼きものが残らず踏み砕かれちまいます」と固持した。そのとき、子馬がひざまずいて、陶工の両足をなめたので、かわいくなって受け取って引いて帰った。
案の定、「自分の商売の敵みたいなモンを、なんでもらってくるのさ」と、妻の小言が止まらない。それを聞いた子馬は、やっぱりひざまずいて妻の両足をなめたので、妻もかわいく思うようになった。子馬は立って、たくさんの焼きものの間を歩いて回る。焼き物は固まっているものもあり、固まっていないものもあるが、1つも壊したりはしない。「珍しく気の利いたお馬さんだね」と妻は感じ入った。
さらに陶工が土を取りに出かけると、子馬はついて行く。そしてその土を袋いっぱいに詰め終わるのを見て、背中を低くする。袋を乗せると、そのまま背負って家に帰った。そこで陶工は、子馬を飼うことにして、糠(ぬか)にゴマのカスを混ぜてエサとして与えた。
智恵の馬はわがまま放題
その頃、ヴァーラーナシーの国の梵授王(ぼんじゅおう)が「智恵の馬」を持っていて、周辺の国はこれを敬い服していた。しかるにその馬が死んだと聞いて、他国から使者が来た。「梵授王は、これからはわが国に税を払え。払わなければ国境から外に出てはならない。外に出たら縛って拉致しちゃうゾ」というのだ。梵授王はこれを聞いて国外に出られなくなった。
そこに馬売りの商人が、北方からたくさんの馬を連れてきた。梵授王は大臣に「わが輩は智恵の馬の力によって連戦連勝だった。なのに馬が死んでからは他国から侮られて、外遊さえできん。どこかに智恵の馬がいないか探して来い」と言う。大臣は馬の鑑定をする伯楽(はくらく)を連れて探したけれども見当たらない。
かれこれするうちに、伯楽は例のメス馬を見て、「おお、これこそ智恵の馬を産んだはずじゃ」と言った。大臣は馬の親方に聞いて、そのメス馬が産んだ子馬は陶工のところにいると知った。そこで、使いの者をやって車を引く牛と取り替えようとしたが、応じてくれない。使いの者はとぼとぼと帰ってきた。
智恵の馬は畜類とはいえ、知識はふつうの人よりも優れている。臨機応変に対応することが可能で、人間と会話することもできる。使いの者が去ったのを見て、陶工にこう言った。
ワタシを生涯、こんな貧しい家に留めて、糠やカスを食わせたり、土を背負わせたりしてはいけないのです。ワタシの本分は、百枝〔ももえ〕の黄金の天蓋〔てんがい〕でおおわれた、やんごとなき王様を背負うことにあるのです。ワタシの食事としては、彫りもの細工をしたお盆に、蜜とうるち米を混ぜて入れたものを食べるべきなのです。明日、また使いが来たらこう言ってください。「陶工はものを知らないなどと侮るな。智恵の馬と知っていながら、知らないふりをして普通の馬の値段で買うとはずるいぞ。本当に欲しいなら、1億の金を出すか、オレの右足で引くことができる限りの袋に金を入れてくれるかしろ」と。
翌日、大臣が伯楽を連れて掛け合いに来ると、陶工は教えられた通りに答えた。そこで評定がおこなわれ、この陶工は馬鹿力がありそうだから、足で引かせたら莫大な金を取られてしまう。いっそ1億金に定めてしまった方がよいと決議して、王に奏上した。王はそれだけの金を遣わして、ようやく馬を得ることができた。
ところが馬屋に入れて、麦と草を与えても食わない。王は「さては病気の馬か」と言うと、世話係は「この馬は病気ではありません」と答えた。王は馬屋に行って、面と向かって「ソナタは陶工のところで、ろくに食料をもらえずに骨と皮だけに痩せて困苦労働したようだな。それが今は、国王の一番のお召し馬だ。何を憂えて物を食わんのだね」と問うた。
馬は答えた。「ワタクシは足が速く、精神は勇猛でございます。さらにそこらの人間どもよりは、よほど優れた智謀を持っております。そんなことはアナタさまもよくご存じでしょう。なのに愚かな人たちは、古法に従ってワタクシを遇するということを知りません。この上は生きているつもりはございません」と。世話係はこれを聞いて、王に勧めて、古法の通りに智恵の馬を遇するようにした。
その古法というのは、王城から三つの駅の間の道路を平らかにする。そこに幟(のぼり)を建て、天蓋をかけて、にぎにぎしく飾り立てる。王みずからが、4種の兵隊を従えて、智恵の馬を迎える。赤銅の板を地面に敷いて安置し、皇太子がみずから1000枚の金でその上を覆う。王の長女は金と宝玉で飾った払子(ほっす)で蚊やハエを追い去る。王の一の夫人が蜜を米に塗って金のお盆に盛り、みずから捧げ持って馬に食わせる。第一の大臣は一番の貧乏くじで、みずから金のちりとりで馬のクソを受けるのだ。
王は、そんなことをしては馬を王以上に崇めることになるので、大いに自分の権威を損なうと思った。が、智恵の馬がいなくなっては、自国の勢力そのものを落としてしまうから、どうしようもない。「なるほどこれまでの仕打ちは重々悪かった。過ぎたことは何ともならないが、これからは古法に則ってやることにしよう」と馬に詫びを入れた。馬屋には赤銅の板を敷き、皇太子に金の覆い、王女に払子、第一夫人に食べ物を奉じさせた。
大臣も不承不承ながら、慎んで馬のクソを金のちりとりで受ける役を勤めた。まあ、垂れ流しというわけにもいかないから、最高級の錦織物ででも拭ったのだろう。ここまで厚遇されて、智恵の馬はようやく満足して食事をした。
智恵の馬、ついに本領を発揮!
さて、王が庭園で気晴らしをしようと思って智恵の馬を呼ぶと、背を低くして待っている。王が「これは背中に病でもあるのかね」と問うと、馭者(ぎょしゃ)は「王様が乗りやすいように背を低くしているのでございます」と言う。王が乗って川辺に至ると馬が進まなくなる。「水が怖いのかね」と問うと、「尻尾が水を払って王様にかからないようにしております」と答えた。しばらくすると、尻尾を結んで金の袋に入れ、水の上を駆けて庭園で遊ぶことが慣例となった。
ところが、かねてからこの王を侮って、「外遊したら縛って拉致しちゃうゾ」と言っていたのが周囲の諸国だ。王が城を出て庭園に留まっているのを聞いて、大勢の兵を起こして捕らえに来た。あわてて王城に戻ろうとすると、ハスの花が咲き満ちている大きな池があって、それをよけると遠回りになる。そこで智恵の馬は、軽くハスの花を踏んで、一直線に駆けて早く城に入った。すると後手を踏んだ敵は逃げ去ってしまった。
王様は大いによろこんで、臣下たちにこう言った。「もしもしやんごとなき大王の命を救った者がいたとしたら、何を褒美に与えるべきだろうか」と。臣下たちは「そういう者には、国の半分を与えるべきでしょうな」と答える。ところが相手は畜生だ。国をやってもしかたがないから、智恵の馬を施主として大々的なほどこしをおこなうこととした。こうして7日の間、人民たちに欲しいものを分け与える「無遮大会」(むしゃだいえ)と呼ばれる、ほどこしの祭りを開催するための王の命令が出された。
これを見て驚いたのが、例の馬商人の親方だ。「いったい何が理由で無遮大会がおこなわれているんですかね」と周りの人に問うた。人々は口々に、「これこれの土地で、ある人が馬を1頭、陶工に贈った。それが世にもまれな智恵の馬とわかって、王は1億金で陶工から買い取った。はたして今回、王の命を救い、その謝恩のために大会が開かれることになったんだよ」と言う。
親方はこれを聞き終わって、どうやらこれは、自分が陶工にやった馬のことらしいと悟った。そこで王の馬屋に行ってみると、まさにその通り。智恵の馬は親方に「アンタがはるばる連れて来た馬500頭が、どれだけの値段で売れたのかね。ワタシは自分一身を1億金で売って陶工にお礼してやったよ」と言った。親方は「ひええ、たいへんな馬成金になり損ねたあーー」と落胆のあまり気絶する。
その顔に水を注ぐとやっと生き返った。「ええい、いくら悔いても後の祭りだ。これもオレがアナタさまを智恵の馬と知らずに、憎く思って虐げた報いでございます」と、馬の足を戴いて、謝辞とともに去った。その親方は侍縛迦(じばくか)太子、智恵の馬は仏弟子の周利槃特(しゅりはんどく)の前世の姿だという。「だから現世でも侍縛迦が周利槃特をまず侮り、次にそのことを後悔して懺悔(ざんげ)することになったのだよ」、とお釈迦様が解説なさったそうだ。
馬の能力はスゴいんだ
梵授王が智恵の馬を有している間は、隣国はみな服従した。しかし智恵の馬が死んだと聞いて、たちまち背いて去った。そんなことは信じられないという人がいるかもしれない。そんな人は、ボクが先だって雑誌『太陽』に出した「戦争に使われた動物」という文章を参照してほしい。むかしはどの地域の人々も、迷信に取り巻かれていた。だから戦術や軍略というものの多くの部分が、敵と味方の迷信をどう利用するかにかかっていて、兵法の書も吉凶の占いの方法で、埋め尽くされている。
つまり何であれ非凡なもの、異常なものを連れて行くと、敵に勝つことができた。最近でもナポレオン3世がワシを飼い慣らして将兵の心をつかんだりしている。またアメリカの南北戦争の際には、ウィスコンシンの第8連隊がワシを連れていって奮闘した。勝利の後、そのワシは州の宝として養われ、フィラデルフィアでの建国100周年祝賀イベントに出品された。長寿を全うしてからは、遺体を保存して、今でも特別な敬意を表されている。
まして馬は、ときには人間をしのぐ特性を持っている。臆病な兵士の100人分や1000人分に勝るような軍功を上げるものさえいるだろう。それに、むかしは人間の方がいつもかならず動物よりも優先されるという法的な権利も確立されていたわけではない(ラカサーニュ『動物の罪に関して』35頁)。したがって、人間に勝る功績を挙げた馬を、人間以上に厚遇した。はなはだしい場合は、敵も味方もこれを神として恐れたり、崇めたりしたのだ。
馬が人間をしのぐ特性を持つことについては、後で述べることにしよう。ここでは、馬を凡人以上に尊重した例について、少し挙げておきたい。宋の姚興(ちょうこう)は自分の馬を「青獅子(あおじし)」と名づけて、ときどき一緒に酒を飲みながら、「オマエとオレはたがいに国のために尽くそうぜ」と語ったという。後に女真族(じょしんぞく)の国である金の兵が攻めてきた際、所轄の400騎で迎え撃って、十何回かの戦を繰り返した。その間、大将や王族はまず逃亡し、武将や貴族たちも救援に来てくれない。ついに姚興は討ち死にしてしまった。
朝廷はこれをあわれんで霊廟を建てたのだけれど、そこに詩を献じた者があった。「報国の思いを平時から持っていたが、敵を見てわが身を捨てても、その気持ちは変わらない。権力者は臆病者で、貴族たちもみな、たわいなく逃げ去った。ともに戦い、ともに死んだのはただ愛馬の青獅子だけだった」と。こりゃまた感慨無量の詩だね。ボクも、さっき飲んだ酒が覚めてくるような気がする。とは言え、しばらくするとまた飲みたくなるから酒屋がもうかるわけだ。その理屈にもちょっと感心ですナ。
晋の司馬休は、敵に殺されそうになった際、自分ではまったく感づいていなかった。しかるに、その馬が食うのをやめて鞍(くら)を見つめている。「まあ試しに乗ってみるか」と思って、そのまま一気に10里を走って、後ろを見ると敵の先兵が迫っていた。かくて難を逃れたことの褒美として、その馬に「揚武(ようぶ)」という名を与えた。
北漢の皇帝劉崇(りゅうそう)は、敗走して助かった際に乗っていた馬を「自在将軍」と呼び、3品の飼い葉を食わせて、馬屋を金銀で飾った。その他にも、哥舒翰(かじょかん)は自分の馬の「赤将軍」の背に朝廷のしるしを加えた。宋の徽宗(きそう)はその馬に「竜驤(りゅうじょう)将軍」という名を賜った。中国にはそんな話がすこぶる多い。これに似た例としては、本邦でも源義経が5位の判官になったとき、かつて後白河院から賜った馬も5位にするという意味で「太夫黒(たゆうぐろ)」と呼んだ。
ヨーロッパでも、アレクサンドロス大王の愛馬ブケパロスは知勇群を抜いていた。平時は王以外の他人も乗せたが、盛装したときは、王しか乗せなかった。テーベ攻めの際、この馬が傷ついたから王が他の馬に乗ろうとすると承知せずに乗せ続けたという。そのくらいだから、死後に王はこの馬を祭って、墓の周りに町を作り、「ブケパロス」と名づけた。
古代ギリシアのオリンピアの競争に勝った3頭のメス馬は死後に廟を建てて葬られた。ローマ皇帝カリグラは、愛馬インキタトゥスを神官として邸宅と奴隷を付け与えた。こんな例もあるのだから、梵授王の智恵の馬の話も、事実によったものと考えられる。
「馬宝」としての白馬
さて、智恵の馬と同類の話だけれども、ずいぶん誇張されているのが、仏典にしばしば現れる「馬宝(まほう)」だ。理想的な王である転輪聖王(てんりんじょうおう)がこの世にお出ましになって、人間界を含む四つの世界のすべてに君臨するときには、七つの宝がおのずと出現して、その所有物となるとされている。
七つの宝のうち、まず「女宝(にょほう)」から行こう。肌につやがあり、言葉は清い。容貌はずば抜けていて、肌の色合いもほどよく、欠けたところがない。スタイル抜群で、その色気たるや比べるものとてない。貞節さはダイヤモンドほど堅く、何につけても夫の意に心を配り、多く男子を産む。素性は卑しからず、よく善人を愛し、夫が他の女と楽しんでいても妬んだりはしない。以上の五つの徳がある。また余計なことはしゃべらず、よこしまな考えを持たず、夫の不在にも他の男に心を動かさない。この三つの美点がある。さて、夫が死ぬと自分もすぐ死んでしまうから、後家になって他人にこんないい女を取られたりする心配もない。実に重宝千万のおんなだなあ。ああああ。
それから「珠宝」「輪宝」「象宝」「馬宝」「主兵宝」「長者宝」という順番になっているけれど、「女宝」の講釈ほどありがたくもないので割愛!
ともかく「馬宝」の説明だけはしておこう。これはさまざまな仏典で紺青色(こんじょういろ)の馬とされているが、『大薩遮尼乾子受記経(だいさっしゃにけんしじゅききょう)』だけは白馬としている。この馬は1日で人間世界を3周しても疲れない。王の思いのままに働いて、いつでもその意にかなうようにするという(『正法念処経(しょうぼうねんじゅぎょう)』2、『法集経(ほうしゅうきょう)』1)。『修行本起経(しゅぎょうほんぎきょう)』に、「紺の馬宝は玉のたてがみをそなえている」とあるのもこれだ。紺青色の馬などはあり得ないようだけれど、これはもともとヨーロッパとアジアの諸国に広くおこなわれている白馬を尊ぶ風習から出たらしい。白馬が尊ばれる理由はいろいろあってややこしいけれど、その一端だけ述べておこう。
明の張芹(ちょうきん)の『備辺録(びへんろく)』には、兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)の斉泰(さいしん)の白馬がきわめて速く走るとしている。靖難の役(せいなんのえき)〔1399~1402年〕の際には、この馬が人目に立つとのことで、墨を塗って逃げたが、馬の汗で墨が落ちて露見して捕らわれたとある。そのように白馬はいたって人目を引く。したがって、一般的には軍隊では白馬は嫌われる。逆に、強いという定評がある者がこれに乗ると、同様に敵の目につきやすいから、戦わぬうちに相手が退いてしまうということも起こる。
『英雄記』には次のようにある。
公孫瓚(こうそんさん)は、辺境に危険が迫ると、激しい顔色で怒気をはらみ、まるで復讐にでも赴くようだった。自分は白馬に乗り、また白馬数十頭を選んで、騎射の士を募った。これを名づけて「白馬義従」と呼んだ。この部隊で左右の両翼を固めたので、夷狄(いてき)たちはたいそう怖れた。
『常山紀談(じょうざんきだん)』によれば、中村新兵衛という勇士は、猩々緋(しょうじょうひ)の羽織と唐冠(とうかむり)の兜(かぶと)を身につけていることで敵によく知られていた。ところがあるとき、これを他人に与えて戦いに臨んだ。それでも敵をたくさん殺したが、これまでは彼の羽織と兜を見れば、戦わずに逃げていた敵勢が、中村だと知らずにこれを殺してしまった。だから敵を多く殺したから勝つというわけではないのだ。威光を輝かせて、気を奪って勢いをくじくという道理を悟るべきだと書かれている。
この道理によれば、白馬は王者や猛将の標識としておあつらえ向きだ。だから、いやしくも馬というものがいる国では、かならず白馬を尊ぶことになる。『礼記(らいき)』には、春を迎える際、東の郊外では青馬7頭を用いるとか、初春の1月には皇帝が青い馬に乗るなどとある。本朝でもこれに倣って、1月7日に21頭の白馬を引いた。また元のクビライは元日に一つの県ごとに81頭の白馬を上納させ、その総数は10万頭を超えたという。
白馬節会の「白馬」を「あおうま」と訓読みするのをいぶかしく思った人も、古くから少なくなかったようだ。平兼盛(たいらのかねもり)は「降る雪と同じ色のまま引いてくるのに、誰が白馬を青馬と名づけ始めたものか」と詠んだ。しかしその雪や白粉もまた、光線の具合で青く見えるから、「白」を「青」と混ぜて呼んだらしい(「白馬節会について」参照)。
さて高山の雪上に映る物の影は紫色に見えるから、中国でも濃い紫色を「雪青(せつじょう)」と名づける(『ネイチャー』1906年2月22日、360頁)。光線の具合でヒマラヤの雪山なども紺青色に見えることはよく耳にする。青と等しく紺青色も白との縁が薄くないので、白をいっそう荘厳に表現しようとして、紺青色の馬というものを作り出したのだろう。
タヴェルニエなどの紀行文によれば、インド人はしばしば象やサイや馬にいろいろな彩色をほどこして見世物にするという。中国で「麒麟(きりん)は五つの色彩を具える」などというのは、こんなことが元になっているらしい。そんな異形の動物たちを見て、それが人の手による装飾だとわからない人は、紺青色の馬もかならず自然界に存在しているはずだと信じたのだろう。
荒馬には荒馬を!
仏典に載った馬の話を、もうひとつふたつ挙げておこう。『大乗荘厳経論(だいじょうしょうごんきょうろん)』には次のような話がある。
ある国王が、たくさんの良い馬を養っていた。隣国が攻めて来ても、良い馬が多いことを知って、とても勝てないと諦めて退却するくらいだった。そのとき、王様が思ったのは、「敵国もすでに退いちゃったし、馬も何の役にも立たないよね。何か他に、人の助けになるようなことをさせなくちゃ」ということだった。そこで勅命で馬たちをいくつかのグループに分けて人々に与えて、臼を引く仕事をさせるようにした。その後、長い年月が経ってから、隣国がまた攻めてきた。そこで馬たちを使って戦わせたのだけれど、長年臼引きばっかりしていたので、ぐるぐる回って前進することをしない。ムチで打ってもやっぱり歩き回るだけで、戦争の役には立たなかった。
まあわかりきった道理を述べたつまらない話のように思われるかもしれない。けれど、わが国は近年、何かにつけて、よくこんなやり方をしているんじゃないかな。2500年前のイソップが寓話(ぐうわ)で社会風刺をしたように、ボクもその生まれ変わりのつもりで、ちょっともの申してみたいワケさ。
それからラウズ訳『ジャータカ』に、ブッダはかつて前世では、ヴァーラーナシー国の梵授王の摂政だったとある。王の性格は貪欲だった。暴れ馬を飼っていて「大栗(おおぐり)」と名づけた。そのとき、北国の商人が500頭の馬を連れて来た。それまでは、馬商人が来れば、摂政が馬の値段を聞いて、言い値で支払って買い取るのが慣例だった。しかるに王はこのやり方を好まず、他の官吏にまず馬の値段を尋ねさせた。その後、大栗を放ってその馬をかませ、傷つき弱ったところで値段を下げさせた。
馬売りの親方が困り切って摂政に相談すると、摂政は「アナタの国には大栗ほどの暴れ馬はありますか」と聞いた。親方は「ちょうどそのような悪い馬がいて『強顎(つよあご)』と名づけました」と答えた。摂政は「それなら次回来るときは、そいつを連れて来なさい」と教えたので、親方はその通りに連れて来た。一行を窓から見た王が、大栗を放つと、親方も強顎を放った。固唾を飲んで見ていると、2頭の馬は出会った瞬間から、まるで旧知のようにいたって仲が良く、互いに前身をなめ合っていた。
王が怪しんで摂政に尋ねると、次のような答えだった。
同じ性格の鳥は群れをなして飛びます。そのようにこの2頭の馬は相和しております。両方とも荒くれていて性癖が悪く、いつも綱をかみ切ったりしています。同じあやまち、同じ罪を犯す者同士は、かならず仲が良いものなのです。
こうして王をいさめて、馬売りと協議して適切な価格を払うようにしたとある。
火で火を制すること
まあ、これも説教臭くて、あんまり面白い話ではないかもしれないね。とはいえこれに関連して、面白いか面黒いかはわからないけれど、ちょっとしたネタがある。
みんな知っている話だけれど、誰かが『徒然草』の注解本を塙保己一(はなわほきいち)検校(けんぎょう)のところに持っていって、「この文は何々の本が典拠なのですよ。この句はどこどこが出典です」と調べてあることを事細かに聞かせた。すると検校は「『徒然草』の作者自身は、それほどの博学を元に書いたわけでもないでしょうに」と笑ったという。
これは、あたかも欧米で「シェイクスピア学」を専門にしている人が多いようなものだ。この人たちときたら、わずか37篇のシェイクスピアの戯曲の一字一句もゆるがせにはしない。飯を忘れて血を吐くまで、その素晴らしさや由来するところを研究して飽くことがない。鳥が飛べばカエルも飛びたがるようなもので、ボクも何のことかはわからないままに、長い間これに関わることを読書したり、執筆したりしてきた。有名な人々から著作を贈られたこともある。
しかし、つらつら考えてみると、こんな研究をいくら続けたところで、結局は知るべくもないんじゃないだろうか。300年前に死んだ人が、実は何を考え、何に基づいて、何を目的に、個々の文章や個々の単語を書いたのか、なんてことは。たとえ知り得たとしても、それが何の役に立つのかしらん。
とはいえ、「古今東西、情けは兄弟」ともいう。これだけ広く雑多なことを取り入れて書かれた作品を、これだけ多くの学者が入れ替わり立ち替わりして研究してきた。そうしたものを読むことは、とりも直さず、古今東西の人間と社会の変化と軌跡を研究するということにはなるだろう。十年一日のごとくやり続けているうちに、多少得るところがないわけでもない。
たとえば一昨年、アッカーマンという学者が、『ロメオとジュリエット』に出てくる「一つの火は他の火を滅する」という文について、次のような見解を発表した。
イギリスにはやけどした指を火に近づけて、火の毒を吸い出させるという民間風習があるんですよ。マムシにかまれたところに、そのマムシの肉をすり付けて治すのと同じで、共感呪術(ホメオパシー)というヤツですね。また「太陽は火を消す」ということわざもあります。シェイクスピアはこれらに基づいて、この文をひねり出したんでしょうな。
さらにアッカーマン君は、同好の士に対して「この他にしかるべき典拠らしいものがあれば教えてくだされ」と広く問うた。が、答える者がなかったから、ボクが次のように答えてあげた。
それがですね、「太陽と月が出るとたいまつが燃えさかる」と中国では言うんですよ。西洋の「太陽は火を消す」と真逆なのが面白いじゃあないですか。さて『桂林漫録』という本には、ヤマトタケルノミコトが、駿河の国で「向かい火」というのをつけて、異民族を滅ぼしたとあります。これに関して、『花鳥余情』では、「すでに火がついているときに、こちらからまた火をつけると、向こうの火はかならず消えるので『向かい火』と言う。そんな風にこちらから腹を立てると、相手の腹立ちは止むものだ」とあります。今でも、熊野では、山火事にわざと火を放って火を防ぐやり方があります。
いや私は、何もシェイクスピア翁が、こんな日本の故事を聞いてこの文を作ったなどと言っているわけではありませんよ。同じような考え方が、万里をへだてた人々の脳裏に、それぞれ浮かんでくるのだという事例の一つになるんじゃないか、と言いたいわけです。
こんな風に書いて送ったのだけれど、後から考えてみると、仏典の中の「暴れ馬が暴れ馬をしずめた話」もやや似ているということを、一緒に書いておくべきだったなあ。失敗、失敗。
トンボはなぜ「竜のハエ」と呼ばれるのか?
英語では、トンボのことを「ドラゴン・フライ」(竜のハエ)と呼ぶ。地方によっては、トンボは馬を刺すと信じていて「ホース・スティンガー」(馬を刺すもの)と言っている。それは、アブやハエを食うために、トンボが馬小屋に近づくのを見て誤って伝えたのだろう。しかし「ドラゴン・フライ」とは何を意味する名なのか。しばしば学者たちに問い合わせたが、答えられる人はいなかった。
中国の『説郛(せっぷ)』31には『戊辰雑抄(ぼしんざっしょう)』から、次のような文章を引用している。
むかし、竜が大きな湖で皮を脱いだ。そのとき、うろこや甲羅から虫が出てきて、しばらくして赤いトンボに化した。人がこれを取ると高熱が出る。それから赤トンボを「竜甲」とか「竜孫」とか呼んで、故意に傷つけたりしないようにしているという。
ここから、中国でもトンボを竜と関連したものとしていることだけはわかった。だからボクは、トンボの形がいかめしくて、やや竜に似ているから、竜から生じたということになったのだと思っていた。
しかしその後、1915年に出版されたガスターの『ルーマニアの動物譚』14章に、次のような話を見つけた。
ルーマニア人は、トンボを「魔の馬」と呼んでいて、たぶん「竜の馬」と言うこともあるのだろう。「聖ゲオルグの馬」とも言っているのだが、この聖人は毒を持つ竜を退治したことで名高い。その由来を尋ねると、大むかしに神さまは常に悪魔と争っていた。神さまは平和好きだから、できるだけ悪魔を寛大に扱い、乞われるままに物を与えたりもした。しかるに悪魔は悔い改めることなどせず、物を乞い続けた。神さまもさすがに耐えかねて、天使をたくさん集めて、それぞれに良い馬を与えた。そしてある朝早く、これ乗って出撃させた。
聖ゲオルグは無類の美しい馬に乗って先陣を切ったが、その馬は急に退却を始めた。すると他の馬たちもそれに倣ってそれぞれ退却して、後にいる馬にぶつかった。そのとき、神さまが高らかに声を上げ、聖ゲオルグに向かって「ソナタの馬は悪魔に魅了されておる!早く降りよ」と告げた。聖ゲオルグが「この馬は悪魔にくれてやるぞ」と言い放つと、3歩歩いてたちまち虫になって飛び去った。それからこの虫を「魔の馬」と名づけたのだが、それはトンボのことだという。
ガスターはこれに次のような注をつけている。
このような伝説は西ヨーロッパやイギリスにもあったにちがいない。そうでなければ、「竜のハエ」などという英語は何の意味なのかわからない。思うにこの神さまと悪魔の戦闘の物語の原型には、神の軍から聖ゲオルグ、悪魔の軍から毒竜が名乗りを上げて大立ち回りを演ずる一節があったのではないだろうか。両軍が鳴りをひそめてその一騎打ちを見守り、ついに竜が負ける。その竜がトンボに化したとか、聖ゲオルグの馬には翼があって飛ぶことができたとか。そんな話の細部が抜け落ちてしまったものなのではないのだろうか。
熊楠さんに言わせれば、ルーマニア人も中国人と同じように、トンボのかたちが竜に似ていると考えた。そこから、こんな話ができたんだろう。
これは、まさに林子平が「お江戸日本橋の水はロンドンのテムズ河に通ず」と言ったようなものだね。今まで誰も解読できなかったトンボの英語名の起源が、東ヨーロッパのフォークロアを調べてみて、初めてわかる。また中国の説話がその傍証として役に立つ。これだから、一国一地方のことばかり究めるだけでは、その一国一地方のことさえも明らかにはできないわけなんだよ。
妻の腹にヒツジを描いた人の話
むかし、オランダで何度やっても砂防工事がうまく行かないところがあった。その頃、わが国に来たオランダ人が、奥羽地方でネムノキを同じような荒れ地に植林して砂防に成功したことを聞いた。そこで帰国した後に、行政にこのことを伝えて試してみると、はたして完成できたという。この事業の話のように、学問でも西洋人には解決できないことで、わが国にはわかっていることがたくさんあるのさ。
また30年ほど前に、フレイザーが『金枝篇』を刊行して、その中で未開人が一定の年頃に達した女子を一時幽閉する習俗があるのは、月経をタブー(斎忌)とすることによると説いた。当時、学者も一般人も大発見のように誉め立てたけれど、実はわが国の人には見慣れたり聞き慣れたりしたことで、何も珍しくないものだった。それほど知れきったことでも、黙っていてはわかってもらえない。欧米人が「発見、発見」と鼻高々なのをむなしく見つめて、その後にびっくり仰天ではつまらないじゃないか。
こう言うと、「じゃあお前の手並みを見せてみろ」と来るに決まっているから、ボク自身の経験を述べてみよう。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』の女主人公ビアトリスの話の中に出てくる『百の笑い話』という本のことだ。これは長い間、失われた著作として伝わっていなかった。それを、1814年頃にコインビャーとかいう牧師が、何の気なしに買った書籍の表紙が、この本の反古(ほご)からできているのに気づいた。そこで解体、復元してみると、破損して失われてしまったページも少なくないけれど、さいわいにも一部ではなく数部の同書を潰して使っている。かれこれ対照して、なるべく漏れがないように文章を集めて整理することができ、大いに古典研究に貢献した。
その『百の笑い話』の最終章は、妻の腹にヒツジを描いた人の話だ。
むかし、ロンドンの画工が若く美しい妻を持っていた。用事で旅行に出かけるとき、かねて妻の貞節に疑いがあったので、その腹にヒツジを1頭描いて「オレが帰るまで消えないように注意しておけ」と言い置いて出立した。1年ほどして夫が帰ってきて、妻の腹を見て驚いた。そして「オレはツノがないヒツジを描いたのに、今、このヒツジには二つのツノが生えている。オレの留守に浮気した印だ」と詰(なじ)った。妻は夫に向かって短く……
とあって、上述したように一度潰して使った本なので下の文が欠けている。
30年ほど前にラ・フォンテーヌを読んだ際、「荷物の鞍(くら)」と題した詩があった。たしか、亭主が妻の身体にロバを描いて出かけて、帰ってきて改めると、自分が描いたのとはちがってそのロバが荷を乗せるための鞍を背中に付けている。妻はいっこうに気づかずに、「ワタシの貞操はロバが証拠になるでしょ」と言った。そこで夫は「なるともなるとも、大なりだあ。悪魔がオマエに乗った証拠として、鞍を背負っておるではないかあ」というオチが付けてあったと記憶している。16世紀に成立した『上達の方法』第7章にも、ほぼ同様の話が出ている。こういうのが元になって、婦女に会うのを「鞍を置く」と呼ぶようになったんだろうね。
このタイプの話は日本のものが一番古いゾ
イギリスの弁護士で、笑話学(ファセティオロジー)の大家であるリーさんは先頃、『百の笑い話』の類話を集めた。それを見ると、このタイプの話はイタリア、フランス、ドイツ、イギリスの諸国にあるけれど、いずれも16世紀より前には記録されていない。だけどそれより3世紀早く、すでに東洋にはあったことが『沙石集』を読むとわかる。
その7巻には、遠州池田の豪族の妻がたいへんな焼き餅やきだったことが語られている。この女は、磨き粉に塩を混ぜて夫に塗り、夫が愛人のところに通っていると証明したというのだ。次に、ある男が遠出をする際に、妻に寝そべる牛の絵を描いた話が語られる。夫が帰ってみると牛が起きていたので、怒って妻をなじった。妻が「やめてくださいよ。寝そべっている牛は一生そのままで起きないのですか」と言うと、「それもそうだな」と許してしまった。ここから、男の方が女よりも思慮が浅くておおざっぱだと結論している。
それから500年ほど後の中国で作られた『笑林広記』に類話が二つ出ている。一つは、ハスの花を描いておくと、不在中に跡形なく消え失せていた話だ。夫が大いに怒ると、妻は落ち着き払って「アンタが描いたものがいけないのよ。ハスの下にはレンコンがあるでしょ。レンコンは食べられるから、来る人がみんな掘って持って行くのよ。そうして根っこが枯れたら、花も散ってしまうじゃない」と答えたという。もう一つは、夫が遠出した際に、左翼を守る番兵を描いておいたのに、帰ってくると番兵が右翼を守っていたというものだ。怒って妻を責めると、「長い間守りを固めているから、ときどき左右が入れ替わるんですよ」と弁明したとある。
紀州に今でも伝わる話では、夫が描いたのはくつわ付きの馬だったけれど、帰ってみるとくつわがない。妻を責めると「馬も豆を食べるときには、くつわを取らないといけないでしょ」とやり込められたという。このタイプのお話が、一つの淵源から出たものか、数か所で別々に生じたのかはわからないけれど、記録に残っている最も古いのは日本のものだと見える。以上が、東京のオランダ公使館書記官のステッセル博士からの依頼で、ボクが1910年発行の『フラヘン・エン・メッデデーリンゲン』に出した論文の大意だ。
白米で馬を洗う話
馬に関する伝説として、本邦でとても広く分布しているものの一つは、白米城の話だろう。『郷土研究』4巻と『日本及日本人』春季拡大号に出したボクの文章に、だいたいのところは書いておいたので、なるべく重ならないように要約して述べてみよう。
建武年間〔1334~36年〕に、飛騨の牛丸摂津守の居城は、敵兵に水源を切られて苦しんでいた。そのとき、白米で馬を洗って、水はまだまだ多いと見せかけて敵を欺き、包囲を解かせた。また応永22〔1415〕年、北畠満雅が阿射賀城(あざかじょう)にこもった際に、足利方の大将の土岐持益が囲んで、水の手を留めた。そのときも満雅が計って白米を馬にかけて、ふんだんに水を用いて洗っていると見せかけて、敵を欺きおおせた。なので、この二つの城を、ともに「白米城」と俗称した(『斐太後風土記』11、『三国地誌』39)。
とはいえ、このような言い伝えを持つ古城の跡は諸国にたくさんある。土佐の寺石正路君に教えられて『常山紀談』を見てみると、柴田勝家の居城が水の手を佐々木勢に断たれた話が書かれている。そのとき、佐々木は平井甚助を城に入れてその様子を探らせた。平井が勝家に会って、手を洗いたいと言うと、甕(かめ)に水を満々と入れて小姓二人が担いできた。平井が手を洗うと、残った水を小姓が庭に捨てた。そこで平井は帰って「城内には水が多くあります」と告げた。一同が疑っているところに勝家が撃って出てきて、勝ちいくさとしたと記してあった。
城を守るためには水が一番たいせつだから、水がないのをあるように見せるだまし方は、大いに研究されたのだろう。だから、望遠鏡などがない時代には、白米で馬を洗っているのを見てだまされた例も多かったはずだ。先ほど挙げた二つの雑誌のボクの文章では書かなかったけれど、『大清一統志』97には、山東省の米山の言い伝えとして、斉の桓公(かんこう)がここに土を積んで偽の糧食に見せかけ、敵を欺いた。その話に似ているなあと思っているうちに、同じ本の306にこんな話があるのに気がついた。
雲南の尋甸(じんかい)州の西にある米花洗馬山では、むかし、土地の人たちが籠城をしたことがあった。それを攻める漢の兵士たちは、城内に水がないことを知った。そこで土地の人たちは、「米花」つまり米粉で馬を洗った。漢の兵士たちは、さては水があるのではと疑って、強引に攻めることができなかった。
これで中国にも白米城の話があるとはっきりわかった。
これに似ているのは、一夜のうちに紙を張り詰めて、野営地の白壁を急ごしらえしたように装って敵を驚かせる方法だ。豊臣秀吉は美濃攻めでも小田原の陣でもこれをやったらしい。しかるに『岐蘇考(きそこう)』には、天正12〔1584〕年に山村良勝が、妻籠(つまご)で城を守った際、村人たちが徳川勢に通じて、水の手を塞いだ。すると良勝は白米で馬を洗わせるとともに、一夜のうちに紙で城壁を貼って敵を欺いたとある。つまり一度に二つの奇策を用いたわけだね。
中国でも、宋の滕元発(とうげんぱつ)が、ひと晩で2500の座席を立てた話があって、紙を白壁に見せたことによく似ている。真田信繁が天王寺口において、歩兵の槍で騎馬と鉄砲を有する伊達の軍勢に勝利したことは、未曾有(みぞう)のできごととされている。しかし同様の例もあって、チリの南部に侵入したスペイン最強の将兵を、アラウカノ族の先住民たちが歩兵で撃退した。これには敵方も歌を作って称賛したという。
こういう似た話については、みなウソか、一つ以外はウソという人がいるかもしれない。だったら新聞を読んでみるといい。食い逃げのうまいやり方や、商売オンナの手練手管、銀行員の使い込みから、勲章ものの手柄話まで、何度読んでも似たり寄ったりのことばっかりだ。けれども、その例の多いことが、かえってそれらの真実味を増しているというものなのさ。
馬を橋から戻す方法
中国の馬の話として最も名高いのは、『淮南子(えなんじ)』に出ている「人間万事塞翁が馬」の物語だろう。これは中国特有のものらしい。インドを初めとして、他のさまざまな国々では同様の話を聞いたことがない。
また以前、高木敏雄君から「次の話は日本の他にもありますかね」と聞かれた。ボクは4年間調べたけれど、似たものはない。だからこれは本邦特有のものなんだろう。天文年間〔1532~55年〕に書かれた『奇異雑談』という本に出てくるもので、あらすじは次の通りだ。
ひとりの婦人が従者と旅をするのに、駄賃を払って馬を借りた。馬の引き手がなかなか来ないのでなじると、「とりあえず馬に任せて行ってください」と言われた。そこで馬が行くままに進むと、川の幅が6、7間〔10 m〕のところを、大木を二つに割って橋としている場所に出た。その木の本の部分は3尺〔約90 cm〕ほどあるけれど、末の部分はとても細い。この橋の高さは1丈〔約3 m〕で、下には岩石が多くそびえていて、流水は深く、歩いて渡っても目が回る。
馬はこの橋の上を1間〔約1.8 m〕進んだところで止まってしまった。従者は橋が細いのを見て驚いて、遅れてやっと着いた馬の引き手を呼んで「オマエが馬に任せろと言うのでそうしたら、この始末だ」と怒りのあまり斬りかかろうとする。他の従者がこれをいさめて、この里に住む八十いくつの老人を訪ねて、善後策を尋ねた。話を聞いてさてそれではと、新しい青草をさおの先に縛り付けて、馬の後足の間から足に触れないように前足の間に差し入れてみた。
馬はこれを見て草を食べる。ひと口食うと草を後に2、3寸〔約6~9 cm〕引いて置くと、馬も同じだけ後へ踏み戻してまたひと口食う。また2、3寸引いて草を置くと、また踏み戻して食う。その草がなくなると、今度はもうひとつのさおに草を付けてやると、また踏み戻して食う。何度かそうして、ついに土の上に戻った馬の口を取って引き返したので、群衆は大いによろこび、老人を賞賛したとのことだ。
和深(わぶか)村大字里川辺というのは、今住んでいる〔和歌山県〕田辺町と同じ郡にあるけれど、ボクなんかは2日歩かないとたどり着かない。そこの里伝によると、河童はしばしば馬を断崖などの上に追いやって、ちょうどこの話のような難儀な目に遭わせるということだ。
ともかく「秘密」は話したくなるもの
さて話は変わって、『付法蔵因縁伝(ふほうぞういんねんでん)』に出てくる、月氏国の摩啅羅(またら)という知恵ものの大臣の話だ。
この大臣は王様の罽昵吒(けいじった)に向かって、次のように進言した。「陛下はワタシの教え通りにされれば、四方に広がる領域を統一すること間違いなしです。ただ、その間、なにとぞ箝口令(かんこうれい)を敷いて、ワタシのはかりごとを外に漏らさぬようにお願いします」と。
王様は、そのことを承諾した。すなわち大臣のはかりごとを用いて、王国の3方の領域までを支配することができた。そこで王様は、馬に乗って遊びに出かけたのだが、その途中で馬が足を折ってくじいた。王様はたちまち大臣の教えを忘れて、その馬に向かって、「ワシは3方の領域を征服したが、北方だけはまだ降伏しない。それを従えたらワシは安泰で、オマエになぞ乗らなくても良くなる。その前に足をくじくとは、不心得の至りじゃ」と言った。
それが並み居る家臣たちの耳に入ってしまった。すると「こんなに長い年月にわたって出兵が続いて、民衆は辛苦が絶えない。その上北方まで攻めるようでは、やってられないヨ。王様を引きずり下ろすしかないゾ」ということになった。そこで王様が高熱を出したのをいいことに、布団蒸しにして殺してしまった。
こういう暴君で、一生に9億人殺した者でも、かつて馬鳴(めみょう)菩薩の説法を聴いたご縁があり、海の中の1000の頭を持つ魚となった。次から次へと首を斬られるのだが、また首が生えてくる。わずかの間に首が大海原いっぱいとなり、その苦しみは言うべきもない。ただし、ものを打つ音が聞こえる間は首を斬られず、苦痛が少しは和らぐ。それで寺ではポコポコと木魚を打つようになったそうな。
まあ、「口はわざわいの元」って言うし、「どれだけがまんしても無駄」ってこともあるし、やっぱり「ものを言わないと気持ちが晴れない」っちゅうわけだ。何とか理屈をつけて秘密をばらしたいのは世界共通らしい。古代ギリシアにも、次のようなフリュギアのミダス王の話が伝わっている。
アポロ神が琴を弾き、ヒツジの神であるパンは笛を吹き、どちらが優れているかとミダス王に聞いた。ミダスが「パン様の勝ちです」と答えると、アポロはミダスの耳をロバの耳にしてしまった。
ミダスはこれを恥じていつも高い帽子をかぶって隠したが、一人の従者だけが、主人の髪の手入れをする際に、その耳がロバの耳だということを知った。それでそのことを他人に漏らさないようにと気をつけていたが、ついにこらえきれなくなってしまう。地面に穴を掘って、「モシモーシ、聞こえますか――。ミダス王の耳は、ロバの耳なんですよ」となるべく小声でささやいた。そしてその穴を埋めて、やっと心が落ち着いた気がした。
ところが因果というヤツは恐ろしい。その穴の跡から1本の葦(あし)が生えた。小野小町の髑髏(どくろ)の眼の穴からもススキが生えて、「あなめ、あなめ。ああ、なんという、めにあうのじゃー」とうなったと言われている。それと同じように、ミダス王の耳はロバの耳だと休みなく叫び続けて、このことがみなに知れ渡った。
「王様の耳はロバの耳」の類話
高木敏雄君は、何年か前にこの話の類話についてボクに尋ねてきた。そのとき、ボクが答えた2、3の話を挙げてみよう。まずモンゴルの話だ。
ある王様の耳は金色で、ロバの耳のように長かった。世間にはそのことを知られないようにと苦心して、毎晩、若い者に髪の手入れをさせて、終わるとすぐに殺してしまった。あるとき、とても賢い若者が、その役目についた。王様の理髪に上がるときに、母の乳と麦の粉で作った餅を母にもらって、持っていって王様に献上した。王様が試しに食べてみると美味かったので、この青年に限っては理髪が済んでも殺さなかった。ただし、王様の耳のことは、母にすら話してはいけないと厳命した。
青年は慎んで約束を守ったが、守れば守るほどに言いたくなり、言わなければ身が裂けるような気持ちになった。それを見た母は「そんなに言いたいことがあるなら、野原に行って木か土の割け目につぶやいてみたら」と諭した。青年は、野原に出て、リスの穴に口を当てて、「モシモーシ、ウチの王様は――、ロバの耳を持っている――」と、なるべく小声でつぶやいた。
だがその頃の動物は、人間の言葉を解した。そこで、リスが人に話すと、その人が伝えて、王様が聞くところとなった。王様は怒って青年を殺そうとしたが、事情を聞いて感心し、彼を首相に抜擢(ばってき)した。青年は首相となって最初に、ロバの耳の形の帽子を作って王様の耳を隠した。王様も自分の異様な耳を見られる恐れがなくなり、大いに安心したという。
次はキルギス人の言い伝えだ。
アレクサンドロス大王の頭には、2本のツノがあった。臣民はそれを知らないが、知られたら王は死ななければならない。よって理髪屋を呼ぶごとに、終わるとただちに殺した。大王は地上の快楽を極めたが、なお満足せずに、二人の使者を遣わして不死の水を探させた。ある日大王は理髪屋を呼んだが、今回だけは殺さずに、ツノのことを漏らさないようにと戒めておいた。
理髪屋は命が惜しいから、しばらくは黙っていたが、耐えきれなくなって、ひそかに井戸の中に向かってつぶやいた。すると魚が聞いて触れ散らし、ツノのうわさが広まったために大王は死んでしまった。二人の使者が不死の水を持ち帰ったが及ばなかった。しかたなく共にこれを飲んだために、今に至るまで死なない。一人は素性を隠して善人を助けている。もう一人はもっぱら牛を守っているという(グベルナティスとサルキンの説)。
屁を埋める話
前述した月氏国の王様がはかりごとを馬に漏らして殺されたり、フリュギアやモンゴルの王様の理髪屋が穴に秘密を漏らしたりすることから、思いおこされることがある。それはアラビア人が屁(へ)を埋めた話だ。これも高木君には知らせておいたが、その後、政友会の重鎮である岡崎邦助氏にも話したところ、大いに感服された。珍談と言うほかない話で、誰か筆が立つ人を雇って書いてもらいたいところだ。とはいえ、なにせ銭がないから、自前の筆で自慢たらたら書いてみよう。
むかし、アラビアのアブ・ハサンという者が、カウカバン〔現在のイエメンのサナアの近くの町〕の市場で商売をして大もうけした。妻を亡くしたので、新たに若い娘をめとって、大いに宴を催した。多くの客人を饗応したのだが、ご婦人方はまず新婦にお目見えし、次にアブ・ハサンを呼んだ。アブ・ハサンは新婦の部屋に入ろうとして、恭しく座を立ったのだが、一発、高々と屁を放ってしまった。
客人たちは、彼が恥辱のあまり自殺することを恐れて、互いに顔を合わせて大声で雑談し、聞かなかったふりをした。しかるにアブ・ハサンは、恥ずかしい気持ちを抑えきれない。新婦の部屋には行かず、便所に行くふりをして庭に飛び降り、馬に乗って泣きながら走り去った。その後、インドに渡って王様の近衛兵の指揮官にまで上りつめて、面白おかしく10年を過ごした。が、あるとき、たちまち故郷を思い出して死ぬほど恋しくなった。それで王宮を脱走してアラビアに帰り、名を変えて僧服を着て、苦労の末、徒歩でカウカバンの市を目指して、ついに帰還した。
今も誰か自分のことを記憶していないかと思って、市場の周辺で7日7晩、ひそかに歩いて聞き回るうちに、ある小さな家の戸口に座った。家の裏で少女の声がして、「ワタシは何歳なの」と母に聞いていた。耳をそばだてて聞いていると、母が答えて、「そうね、オマエが生まれたのは、ちょうどアブ・ハサンが屁を放った晩のことだったわね」と言うではないか。「さては自分の放屁(ほうひ)は、ここの人たちが年齢を数えるための元号みたいに使われているのか! これじゃあ未来永劫にわたって、忘れられることはなかろう」と大いに落胆。そのまま死ぬまで長らく他国にとどまったという。
正確無比と言われているカールステン・ニーブールの『アラビア紀行』にも、屁を放って国外に追放された例を挙げている。また1735年に刊行されたローラン・ダルヴィウーの『文集』巻3にも、次のような話がある。
二人の商人が連れだって行くうちに、一人が放屁したのでもう一人が怒って殺そうとした。放屁した者は、自分の財物をすべてささげることで助命された。一方、相手の方はこのことを漏らさないようにすると約束したのを忘れて言い散らしたので、放屁側はいたたまれずに逐電してしまった。
30年後、その男が故郷に帰る途中に、近所の川辺で休憩を取った。たまたま水くみに来ていた女たちが、自分たちの年齢のことを話しているのが耳に入った。一人の女は、「ワタシはあの大物政治家がコンスタンチノープルに拘引された年に生まれたよ」。二番目は「ワタシはその人が死んだ年だよ」、三番目は「雪が多く降った年だね」と言う。四番目になって、「ワタシはね、〇〇さんが屁を放った年に生まれたよ」と明言する。「〇〇さんとはオレのことだあ――」と、自分の「臭名」が消えることはないのを悟って、ただちに他国に逃れて、三度目の里帰りは果たせなかった。
また、あるアラビア人は、屁が迫ること急なるを感じて、天幕の外に出て遠くまで行き、小刀で地面に穴を掘って、その上に尻を据えて尻と穴の間を土で詰めた。近年は酢酸を採るために窯を築く人がいるが、そのくらいの大工事だね。さていよいよ放(ひ)り込むやいなや、その穴を土で埋める。そうして音も香りも外には出ないのを確かめて、やっと安心して帰ったとある。
この話は、ダルヴィウーの本が世に出た頃は、大いに疑われたけれど、後にニーブールが真実であることを証言した。
(まつい りゅうご・龍谷大学国際学部教授、南方熊楠顕彰館館長)




