序章 連載にあたって 松居竜五
南方熊楠(みなかたくまぐす、1867~1941)という人物の名は、この20~30年ばかりの間に、一般にもかなり知られるようになってきた。小説・マンガなども含めたさまざまな書籍や雑誌で取り上げられているし、テレビ番組などで扱われる頻度も着実に増えている。少し前には「東大生183人が選ぶ尊敬する学者1位」になったくらいだ。
筆者は5年前から、和歌山県田辺市の南方熊楠顕彰館の館長をしているが、来観者は老若男女さまざまな人たちにわたる。そうした人たちとの対話を通じて、これまでのような特定のファン層でなく、たくさんの人に熊楠という人のおもしろさを伝える必要性を痛感させられた。そこで2024年に、熊楠が読んだ図鑑や、観察を続けた生きものの世界を描いた『熊楠さん、世界を歩く。―― 冒険と学問のマンダラへ』(岩波書店)を刊行した。
とはいえ、南方熊楠が何をした人なのか、という説明はなかなか尽くせないものがある。一般に粘菌や自然保護といった面の活動とともに、古今東西の文献に通じた博覧強記の学者であったことは、ある程度は認知されているかもしれない。しかし具体的に熊楠が残した仕事の内容については、あまり知られていないのではないだろうか。特に、熊楠自身の著作を読み慣れているという人は、ほとんどいないというのが実状であるように思われる。
そこで、熊楠のテクストに触れてみたいということで、「十二支考」にたどり着く方も、少なくないのではないか。この作品は、大正3(1914)年の寅年から始まり、毎年の干支にまつわる話を書き継いだものだ。「虎」「兎」「竜」「蛇」「馬」「羊」「猿」「鶏」「犬」と来て、大正12(1923)年の亥年、「猪」の回までが、博文館の雑誌『太陽』に連載された。その後、「鼠」の回は他誌に発表されたが、「牛」の回はついに書かれることなく終わっている。
そのようにして40代の後半から50代半ば頃に執筆された「十二支考」は、早くから南方熊楠の「主著」として考えられてきた。たとえば1950年代初頭に編纂された乾元社版の最初の全集においては第1巻と第2巻に配されているし、1970年代前半に大幅に増補された平凡社版の全集においても第1巻に収められている。その後、岩波文庫にも上下2巻本として収録されており、インターネットの「青空文庫」にも収録されていて、一般にも目に入りやすいものとなっている。
ところが、この「主著」がかなりやっかいな代物なのである。かつての批評家たちは「知の饗宴」などと呼んできたのだが、ちゃんと読みこなしていたかどうかは怪しい。ゆっくり味わえば「名文」といえないこともないのだが、はたして全11篇を端から端まで読み通したという人は、どれほどいるのだろうか。どのくらい難読かというと、たとえば、今回取り上げる「馬」の回の冒頭は、原文ではこんな感じだ。
隙(ひま)行く駒(こま)の足早くて午(うま)の歳を迎うる今日明日となった。誠や十二支に配られた動物輩いずれ優劣あるべきでないが、附き添うた伝説の多寡に著しい逕庭(ちがい)あり。たとえば羊は今まで日本に多からぬもの故和製の羊譚はほとんど聞かず。猴(さる)の話は東洋に少なからねど、欧州に産せぬから彼方の古伝が乏しい。これに反し馬はアジアと欧州の原産、その弟ともいうべき驢はアフリカが本元で、それから世界中大抵の処へ弘まったに因って、その話は算うるに勝(た)えぬほどあるが、馬を題に作った初唄唱(うた)う芸妓や、春駒を舞わせて来る物貰(ものもら)い同然、全国新聞雑誌の新年号が馬の話で読者を飽かすはず故、あり触れた和漢の故事を述べてまたその話かと言わるるを虞(おそ)れ、唐訳の律蔵より尤(いと)も目出たい智馬(ちば)の譚を約説して祝辞に代え、それから意馬(いば)の奔(はし)るに任せ、意(おも)い付き次第に雑言するとしよう。
(岩波文庫『十二支考』上巻315頁。原文ルビを( )内に挿入)
たしかに、音読するとなかなかのリズム感だし、切れ目なく話題がつながる流れには圧倒されるものがある。かつて谷崎潤一郎は『文章読本』において、熊楠の文体を高く評価した。谷崎によれば、日本語の特徴が最も表れているのは「流麗な調子」だが、熊楠の文体はそこから派生し、それを超越した「飄逸(ひょういつ)な調子」であるという。この原文など、まさにそんな感じではある。
けれども、それが21世紀の我々にとって読みやすいかといわれると、簡単にはうなずけないだろう。「古文」だと思って集中して読めば、このくらいの分量ならば何とかなるかもしれないけれど、こんな調子の独特な文体が、数十、数百ページと続く。そして古今東西のさまざまな種類の文献が行ごとに目まぐるしく登場する。現代の忙しい読者としては、音を上げざるを得ないのが実情だ。
筆者の考えでは、その読みにくさの一因は、この文章が発表された頃の『太陽』の読者と現代の読者の、「読書」というものに対する姿勢のちがいから生じている。明治28(1895)年に創刊された博文館の月刊誌『太陽』は、最盛期には10万部近くに達する部数を誇り、大正期を代表する雑誌であった。内容的には、時事問題から連載小説までを扱う「総合誌」と呼ばれるものだ。
今よりは格段に娯楽が少ない中で、そういう雑誌を読む多くの人たちは、毎月、書店で買ったり、郵送されたりするのを待ちかねていたのではないだろうか。そして、おそらく次の号が出来するまで、ひと月をかけて、じっくりと読んだのだろう。たとえば当時の『太陽』の愛読者として、時間を持て余した、街のご隠居さんのような存在を想像してみるとよいと思う。それなりに学歴もあり、それなりに社会で活躍してきたが、退職後は培ってきた教養や経験を活かす機会がないような人たちだ。
そうした人たちにとって、古今東西の博学を元にマニアックな話題を提供してくれる「十二支考」は、読めば読むほど味わいのある、そしてどんどんとその世界にハマっていくような作品だったはずだ。銭湯や居酒屋などで、ひとりのご隠居さんが、「近ごろ『太陽』に連載しているミナカタ某という面白い書き手を見つけましてな」と話題を振る。するとお隣さんが「ほほう、さすがにお目が高い。私もミナカタ氏には一目置いていましてね」と答える。そんな会話の様子が目に浮かぶ。
そういう大正時代のご隠居さんのような気分で、現代の読者に「十二支考」を楽しんでもらうことはできないだろうか。それが、今回の「十二支考」現代語訳の出発点である。やはり、毎年の干支にちなんで、熊楠がリアルタイムで寄稿しているようなスタイルを踏襲したい。そこで、「たねをまく」の誌面を使わせていただいて、令和8年、2026年の午年に向けて、「馬」の回を連載することとなった。
ちょうど「馬」の回は、今から108年前にあたる大正7(1918)年の『太陽』での連載時に、1月号から始まり、2月、4月、5月、6月、9月、12月の7回に分けて連載された作品である。今回は、前年(つまり2025年)の12月から始めて、隔月で6回分を予定しているから、毎回、『太陽』連載時とほぼ同じくらいの分量を読んでいただけるだろう。なお、「現代語訳」という呼び方が適切かどうか迷うところではあるのだが、便宜上このように呼んでおきたい。
この現代語訳でまず工夫したのは、全体の切り分け方である。「馬」の回は、「伝説」(1回目)/「伝説」(2回目)「名称」/「種類」「性質」/「心理」/「民俗」(1回目)/「民俗」(2回目)/「民俗」(3回目)という七つの章に分かれている。これは連載の区切りと連動していて(/を入れたところが1号分)、もちろん意味のない区分ではない。しかし、通読した印象として、それぞれの「章」の内容はかならずしもそれほど独立しているわけではないように思われる。同じ話題が、章をまたいで何度も現れたりもしており、章題と内容が一致していない部分も多い。
そこで、現代語訳においては、もう少し短い独自の区切りを、小見出しとともにつけることとした。実際に訳してみると、なぜか1200字から2400字くらいで話題が切り変わるという一定のリズムがあることに気付いたからである。最近、神奈川大学に所蔵されていることが確認された自筆原稿を見ると、熊楠は少なくとも「馬」の回と「羊」の回に関しては、24字×20行の480字詰め原稿を用いているから、2枚半から5枚くらいで一つの話題を完結させているようだ。
次に気をつけたのは、段落の分け方である。先ほどの引用文をお読みいただいてわかるように、熊楠は現代のような段落の付け方はしていない。句点「。」が少なく、読点「、」でつないでいくところも特徴的だ。筆者は大学で、学生に「パラグラフ・ライティング」の書き方を教えていて、レポートなどでは段落ごとにトピックを明確にするように徹底させている。もちろん熊楠先生の「飄逸な調子」は、そんなことは超越した高みにあるものだ。ただし、これには誌面の節約という『太陽』側の事情もあったかもしれない。
それを3~4センテンスくらいで改行する「現代的」な日本語の文章になるようにしてみた。熊楠の頭脳は、西洋、中国、日本、その他、と目まぐるしく切り替わっていくのだけれど、このくらいの改行をすると、その切れ目としても役に立つ。句読点を増やして、一文はなるべく短く切り、文の中での前後関係も、内容に応じて改変させてもらっている。浅学の輩がそんな勝手なことをと、熊楠先生に知れたら激怒されてしまうかもしれないが、それは承知の上だ。
また文体としては、なるべくさまざまな調子を混在させるように心がけた。筆者の出身の関西に偏ってはいるものの、方言による表現を試みたり、学生から学んだうろ覚えの21世紀の若者言葉を使ったりしてみた。直接話法を多用し、引用文にはちょっと映画やアニメのセリフ風にしてみたり、意味を変えない程度に感嘆詞を入れたりした部分もある。
実は熊楠自身、『太陽』に執筆するにあたって、それまでの学術的な文体の硬さを柳田国男から指摘されていた。そこで、一般誌である『太陽』の読者を意識して、「江戸っ子、上方詞の俗語、ベランメー語までも雑用して文章をかかんこと」(『南方熊楠全集』8巻225頁)を志したというわけだ。そうした原文の意図を汲んだつもりなので、これに関しては大先生にも、ある程度は了解していただけるだろう。
最後に、引用されている文献について。「十二支考」は次から次へと、注釈もなく古今東西の書物からの引用が続けられる。これは、熊楠が幼い頃から親しんだ中国や日本の古典籍や、大英博物館で筆写していた英語・フランス語・イタリア語・スペイン語・ドイツ語などの稀覯書(きこうしょ)などを用いたものである。さらに36歳で田辺に定住してから、熊楠は多くの本を購入して、自家薬籠中のものとしていった。その内容を理解するためには、それぞれの本に関する詳しい解説が必要かもしれない。
しかし今回は、それらの文献について、本文中にはあえて、あまり説明は入れないようにした。この文章の中では、おそらく熊楠自身もそう考えていたように、できるだけ話の流れを遮らないようにしたいというのが、その理由である。いちおう、ほぼすべての引用原典について内容や来歴を確認しているので、そうした研究的な部分に関しては、来年の夏ごろに刊行を予定している「十二支考」に関する書籍の中で紹介したいと考えている。
それでは読者のみなさまが、南方熊楠「馬に関する民俗と伝説」とともに、よい午年を迎えられますように。
【現代語訳についての付記】
◯ 原則として、( )は原文にあるものと、原文にあるふりがな。〔 〕は原文にはない注やふりがな。
◯ 原文には、今日の目から見て差別的と思われる表現が含まれている場合があるが、訳出にあたってはその表現の歴史性も考慮した。
◯ 原文中に現れる固有名詞や学術用語などについては、基本的に引用元の原典によって再検討し、現在通用している表記に直した。
◯ 仏教説話に関しては、京都大学人文科学研究所JSPS特別研究員PDの打本和音さんに、さまざまな角度からのご教示をいただいた。伏して感謝申し上げたい。
(まつい りゅうご・龍谷大学国際学部教授、南方熊楠顕彰館館長)




