【座談会】<翻案>と文学──岩波文庫『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』から考える[『図書』2026年1月号]
池澤夏樹×柴田元幸×澤西祐典
本の成り立ちと「発見」
柴田 2025年4月、岩波文庫から『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』(以下『芥川選』)を刊行しました。この本の成り立ちは少しややこしいのですが、まず、1924―25(大正13―14)年にかけて芥川龍之介が編んだ、旧制高校のための英語副読本『モダン・シリーズ The Modern Series of English Literature』(全8巻)というアンソロジーがあります。小説も戯曲もエッセイも含め、当時の英米文学の最前線から芥川自身が51篇を選んだものです。英語原文のみで、翻訳もついていません。このほぼ忘れられていた、でもなかなか面白いシリーズに、作家で芥川研究者でもある澤西さんが注目し、柴田と二人で編者となって、ここからさらに面白い作品を22篇精選したのが『芥川選』というわけです。
この『芥川選』を池澤さんが読んで、びっくりするような発見を知らせてくださった。この本に収録しているダンセイニ卿「追い剝ぎ」(岸本佐知子訳)は、芥川の「蜘蛛の糸」の元になった作品なのでは、というんですね。この本の中でも、たとえばビアス「月明かりの道」が芥川「藪の中」の下敷きになっていることなどは澤西さんが解説で指摘しているようによく知られているのですが、「追い剝ぎ」と「蜘蛛の糸」には僕たちは考えが及ばなかった。これは結構大きな話だぞというので、直接お話をうかがおうと、池澤さんにお越しいただいたわけです。芥川の海外文学受容、あるいは海外文学からの翻案を話のきっかけに、お二人ともご自身作家でいらっしゃいますので、広く創作における翻案の意味などに話が及んでいけばと思っています。
池澤 まず申しあげると、この『芥川選』、すごくいい本です。面白い。僕は芥川を一通り読んでいたし、海軍機関学校で英語を教えていたのも知っていたけど、こういう仕事は全く知らなかったので驚きました。それから『芥川選』に続いて澤西さんが出された『芥川龍之介における海外文学受容』(ひつじ書房)も拝読して、さすが芥川ともなると、旧蔵書や読書経験がここまで綿密に調査研究されているんだなと、これもまた驚いた。そしていちばん驚いたのは、芥川はこれほど広く海外文学を読んでいたかと。もっぱら英米のものかと思いますが、そこからヒントを得るという姿勢をはっきり持って、相当な数のものを徹底して、丁寧に読んでいる。その結果、名作のみ選んでもこれだけのものがあったという、この本の製作過程に感心しました。
それでここからは自画自賛だけど(笑)、あれっと思ったんですよ。僕がそういうことに目がいく性格の読者であるからだと思うんだけど、「追い剝ぎ」。縛り首になった追い剝ぎトムの亡骸(なきがら)を仲間たちがどうにかしようとする話で、基本の原理は「悪い奴も一生に一度は善いことをする」、その結果ということですよね。これは場所や登場人物を変えて作ってあるけれども、「蜘蛛の糸」じゃないかと。それで芥川が読んだ時期などは全く考えずに「これ繫がってませんか」と柴田さんに申しあげたわけです。素人の投げた球がたまたまヒットして、柴田さんと澤西さんが面白がってくださった。
『モダン・シリーズ』の面白さ
柴田 ご指摘に驚きました。この2作の関係は指摘されたことがないそうですが、海外文学と芥川作品の繫がりに既存研究があまり触れてこなかったのは、英語を読む必要があるからですか。
澤西 芥川が海外の作品をどう自作に活かしたかを問う研究は色々あります。ただやはり、日本語に翻訳されたものを手がかりにした研究がメインでした。『モダン・シリーズ』も存在自体はかなり前から知られながらも、実物を持っている研究者が少なく、しかも英語原文のみで、日本語に訳されていない作品も多く含まれていたことから、内容に踏み込んで研究されたことはほとんどありませんでした。たまたま私の恩師の一人である清水康次先生がほぼ揃いで持っていて、それを一式貸してくださいました。君が持っていた方が面白そうだからって。するとこのシリーズの収録作は芥川の作品とも深い関わりがあって、なおかつ、おとぎ話や民話のような原初的な形の物語から近代の整った短篇へと、芥川の読書体験をなぞるような構造になっているのも見えてきました。何より純粋に一読者として、読んで面白いものがたくさん含まれていた。芥川は知人たちから「いつも面白いものを見つけてくる」と言われていたのですが、このアンソロジーはまさに彼らしい功績だと思います。
でも『芥川選』という形になって現代の読者に目を通してもらうと、研究者として見落としてきたものにも多く気づかされました。池澤さんの仰った「蜘蛛の糸」と「追い剝ぎ」の関連というのは、まさに芥川の感性とも繋がる重要な発見だと思います。
他にも、ダンセイニ卿と同じく『芥川選』に入れたアイルランドの作家、レディ・グレゴリー「ショーニーン」(岸本佐知子訳)についても、読者が面白い発見をしてくれました。この作品の最後には、200歳近いのにめちゃくちゃ強い巨人の老婆が、60キロ近くある拳闘用のグローブ(長さ15インチの棘付き)をはめて主人公に殴りかかるシーンがあるんです。この老婆の描き方には、アイルランドの童話が持っている荒唐無稽な想像力の面白さと同時に、芥川の「強い老婆」に対する憧憬があるんじゃないか、こういう作品を選んだところに芥川の好みが反映されてるんじゃないか。「羅生門」の、老婆が死骸の髪の毛を抜いている場面とも重なりますし、芥川の育ての親で、家庭内で強い発言権のあった伯母・フキのイメージとも重なっている。こうしたことをX(旧Twitter)等で読者が指摘してくれたんですね。『芥川選』を通じて、改めて芥川の英米の作品に対する選球眼の良さと、彼個人の読書の好みが自身の作品に繋がっていく広がりを感じているところです。
柴田 読書体験が創作に影響するという見方は、国文学研究では一般的なんですか。
澤西 材源にはやはり一定の関心が払われていますが、一つの流派といいますか。私の出身大学では、元々近世以前の作品に対する注釈研究を軸にしていて、近代文学を対象とする際も、使われている語彙の出典や物語の典拠に関心を持つ研究スタイルなんです。なおかつ私は、和漢の古典だけではなく西洋のものにも関心が強かったので、芥川と洋書との関係に注目して研究を進めています。
芥川の二つの側面
池澤 『芥川選』との連想で思いついたのは森鷗外の『諸国物語』ですね。当時の西洋の短篇を広く読んで傑作を集めたもので、しかも彼は全部自分で訳している。ヨーロッパだけじゃなくてアメリカのポーなども入れていますね。
柴田 鷗外は、海外のものを読んでそれなりの作品に出会ったら全部訳してる、みたいな印象がありますね。芥川の場合は、いい作品に出会って得たエネルギーをどう変換したのか、たとえば『モダン・シリーズ』みたいなアンソロジーを作ったということでしょうか。
澤西 たぶん本人はアンソロジーを作る気はあまりなくて、たまたま依頼が来たんだと思います。芥川も『諸国物語』を愛読していて、そのおかげで新しい文学が彼の中で開いたところがある。『諸国物語』収録のブウテ「橋の下」を参考に「羅生門」を仕上げていることが指摘されています。
芥川には二つの側面があって、テーマ的なところは西洋のものを読んでアイディアを得ていく。一方でそれを日本語の世界で立ち上げるときには、言葉(日本語)に対するフェティシズムみたいなものを強く持っている。たとえばキリシタンものを書くときには、西洋の伝説を材源に使って、それをわざわざ『天草本平家物語』の言葉を真似して書いたりしています。読書をする際にも、アイディアを得ることと、言葉を渉猟する楽しみのような、二つの側面を確実に持っていたのだと思います。それが両立しているという点で芥川は稀有な作家です。
池澤 一つの短篇が非常に精緻にできていて素晴らしいということと、その最初のきっかけになるアイディアとはまた別で、確かに芥川はアイディアを得た後で、大変にうまく、大きな短篇に仕上げていますね。だから「追い剝ぎ」と「蜘蛛の糸」でも、「悪い奴が一度だけ善いことをした」と、そこだけを拾ってきて、その後はもう全く自家薬籠中のものとして短篇に仕立てている。だから、あれはまちがいなく創作なんですよ。芥川にとっては鷗外みたいに翻訳するのはまだるっこしくて、自分の話をしたいと、創作力のほうが勝っていた。ただ最初のきっかけは他の作品でもいいと。というのは、短篇ですからね。短篇はアイディア一つで出来るんです。あとは腕の問題です。尾崎紅葉が典型的なんだけれど、この時代はまだ海外から持ってきたものを使うのは当たり前みたいなところがあった。小説なんて江戸までは無かったものなんだから、お手本を見ながらやりましょうと。芥川は頭が良かったから、お手本を徹底して使い、しかし完全に自分のものとして作っていったということですね。
『芥川選』の最後に入っている芥川自身の書いた「馬の脚」も、元は中国の怪異譚を集めた『聊斎志異(りょうさいしい)』じゃないかと思います。「馬の脚」は、地獄の役人が人まちがいをして、死ぬ運命じゃないはずの奴を連れてきちゃう話でしょう。それで下っ端が閻魔(えんま)様に叱られて、まちがえて連れてこられた人と、本来死ぬはずの人とを入れ替えに行くんだけど、もう間に合わなくて……という。中国って官僚主義だから、地獄でも全部官僚なのね。そういう話が『聊斎志異』にもいくつかあるんです。ただアイディアはここから採ったにせよ、「馬の脚」はちゃんと芥川の作品になっている。
柴田 「馬の脚」で一番面白いのは、澤西さんが言われた「言葉に対するフェティシズム」と繋がるんですけど、タイトルが「馬脚を露(あら)わす」という言葉からとられていて、そこから物語を作ってるところですよね。つまり、馬脚を露わすまいとしてジタバタする男の話(笑)。
「蜘蛛の糸」は、物語の筋から言うと、もう一つ出所があるんですよね。
澤西 そうです。ポール・ケラスの『カルマKarma』という作品集があって、『因果の小車(おぐるま)』というタイトルで鈴木大拙が訳しています。その中の「The Spider-Web 蜘蛛の糸」をベースに芥川は書いたと思われます。
柴田 これは主人公の名前からして、「蜘蛛の糸」と同じ「犍陀多(かんだた)」だと。
澤西 そうなんです。ただ芥川がなぜこれをリライトしようと思ったのか、なぜ心を動かされたのかが見えづらかったんです。私が池澤さんの発見を聞いて大変納得がいったのは実はそこで、元々「追い剝ぎ」の読書体験があって、それが頭に残っている中でこの大拙の訳を読んで、自分も同じような読書体験を再創出したいと思ったとすれば、納得がいくんですね。芥川は、何かを読んで得られた読者としての感慨を、全く違う舞台と言葉で再現してみせるのがうまい作家だと思います。「追い剝ぎ」と「蜘蛛の糸」はそういう意味でよく似ていて、それは、使われている言葉やストーリーの比較では見えてこない重要な部分なのではないかと思いました。
柴田 「The Spider-Web」がまずあって、そこから話の筋や骨組みは借りてきたとしても、ポイントになる一番の核心はむしろダンセイニから持ってきている。それにさらに独自の空気感みたいなのをしっかり入れて、名作になっていくと。
啓蒙家としての鷗外
柴田 鷗外と芥川で言えば、時代の違いというのはどうなんでしょうか。芥川の一時代前の鷗外は、とにかく面白いものはどんどん訳す、面白くなくても訳してるんじゃないかなと思うこともあるけれど(笑)、そういう姿勢だったわけですね。つまり明治時代は、作家が翻訳家であることも求められるような空気がより強くあり、実際翻訳をやった人も多い。逆に漱石のように、翻訳に対して極端に懐疑的だった人もいる。それに対して次世代である芥川たちは、もう別に作家が翻訳をやらなくてもいい、みたいな空気があったということはないですか。
池澤 鷗外は、まず、啓蒙家なんですよ。だからお手本を見せて、こんなふうにヨーロッパでは書いているんだから、ここから学んで自分たちで作りなさいという、ある意味で人助けなんですね。アンデルセンの『即興詩人』のように本当に楽しんで自分のために訳しているものもあるけれど、『ファウスト』を訳したのも『諸国物語』も、「サンプルを見せる」という姿勢だったんじゃないのかな。
柴田 ああ、なるほど。
池澤 紅葉の『金色夜叉』にも元の話があることを堀啓子さんが発見したんだけれども(バーサ・M・クレー『女より弱き者』)、紅葉の場合は元の話があることを隠して全く日本の話にしてしまって、小説のストーリーやプロットというのはこういうものなんだよと、自分の手柄にして出した。これもまたサンプルにはなりましたけどね。
時代ということで言うと、鷗外の頃はすでに雑誌ジャーナリズムの時代です。芥川の頃はいよいよ盛んになった。このサイズで面白い話を書けば必ず雑誌に載る、人が読む、というのはもう確立していた。どこの国でも、特にアメリカでは、雑誌ジャーナリズム全盛の時期があったでしょう。ジャック・ロンドンなんてまさにその寵児ですよね。それが日本では大正期にあって、だから作家はみんな短篇をうまく書くのを目指した。しかしなかなか長篇が書けなかった。『暗夜行路』を長篇としてどうみるかということはあるけれど、基本的に、戦前は誰も長篇を書けてないですよ。やっぱり雑誌で勝負する、と。すると、いかに面白いか、いかに文体で唸らせるか、酔わせるか、そういうところで芥川はずいぶん自信があったんじゃないかな。
柴田 芥川は教科書は作ったけれども、啓蒙しようという意図はなかったと。
池澤 たぶんなかったでしょうね。海軍機関学校の生徒なんて本当に少数だし、その中から文学者は出ないのもわかっていただろうし。
柴田 鷗外には、岩波文庫にも入っている『椋鳥(むくどり)通信』がありますよね。ヨーロッパの新聞や雑誌から拾ってきたニュースを日本の雑誌で連載した。ああいうことを芥川はやっていませんね。
澤西 芥川も『侏儒の言葉』などは『文藝春秋』に少しずつ連載していますが、基本的にアフォリズム的なものですね。
柴田 『椋鳥通信』はいわばTwitterだけれど、『侏儒の言葉』はもう少し、ビアス『悪魔の辞典』に近いというか、人間一般の心理のようなものを書いていますよね。
池澤 『椋鳥通信』は「海外新聞拾い読み」でしょう。こんな話がありましたと、報道と啓蒙なんです。
柴田 ちょっといい短篇をどんどん訳すのと方向性としては同じですね。
『おかめ笹』と『ベラミ』
池澤 これも発見と言えるのかわからないんだけれど、今気になっているのが永井荷風『おかめ笹』とモーパッサン『ベラミ』の関係でね。実はこのあいだ『おかめ笹』を初めて読んで、すごいじゃないか、と思ったんです。それまでの『濹東綺譚』や『腕くらべ』の荷風ではなくて、きっちりヨーロッパ文学を元にして書いている。自然主義ですよ。登場人物は誰も彼もみんな俗物で、聖別された主人公はいない。画家と画商とその業界の話で、先生にペコペコしてくっついてるような二流の画家が、ウロウロしているうちに、いつの間にか自分にとって都合のいい結果になるという話です。『ベラミ』はジャーナリズム界の話で、顔がいいだけの男が女たちと絡みながら社会でのし上がっていくという話ですね。ちょっと突き放してからかいながら、コミカルに書いている。荷風はモーパッサンを読んでいただろうし、フランスの自然主義をそういうふうに理解したんですね。
その後日本の自然主義は私小説になって、どんどん露悪的な告白になってしまうけれど、そうじゃなくて、社会全体をちょっと突き放して、たとえていえば将棋の譜のように作っていくところを、真剣に勉強して書いたんじゃないかな。こんなことをちゃんとやった上で、江戸のほう、下町のほうへ流れていったんだとわかって、なかなか面白い体験だったんです。
柴田 ストーリーや筋を借りる場合もあるし、方法というか、世界の見方、捉え方を借りる、学ぶ、自分のものにする場合もあるということですね。
池澤 能がそうなんですよ。能は必ず、古典あるいは伝説に典拠があって、観客がそれを知っているのが前提です。だから能の観客は、かつては教養のある武士だけだった。筋立ては皆が共有しているから、それをいかに言葉に乗せ、節を付け、舞にして浄化に導くかという、その過程を楽しむわけで、一から創作した能というのはたぶんないと思うんですよね。
数年前に画家の黒田征太郞さんと一緒に『ヤギと少年、洞窟の中へ』(Switch Publishing)という絵本を作ったんです。沖縄戦のときの話。ひめゆり学徒隊の少女たちが南部に追い詰められて、洞窟の中で死んでいったという出来事の2年後ぐらいの話で、ある少年が飼っていたヤギに誘われて、その洞窟へ迷い込む。するとそこで死んだ少女の亡霊が出てきて、お願いがある、と言う。一つは、この中にまだいっぱい遺骨があるから、お父さんお母さんに言って、集めてちゃんと供養してもらってちょうだい、と。少年はその戦争の話は自分の体験でもあるから、はいわかりました、と答える。もう一つは、私は生きていたとき琉球舞踊を習っていた、もう体がないから舞えないんだけど、今だけこうやって、あなたの前に出てくるために体をもらったから、舞うのをみてちょうだい、と言ってそこで舞ってから消えていくという話を書いたんです。ずっと洞窟の中が舞台で暗いから、とくに最後は派手な絵にしやすいようにと思って書いたんだけれど、書き上げて気がついたら、これはまさに夢幻能なんですよ。つまり旅の僧がどこそこにいて、そこへ幽霊が出てきて、恨みつらみを言って、しかし最後に舞って、その浄化によって消えていくという。自分でも驚いた。そのぐらい、パターンというのは無意識に入り込んでいて、使えてしまうんです。
表現でも型でも雰囲気でもいいけれど、それが外から入ってくることによって自分の作品が一段高みに至るという体験は誰にでもあるんじゃないかな。語句をそのまま引用するとパロディや盗作になっちゃうけど、そうじゃなくて、中からうまく盗めば使えるというね。
柴田 僕は実作者じゃないのでわからないんですが、無意識で使ったものって「強い」んじゃないですか。計算して使うよりも、より深いところから出てきているというか。
池澤 そうでしょうね。このときは自分でも驚いたし、黒田さんの絵と相俟っていい絵本になりました。
「影響」と「翻案」
柴田 実作者でもあるお二人に改めてうかがいたいのですが、先行作品からの「影響」と、「翻案」というのは、どれくらい同じでどれくらい違うものなんですか。
池澤 「影響」のほうが、言葉の概念としては広範囲ですね。「翻案」はダイレクトに元のものを使った感じがある。文学というのは全てが創作ではなくて、どうせ一人の頭で考えつくことなんか知れてるんだから、必ず元になった何かがある。その中でも、広く読んだ多くのものを一つの作品にしていく場合を影響というと思うけれど、これは話がどこまでも大きくなっていくものでもある。たとえば『ドン・キホーテ』は、山ほどある騎士道物語を読みまくって、得られた諸要素を全部入れた上でパロディ化して出来たものですね。ジョイスの『ユリシーズ』もそう。元が広すぎて、もはや創作、ということになる。それに対して「翻案」というときは、もうちょっと近い。これを元にこの作品を書きましたといわれて、読み手が納得するような距離感なんじゃないかな。
澤西 元々「翻案」という言葉は、おそらく黒岩涙香が使いはじめ、逐語訳ではない、筋だけを使って書き換えたような翻訳を指すところから来ています。
柴田 翻訳といっても「訳しているあいだ原書を一回も見なかった」っていうね(笑)。
池澤 『モンテ・クリスト伯』が『巌窟王』になって、エドモン・ダンテスが「團友太郎」になった(笑)。
澤西 はい(笑)。それでも翻案のニュアンスとしては、本家と分家の一対一対応がはっきり見えるものどうしに使うケースが多いと思います。影響というのはもう少し広く、「音楽や映画から影響を受けた」といった言い方もするので、あえて翻案というときには、かなりミニマムになる。芥川は翻案が多いとか換骨奪胎だとかよくいわれますが、元の作品との関係性の強さにはグラデーションがあります。作品によっては種本が発見され読まれることを前提に書いているものさえありますし、原話を隠そうとしているものもある。ただやはり、明示的に一対一関係が結べる元の作品が出てくることが多い作家だとは思います。『芥川選』にある作品で言うと、アーヴィン「劇評家たち」(都甲幸治訳)。芥川の「MENSURA ZOILI」はこれのパロディに近く、作品の最後にアーヴィンの名前と書名も出てくる。元ネタがわかるようになっていて、それを踏まえるとさらにクスリとさせられる形になっています。
柴田 翻案って、ある種、作家どうし作品どうしの対話という感じがするんです。影響という言葉から考えるような、どちらかが一方的に何かを「与える」、もう片方は影響を「受ける」という非対称の関係じゃなくてね。翻案はむしろ対話で成り立っている気がするんですよ。文学が作られる実態としては、翻案という考え方のほうが面白いというか、むしろ正しいんじゃないでしょうか。
池澤 対話ということは、あなたの作品を元に私はこういうものを書いたけれど、いかがですかと、聞ければ聞きたい気持ちがあるからね。こっちのほうがいいでしょうと言わんばかりに(笑)。
澤西 誰かが先にやったことを書き換えているという意識は、芥川にはまちがいなくあったと思います。旧蔵書を見ると、他の作家の伝記の中の、過去の作家の作品をトレースしたりアイディアを採ったりした際のエピソードに書き込みをしていることが結構あって、「こういうことをしてもいいんだ」と自分を励ましていたのかなと。
柴田 鷗外みたいに何でも翻訳すればいいというのでも、紅葉みたいに向こうから借りてくるのが当たり前だろうというのでもない時代になってきていたから、その辺は理論武装しないといけない感覚があったんでしょうね。
池澤 だけどそれで、日本の書き手の腕が上がっていくんですよね。輸入して、紹介して、あるいは自分でダイジェストして書く、それを繰り返すうちに、日本文学全体の水準が上がっていった。
柴田 そう考えていくと、文学ってかなりのものが翻案なんじゃないでしょうか。「ある作品はある作家が一から想像したものだ」という思い込みがまだ強いけれど、実はそうじゃない。たとえばソポクレスの『オイディプス王』。芝居を観ている人たちはみんなオイディプスの身に何が起きるか知っているわけで、大事なのはソポクレスがそれをどう料理するかだった。シェイクスピアだって一からオリジナルでストーリーを作ったものはほとんどないですから、いわばみんな翻案です。そう考えると、翻案がむしろ文学の本来の姿なんじゃないかという気がしてきます。翻案の一番極端なやり方がボルヘスですね。既存のものを並べて自分の本になるという。それがいわばスペクトルの極という感じ。
伝説化する芥川?
澤西 大学で創作の授業を持っているのですが、そこでいつも言っていることは、「書く」ためにはやはり「読む」が先にないとできない、ということですね。私は文学部ではない学部で教えているので、ほとんど読書体験のない学生がたまに受講してくるのですが、そういった学生が小説を書くというのは非常に難しい。それは読者としても同様の問題があって、私が読者として納得するものは、これまで読んできたものによって磨かれてきているので、自分が読んできたものと違う形の作品は評価しづらいときがあります。自分の中に培ってきた「内なる図書館」がある程度あって、そこから無意識に引用したり組み合わせたりしつつ、自分の体験とも合わせて外に出せるというのが創作の手始めだと思うので、読むことの大事さをいつも授業で話しますね。
芥川もとにかくたくさん読んでいた。芥川がとくに洋書について多読速読であったというのは、都市伝説化しているようなところがありますね。たとえば芥川がカフカを読んだかどうか、時期的にいって私は難しいと考えていますが、ともかく多読の芥川だから読んでいたはずだ、と話が一人歩きしてしまったり。
池澤 カフカは、生前は評価されていなかったし、芥川が読んでいたというのは無理なんじゃないかな。
柴田 そもそも芥川は一晩に洋書を1200頁読んだっていうけど、それは無理だと思う(笑)。
池澤 ストーリーがありますからね。評論の類だったら、キーワードを拾っていくだけである程度流れはわかるでしょう。ストーリーはちゃんとたどらないと、途中でわからなくなっちゃう。
柴田 都市伝説化するぐらい、芥川の人生という物語が面白いと捉えられる。で、それが文学的に昇華されれば、彼の人生と作品を織りまぜて仕立て直した、デイヴィッド・ピース『Xと云う患者 龍之介幻想』(文藝春秋)みたいな本が生まれる。芥川の人生って、どうして一つの物語みたいにとらえられることが多いんですかね。
澤西 やはり自殺がセンセーショナルだったというのが一つ理由としてあると思います。昭和に入ってすぐに、人気作家がキャリアのピークに近いところで自殺して、それが新聞の一面に載り、そこからさらに神格化されていく流れが出来る。ただ、自殺した人の内面を勝手に類推するのも難しいんですけど、芥川自身、それを狙っていた節もあるのかなとも思うところがあって。
柴田 自己神格化ということですか?
澤西 そうですね。一番最後に、イエス・キリストのことを書いた「西方の人」という作品を残すのですが、その中でも、キリストという存在は「四人の伝記作者」が伝えたものだというのを意識した記述があります。もしかしたら芥川も、死後に自分がどう再生成されるかということをどこかで意識していたのではないかと思っています。現在でも芥川の人生に関心が持たれるのは、そういう自己プロデュースがハマりすぎてしまった結果というか……。同時に、芥川の作品が高校の教科書に載りつづけているというのも大きいですね。日本で高校に行った人は全員が授業で習うという作家は、今では中島敦と芥川くらいなんです。
池澤 死後の名声ね……。ぼくにはわからないな。
澤西 もちろん精神的、肉体的な衰弱が大きかったとは思いますが。眠れなくていろいろ薬を飲んでもいましたし。
池澤 プロレタリア文学の隆盛が脅威だったということはありますか。もちろん芥川自身の文学とは違うものだけれど。
澤西 そういう説も研究者の中にはありますが、そこまでではなかった気がします。どちらかというと応援する側にいたので、自分を脅かす存在としては意識していなかったのではと思います。
偶然「同じ島」にたどり着く
澤西 翻案ということでいうと、同時代の作家が「無意識に同じものを書いてしまう」ということも、やっぱり起こりうると思うんです。どちらが先とか、同じものを読んだとかいうことではなく、全然違う文脈で、たまたま同じテーマで書くという。なので、全てが翻案というわけでもないように思います。違うところで生まれたけれど、あわせて読むと非常に面白い文脈が生まれてくることもありますし。
私は作家としてデビューしたときに初めて対談させていただいた作家が小川洋子さんで、大変尊敬しているのですが、小川さんの『密やかな結晶』(初版1994年)という、記憶がどんどん消えていく島の話と、柴田さんが訳されたオースターの『最後の物たちの国で』(同1987年)とは、テーマはとても似ているのに全然違う作品が出来あがっている。発表は小川さんのほうが後ですが、小川さんが発表前にオースターのこの作品を読んだとはどうして思えない時期に書かれていて、もちろん逆も当然ですね。小川さんもそれはご存知で、たまにそういうことが起こるんだと仰っていました。小川さんはいつも、暗い洞窟の中でランタンの灯りに頼って、壁に書かれている文字を一所懸命に翻刻するように作品を書くとおっしゃるのですが、そういうメタファーの延長で、同じ島にたまたま違う方向から上陸して、違う角度からその島を探索することがあると言っておられて、大変印象的でした。だから、ほとんどが翻案なんだけれど、同時にそうじゃないものもある、と。
柴田 なるほど。オースターの『鍵のかかった部屋』とほぼ同時期に村上春樹さんが『羊をめぐる冒険』を書いていて、タブッキも『インド夜想曲』を書いている。どれも友人が失踪してそれを探す話で、ほぼ同時に出たのは面白いということを、以前どこかのシンポジウムで言ったんですよ。そうしたら池澤さんが「どこかに共通の種があるんじゃないかな」と言われた。そういうこともありえますよね。
池澤 人類共通の記憶みたいなものでしょう。いなくなった友人を探すという基本形があって、たとえば入沢康夫の『わが出雲 わが鎮魂』なども、友達の魂を探して出雲をウロウロする話ですね。
澤西 人類共通の記憶というとユング的なところもありますね。「蜘蛛の糸」でも同じようなことがあります。『カラマーゾフの兄弟』には有名な「一本の葱」の話が出てきますが、ロシアの民話ではこの話が流布していて、ドストエフスキーはそれに基づいて書いていますし、ラーゲルレーヴもここから「我が主とペテロ聖者」という小篇を書いています。これはペテロ聖者のお母さんが地獄にいて、そのお母さんを助けてほしいとペテロが主に頼むという話です。芥川がこれを読んだときに、その本に書き付けを残しているのですが、自分の「蜘蛛の糸」にそっくりで非常に驚いたと感想を書いているんです。民話なので広く流布してはいますが、同じ材源にたまたま出会って、それぞれの作家が違う地域で書くことも起こるんだなと。それと同時に、人間が普遍的に共感するもの、受け入れやすい形がちゃんと存在するというのを強く感じる話ですね。
書き手の喜び、書き手の使命
池澤 民話の類はパターンがかなり決まっていて、分析して一覧表にしたものや、祖型をまとめた本などもありますよね。昔ばなしや伝説の類の伝播ということは、確かにあったと思います。たとえば「浦島太郎」が東南アジア起源だという説がありますね。東南アジアの海は温かくて透明だから、海に潜れるわけですよ。竜宮城の光景は、僕は沖縄のサンゴ礁じゃないかと思うんだけれど。
ともかく、僕らはそうしたものを読んだ上で自分の作品を書く。すぐ右から左へ使わなくても、どこかでちょろっと出てくることは常にあると思うんだな。それら全部含めての、相互の影響関係でしょう。大体、僕はそんなに面白い話は考えつかないから、翻案というやり方をずいぶん使ってきたので、弁明のように説明することになるんだけど(笑)。読むほうで言えば、いろんなものを読みました。本当によく読んだ。ただそうするとね、自分の小説が書けなくなるんですよ。何か書こうと思ったら、「これはあれに似てるな」となっちゃうからね。それを避けるためにたいていの人は私小説を書くんだけど、僕はそれはしたくなかったから、最初から翻案でいこうと思ったんです。だから最初の小説『夏の朝の成層圏』(現、中公文庫)は、『ロビンソン・クルーソー』の形式を借りた、ロビンソナーダ。たくさんの人がこの形で書いているのを知っていたから、まずは全部一通り読んでね。あのパターンは要するに、「無人島に流れ着いて暮らす」という器の中に自分の思想をいかに入れるかということであるから、自分の思想があれば型は借りてもいい、と勇気を出して、最初の小説を書いたんです。
たくさん読んでいることがまず大事。それから意図的に影響を受けてしまうというか、型を借りるということもある。その先で何を書くかが、また問題になってくるわけですね。
澤西 非常によくわかります。私もデビュー作『フラミンゴの村』(集英社)は、既存のものをいろいろ読んでいく中で、自分だったらどうするか、自分なりに書いたらこうなる、ということを突き詰めていった結果生まれたものでした。舞台は19世紀末ベルギーの農村で、ある日突然妻がフラミンゴになってしまって、それを夫が隠そうとする。ところが子供の口を通じて村中にばれて、夫が「終わった」と思ったら、じつは村中の女性がフラミンゴになっていることがわかった。そこからどうするかという集団変身ものなんです。
これは元々、中島敦『山月記』と、その元になったガーネット『狐になった奥様』がすごく好きで、さらに芥川の「馬の脚」のことを調べて、変身ものというジャンルに非常に惹かれたんです。ただこれらの作品では、自分のパートナーや自分自身の姿が変わるという話だったのを、もう少し大きく集団の物語にしたいと思った。僕はデビュー当時から集団を書きたい、集団を書けるのが文学の強みだと思っていたので。同時に、あの作品はあの時代にしか書けなかったなと思うところもあります。僕のデビューはTwitterが出てきたのとほぼ同時代だったのですが、それ以後はいろんな人の隠れた声がどんどん表に出てくるようになってきて、それによって、かつては文学の強みの一つだった、形なき群衆の声を象る魅力が出しづらくなったと思っています。
いずれにしても、その時代にできる、そのジャンルの新しいものを考えていくのは、先人たちへの挑戦ですし、書き換えていくことの面白さは書き手としての喜びでもあります。ただ芥川の時代とは著作権などにかかわる考え方も全く違いますから、何かの作品を模倣するなんていうことは今はできないですし、100年前とは全然違う創作の現場があるというのも日々感じています。今後どう変わっていくかも予想しづらい。ただ、「書き換えていく」というのは作家の大きな原動力なんだろうなというのは、現代の作家さんを見ていても思うところです。『東京都同情塔』の九段理江さんなど、近代文学を今の文体、今のテーマで書いたらどうなるかということにずっと挑戦されていますし、李琴峰さんなども既存のジャンルの書き換えを意識的になさっていますね。我々が読書体験を通じて培ってきたものを、そのまま古典として崇めるのではなくて、いかに継承して、ときには乗り越え、次に繋げていくのかというのも、単なる書き手の喜びだけではなくて、書き手の大きな使命のようにも思っています。
柴田 「書き換える」というのは、翻案をさらに広げたようなものですか。
澤西 その時代の自分なりの書き方で、そのテーマに挑戦していくというような意味合いですね。
柴田 半分は自分から表出するものであり、半分は時代が新しくなるから、書かれる文脈も変わると。
池澤 スタートポイントなんですよね。芥川も中島敦も、ここから始めてどこまで変えられるか、どこまで遠くへ行けるかという、そういう頭の使い方なんだろうと思います。谷崎もずいぶん、他の作品を土台に使いますよね。たくさん読んでいるし。
澤西 そう思います。ただ、谷崎は蔵書を残さないので、痕跡がたどれないのが研究者としては不満です(笑)。おそらく意識的に証拠を消してたんじゃないかなと思います。とくに私が注目しているのは、『痴人の愛』はピエール・ルイスの『女と操り人形』を元にしたんじゃないかなと。
小説の何が変わったか?
柴田 もう一つお二人にぜひうかがいたいことがあって、『芥川選』に入っているのは1920年代に芥川が選んだ作品群ですね。その中で、ポーなんかは当時すでに「新しい古典」でしたが、他はほぼ当時の「現代小説」を選んでいる。今読んでも確かに面白いのですが、同時に今書かれている小説の面白さとは違う、何というか、のびやかさみたいなものがあるように思うのですが、現代作家のお二人からご覧になってどう見えますか。
澤西 私は古典ばかり読んでいて作風も若干古風な、その質問に答えるには不適切な現代作家なのですが(笑)、思うに、まず「語り手」が盤上を支配しているという自由さは、今はもう失われてしまっているのを感じますね。
柴田 「神の視点」に近いやり方ね。
池澤 そうですね、その時代にはもう帰れない。僕らは「信頼できない語り手」を知ってしまったから。その典型はクリスティ『アクロイド殺し』だとよくいわれるけれど、ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのは誰か』という面白い本があってね。語り手が全部を語っているわけではないことを突き詰めて精緻に分析していくと、実はクリスティの小説で明かされたのとは別の犯人が見えてくると、そういう形で、信頼できない語り手とは何かを分析しています。
でも書き手もそうだけれど、何より読み手の姿勢が変わったんですよ。語り手の話を聞きながら、「こいつが言ってることは本当だろうか」とつい疑念が生じちゃう。一番の違いはそこかも知れない。
柴田 なるほど。つまりカズオ・イシグロの作品でよく言われるように、この作品では「信頼できない語り手」という一つの方法を採用している、というんじゃなくて、もはや読み手のほうが「語り手というのは元々信頼できない」というモードになっている、と。芥川の時代はまだ、「私のことを信じなさい」という姿勢で書いて、読者もそれで読んでくれたということですか。
池澤 もっと前の時代のものでも、考えてみると変だということはあるね。どう解釈するかなんだけれども。たとえばメルヴィル『白鯨(モビー・ディック)』では、冒頭に各国語における鯨の「語源」や、聖書以下様々な書物から書き抜いた鯨にまつわる「抜粋」が出てくるでしょう。あの部分は誰がいつどこで書いたのか、作中には出てこない。僕の考えでは、イシュマエルが物語の最後で一人生き延びて戻って、普通の暮らしをしているときに、どこかの図書館司書に手伝ってもらって作ったと、そういう順序にすると循環法として繋がると思うんだけれど。いろんな意味で『白鯨』は先駆的だから。イシュマエルがなぜ生きて帰るかといえば、語らなきゃいけないからなんです。報告者だから、彼は。
柴田 イギリスで出た初版では最後のページが入ってなかったんですよね。つまりイシュマエルが生き残ったことがわからなくて、読者は「この話はいったい誰が語っているんだ」と思った(笑)。
澤西 語り手のことに加えて、芥川が多く選んでいる「怪異もの」のあり方にも時代を感じますね。今は、奇異なものを単純に奇異として書くことが、許されなくなってきている時代でもあります。誰が書いているのかとか、きちんと書かれている当事者の目線に立って書けているかということも、今の読者としては求めてしまいますし。
「元の話」があってこそ
柴田 池澤さんは日本と世界の文学全集を一人で編纂するという、芥川が『モダン・シリーズ』でやった仕事をさらに大きなスケールでなさったわけですが、その仕事とご自身の創作との関連は、どうとらえておられるのでしょうか。
池澤 考えてみると僕は、『ロビンソン・クルーソー』の翻案として『夏の朝の成層圏』を書いたように、「読んだ上で、それをいかに自分のものにして作品に仕立て直すか」ということでずっとやってきました。だから読んだものの影響といえば、ほんの一頁分の描写で「あれを借りよう」とやってみたのもあるし、もっと深く、なんとか『百年の孤独』みたいなものを書きたいと『マシアス・ギリの失脚』(現・新潮文庫)を書いたこともあります。これを、全ての文学がそうであると一般論にしてしまっていいのか、と。
柴田 僕はそう受け取っていいんじゃないかと、お話をうかがっていました。
池澤 面白いものは、やはりスタート地点に他作品からの影響があって、それにある意味では追従し、ある意味では反発しながら、自分のものを作っていくということだと思うんですね。
『日本文学全集』を作るときに一つ意識したのは、丸谷才一さんが言っていたモダニズムの定義です。一つは古典をきっちり踏むこと。もう一つは、その上で、できるだけ新しいことをすること。彼はそこにさらに一つ、都会的で洒落てることを付け足すんだけど、この三つ目は、僕はそうでなくてもいいと思うんです。というのはやっぱり、ガルシア=マルケスを読んだことが中上健次をずいぶん変えたと思うけれど、中上は、都会的でも洒落てるわけでもないのでね。だから三つ目は省くとすると、やっぱりいいものを読んでいること、なおかつそこから出ようともがくこと、これが、少なくとも世界文学のレベルに至るには必要なんじゃないかと。必要とは言わないまでも、そうすることによっていいものが書けるのではないかと思うわけです。
でも「じゃあこの方針に沿って全集を構成しましょう」とは考えなかったんですよ。結局は候補になりそうなものを一通り並べて読んで、これとこれならこっちにしようという二者択一を積み上げただけであって、振り返ってみたら僕という人間が一人でやったから、一つの流れが出来たように見えるのかもしれない。ただ結果的に、「元がある話」がたくさん残ったかなと思います。日本でも世界でもね。世界のほうでいえば、リース『サルガッソーの広い海』が典型ですね。『ジェイン・エア』を丸々受け取った上で、きれいにひっくり返した話ですから。
自分で書く場合でいえば、たとえば僕の「鮎」という短篇、これは全く翻案なんです。元は南米の民話で、ほとんど変えていない、むしろ変えると意味がない。僕はこれを『ニューヨーカー』で読んだんですよ、まちがいなく。ガルシア=マルケスが再話していたんだけれど、どうしても見つからないんですよね。ともかく、この話はよく覚えていたので、そのまま舞台を僕がよく知っている加賀の牛首村と金沢に置き換えて、話のポイントにある食べ物も鴨から鮎に置き換えて、短篇に作った。もちろん「これには元の話があって」と書きましたよ。この「鮎」は野村萬斎さんに声をかけられて新作狂言にしました。とても面白かった。実際に鮎が出てきて舞台を走り回ってね(笑)。これはヒットして、萬斎さんのところの十八番になりました。
柴田 芥川の「魔術」みたいなストーリーですね。
池澤 そうそう。夢オチに近いんだけど、そこまでを精密に書くから、みんな信じちゃう。能でいうと「邯鄲(かんたん)」ですね。
柴田 元の話が見つからないと言われたけれど、見つかったら、全然違う話かもしれませんね。
池澤 いや、そんな才能は僕にはない(笑)。
柴田 2024年にジョン・クラッセンという作家の『ドクロ』という絵本を訳したんですけど、それは彼がチロルの民話をどこかの図書館で読んで面白いなと思って、1年ぐらい頭の中で転がしてから書いたものなんですね。それで元の話をもういちど読みたくなって読んでみたら、全然違う話だったそうです(笑)。頭の中でどんどん変えていた。
澤西 芥川にも「秋山図」という話があって、著名な画家が描いた「秋山図」という名画を観て、これは素晴らしいものだと感激するんですが、次に観たときには何か別の絵のように感じるんですね。もっと素晴らしいものだったはずだ、自分が思ってたのと違う、みたいな認知のずれが起こっていく。ここから「藪の中」に繋がっていくといわれています。
柴田 そういえば「蜘蛛の糸」のパロディーで一つ好きなのを思い出しました。小松左京の同名の作品でね。糸を伝ってのぼる犍陀多は、下からついてくる他の罪人たちにかまわずさっさと上までのぼりきっちゃう。それで「まさか本当に来るとは思わなかった」って慌ててるお釈迦様をパッとつかんで極楽にあがって、勢いでお釈迦様が地獄の池に落ちてしまう。で、ある日犍陀多が極楽から地獄を見下ろすと……(笑)。
フェイヴァリットは……
柴田 最後に、『芥川選』には全部で22作収録していますが、池澤さん、この中のフェイヴァリットはどれですか。
池澤 オーモニエの「ウィチ通りはどこにあった」(柴田訳)ですね。これはほぼメタフィクションになっていて、当時はすごく新しかったと思う。まさに「信頼できない語り手」の話でね。
柴田 そうですよね。文字どおり「ウィチ通り」がロンドンのどこにあったかをめぐる話ですが、この通りは現実にあった、そして無くなったという事実を踏まえているのも驚きます。もっと驚くのは、この作品が面白いから、オーモニエというのはさぞすごい作家だろうと思って他の作品を読むと、20本中19本は駄目なんです(笑)。
澤西 今回の文庫化に際して訳し下ろしで入れていただいた2篇も面白いものです。バトラー「機械時代のダーウィン」(小山太一訳)は今のAIの話とオーバーラップするもので、こういう話題が100年前から出ていたんだなと。柴田さんが訳されたイーストン「刈取り機」も、これはプロレタリア文学なんだという読者の指摘がありました。労働者が機械によって労働を奪われていくという。
池澤 ラッダイトだね。
柴田 そうですね、元気をあらかじめ奪われたラッダイトの話ですね。でも「機械時代のダーウィン」には本当に驚きました。『芥川選』の単行本を出したのは2018年で、まだ10年も経ってないのに、2018年に読んだときと全然インパクトが違う。そのときはまだAIなんて言葉は使われず、Artificial Intelligence と言ってた時代ですよね。
澤西 柴田さんはどうですか。
柴田 僕も「ウィチ通り」ですね。それをおくとすると、どれかな。うーん。
池澤 「どれが一番か」というのはインタビューで一番の愚問なんだよ(笑)。
柴田 そうそう、この前オースターの奥さんのシリ・ハストヴェットに、この中であなたのフェイヴァリットはどれですかって聞いたら、「くだらない質問はやめなさい」って怒られた(笑)。
澤西 私はローゼンブラット「大都会で」(畔柳和代訳)かな。おそらくニューヨークが舞台の、人間をマネキン代わりに使って商売をするという話です。「大都会」というのは近代が培ってきたテーマでもありますし、他人を「人間」として見ることができないというのは、たとえばSNS上でのことなど、現代人とも重なってくるところがある。なおかつ非常に短い作品なのにこれだけドラスティックに書くというのは、素晴らしいなと思います。畔柳さんの訳も三人称代名詞の訳し方などすごく工夫されています。『芥川選』では他の作品も翻訳が素晴らしく、そこも大きな魅力だと思っています。
柴田 確かに「大都会で」は終わり方なんかいいですよね。いわゆる「オチ」になってないところがいい。お二人のご意見を聞くと、やはりこの時代にしてはかなりとんがっていた作品を選ばれていることがわかりますね。そういった芥川のセンスを、『芥川選』で楽しんでいただければと思います。本日はありがとうございました。
(いけざわ なつき・作家
しばた もとゆき・翻訳家、アメリカ文学研究
さわにし ゆうてん・作家、日本近代文学研究)
本稿は、『図書』掲載時に紙幅の都合で割愛した部分を増補したものです。





