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辻和希 生物進化とヒトの善悪[『図書』2026年1月号より]

生物進化とヒトの善悪

いきものは利他的なのか

 

 利他に関する書籍が、このところいくつも出版されています。背景には、長く低迷する経済と相次ぐ自然災害という国内事情や、世界に目を向ければ感染症流行に戦争と、世相を反映した不安もあるのではと私は想像します。困難に直面する人の多さに心を痛め、私たちはいかに対立を乗り越え協力できるのか、どうすれば他者に対する思いやりが涵養できるのだろうか、と問いたくなるのは自然なことだと思います。そしてこれは、宗教を含むさまざまな思想を生んできた人にとって普遍的な問いであるのは間違いないでしょう。人がこの問いを繰り返し提出してきたのは、他者の不幸に共感し、論理的思考と想像力を働かせ未来に備えることができるという、生物の中でもヒトだけにとくに高度に発達した社会的認知能力、いいかえるなら進化した「人間性」の賜物だろうと私は考えています。

 興味深いのはそんな書籍には、ヒト以外の生物が示す利他に言及しているものがときどきあることです。この裏には人々の願望もあるのではと、私は睨んでいます。もし生物としてのヒトが、そして生物が一般に、利他的にできているのならば、今はこの基本を見つめ直すべきときである。失いかけた自然的美徳を文明人は呼び覚まそう。こんな倫理的推論が根底にあるのではないでしょうか。困ったときは基本に立ち返ろうという姿勢は私も好きです。そんなとき、碩学に「いきものは優しくできている」といわれると少し安心するのかもしれません。

 

 しかし、事実としてはどうなのでしょう。私は長年、生物の利他行動を研究してきました。利他は人間だけの特徴でなく、それを見た人の誰もが利他ないし自己犠牲だと認めるような行動が、ヒト以外の一部の生物にも見られるのは揺るぎない事実です。

 極端な例をあげましょう。ミツバチの働きバチは外敵に襲われると毒針で応戦しますが、刺さると抜けにくくなる「かえし」の付いた毒針は、一旦刺さるとハチの腹部の一部もろとも切り離され、やがてハチは死んでしまいます。しかし、残された針に付属する内部器官が動きながら毒を注入し続け、敵にダメージを与えるのです。

 熱帯アジアのアリには、外敵に襲われると腹部を膨張させ、自爆するものがいます。ここでもアリは死んでしまいますが、破裂した腹部からは粘ついた分泌物が流れ出し、これが敵の戦意を喪失させます。

 自爆攻撃は、樹木に虫こぶを作りその中で暮らすヨシノミヤアブラムシにも見られます。この昆虫にはヒトと似た奇妙な「閉経現象」があります。出産を終え不妊になった老齢雌がとても長生きするのです。そんな「閉経」後の老齢雌は一体何をしているのでしょう。子供を産まなくなった雌はぷくぷくと太ってきます。悠々自適のようにも見えますが、実はそうでもありません。いざというとき、たとえば虫こぶを食いやぶって侵入してくるある種のガの幼虫のような天敵に襲われたとき、身体を爆発させて、飛び出した粘液で敵を羽交い締めにするのです。閉経後の雌が太ったのは、体内に粘液を充満させ不測の事態に備えていたからでした。飛び出した粘液はしばらくすると硬化し、虫こぶに穿たれた穴をふさぐ働きもあり、穴の跡には雌の死骸が埋もれていることさえあるそうです。

 これら自殺的な攻撃は、利他行動だとほとんどの人が認めるでしょう。なぜならそこには、命と引き換えに仲間を守るという明確な「意図」が感じられるからです。これらはみな、群れを作り共同生活する社会性の昆虫なのです。

 

 生物に自己犠牲があることはわかりました。しかしここでも注意が必要です。私は一部の生物に利他行動が見られると書きましたが、生物が一般的に利他的だとは述べていないのです。残念ながら、進化生態学という研究分野でのコンセンサスでは、利他行動が見られるのは、子育てをしたり、群れや家族で生活する一部の生物だけであると考えられています。

 では、なぜそれらの生物は利他性・自己犠牲を示すのでしょう。実は、これはダーウインを最も悩ませた問題のひとつでした。

 ことの本質は、自爆死のような目に見えて極端な行動それ自体ではなく、それを行う働きバチ・働きアリの存在そのものにありました。アリやミツバチが社会性昆虫とよばれるのは、それらが我々ヒトに似た集団生活を営むからですが、その群れの中には繁殖する個体(女王、王)と繁殖しない個体(働きアリ、働きバチ)という生殖的分業がみられます(図)。働きバチや働きアリは不妊個体なので、討ち死にしようがしまいが、自然選択理論上は最初から死んでいるのも同然なのです。

図 ケブカアメイロアリの巣の中。中央近くのひときわ大きな個体が女王。その他の比較的小さなアリは働きアリ。女王が産卵し、働きアリは自分では繁殖しないかわりに女王の産んだ子の世話や巣のガードを担当する。アリの社会では、女王も働きアリもすべてが雌。白っぽいのは幼虫と蛹。

 ダーウィンの唱えた自然選択による進化は、ざっくりいえば以下のような仕組みです。まず、同種の生物のあいだにはしばしば個体差が見られます。このような個体差には多少とも遺伝性のものがあるでしょう。遺伝性の個体差は、稀に起こるゲノムのコピーエラー(突然変異)で生じますが、この個体差に対し、生息環境によるふるい分けがかかります。他個体よりも生存や繁殖に結果的に成功した個体がもっていた性質が、遺伝を通し子に伝わることで、徐々に種内へ広がっていくのです。これを何世代も繰り返すうちに、生物の性質はやがて高度に環境に適応したものへと変貌しうるとダーウィンは考えました。これが、家畜や栽培植物の品種改良のプロセスである人為選択をヒントにダーウィンが唱えた、自然選択による進化の理論です。

 しかし、自然選択には人為選択とは異なる特徴もあります。人為選択による品種改良は、ブリーダーが目的に適った個体を選抜することで進みますが、自然選択は生物が生息環境で暮らすうちに自然に生じてしまう、いわば目隠しをしてふるい分けするような仕組みです。そこには設計者はいません。そんなプロセスであるにもかかわらず、動物であれば天敵に襲われれば逃げ、繁殖期になれば配偶相手を探し、植物であれば日陰に生えたときは陽の当たる方向に枝を伸ばす、などなど、枚挙にいとまがないほどよくできた適応的な特徴を生物は進化させてきたのだと、ダーウィンは考えました。このアイデアは、現代科学においても基本的に正しいと考えられています。

 

 アリやハチの話に戻りましょう。もし進化がすべてこのような、同種の生物の個体差に対して働く自然選択で説明でき、そして生物がすべて進化の産物であるならば、現存の生物個体には、先祖の時代に生じた突然変異で改変可能だった範囲で、最も多く子供を残すことにつながった性質が備わっているはずです。しかし働きアリや働きバチは不妊であり、性質の特徴を遺伝により次世代に伝える術となる子をもちません。なぜこのような性質が進化し得たのか、この矛盾にダーウィンは悩んだのでした。実際、『種の起源』第7章でダーウィンは、働きアリの存在を、「はじめ私にはとても克服できそうにないように見え、実際私の理論全体にとって致命的だった」と告白しています。

 さて、読書家のみなさんは、働きアリがなぜ存在するのかというダーウィンのこの悩みについて、見聞きしたことがあるでしょうか。ない方が大半だと思います。実は、これは一般読者だけでなく、生物学者にもいえることではないかと私は少し危惧しています。というのは、近年出版されている日本の生物学者による和文の本で、生物の利他について言及しているものの多くが、ダーウィンの悩みを皮切りに始まった喧喧囂囂の進化生物学の論争史に触れることなく書かれているからです。利他性に関する生物学的研究はこの60年くらいのあいだに劇的に進んだのですが、それを不十分にしか、あるいは全く顧みず書かれています。僭越ながら、進化生物学者からみて首をかしげるようなものも多くあります。私は具体例をあげませんが、興味のある方は河田雅圭著『ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?──進化の仕組みを基礎から学ぶ』(光文社)をご覧いただくのがいいでしょう。

 

 このような背景から、私はこのたび、なぜ一部の生物が利他的にふるまうのかに関する生物学的研究の入門書である『利他と血縁──社会生物学入門』を執筆しました。入門書ですので、集団生物学の基礎から積み上げていくアプローチをとり、全体の5分の1くらいを概念の定義とその背景の説明に費やしています。利他という概念も含め、基本用語をこれまでで一番丁寧に解説した進化生態学の日本語教科書だと思っています。

 主として大学生や大学院生向けに書かれた本なので、難解な部分も多いでしょう。しかし著者としては、理屈っぽいところは読み飛ばせるよう工夫していますので、勉強好きの一般の読者の方や文化系の研究者の方にも、機会があればいちどご覧いただければと希望しています。なぜそう思うのかというと、月並みな表現をすれば、人生を豊かにする一助のため、哲学のためです。

 この本で私は、多くの読者が抱いているかもしれない生物観を、何度も卓袱台返ししているかもしれません。生物もモノでできており、物理や化学の法則に従っているというのは、今日のいわゆる理系の人の共通理解でしょう。ただし人間の心や生命はひょっとしたら別ではないかと考えるのが、理系も含め、実は常識なのかもしれません。これに対し、この本は、ヒトの心や命の理解にも「モノとしての生物」「生物としてのヒト」の科学的知識が重要であるという立場を表明します。ただしヒトにはあまり言及せず、アリやミツバチがなぜそうであるのかを考えることで、間接的にヒトの特徴にも光が当たるように書きました。

 まず、生物進化に関して一般の方々が抱く最大の誤解だと私が思う「目的論」という論理を否定します。私も含む進化生物学者は、たとえばミツバチの働きバチの自殺攻撃は巣の仲間を守るためであると目的論的な表現をします。しかしこれは便利だからつかう比喩であり、生物には元来目指すべき究極の目的などなく(それを仮定すると知性をもつ創造者を想定することになります)、目的をもつように一見みえる生物の「意思」のようなものは、自然選択により自然発生してきた性質なのだと説きます。この立場で全ての論を進めています。

 そして、生物が示す自己犠牲的行動は、子や他の家族などのいわゆる血縁者を守る働きとして多くは説明でき、種の繁栄などという目的のためではないことを説きます。この考えは、遺伝子の視点でみれば、個体は遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎないとしたリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と立場を同じくしますが、私は、アリやミツバチのコロニーのように機能的に統合された「超個体」の間に働く自然選択という考えも肯定する点で、ドーキンスとは見解が多少異なるかもしれません。また、ヒトにみられるような非血縁者の間での助け合いは、自己犠牲ではなく両得の関係であるとする互恵性の理論を紹介する一方で、実はそれは血縁者に向け生じた性質が二次的に非血縁者にも向けられる形で進化したものではないかという考えを表明します。

 

 先に、生物の利他が注目されるのは読者の期待の反映かもしれないと書きました。そのような期待からは、『利他と血縁』の主張は身も蓋もなく映るかもしれません。実は、自然に従えばよいという発想そのものが思考の停止ではないかと、多くの進化生物学者は批判しています。これを「自然など無視すればよい」という主張だと誤解しないでください。「こうである」と「こうすべきである」という2つは別物だということなのです。

 ヒトの生物学的事実には、「善」に映るものも「悪」に映るものもあるでしょう。事実を正しく受け止めたうえで、では私たちはどうすればいいかと考えることが、単に自然に従えばよいとするよりもましではないでしょうか。『利他と血縁』が、各自でそれを考えるヒントにわずかにでもなればと願います。

 

(つじ かずき・生物学)


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