第3回 『となりのトトロ』と『火垂るの墓』の競奏
ジブリ作品の中で流れる音楽は他のアニメと違う、という印象を決定づけたのが1988年公開の『となりのトトロ』と『火垂るの墓』ではないだろうか。
宮﨑駿、高畑勲それぞれが監督した2作が同時公開されること自体が異例だった。
鈴木:冒険活劇を2本やったわけでしょ。3本目も同じことをやったら終わりだと思ったんですよ。ここで路線変更して幅の広さを作っておかないと、後で困るだろうと。それで「宮さん、トトロをやろう」って僕が言って、そこから始まったんですが。そうしたら宮さんは「え、鈴木さん、トトロやるの?」と驚いて。「そうですよ」って言ったら、「お話はどうするの?」だって。絵は描いていたけど、お話を考えていなかったんですよ。
田家:宮﨑さんのイメージボードは『アニメージュ』に掲載されていたんでしたっけ。
鈴木:最初は1枚だけだったんです。「ちょっと描いてみる?」って言って描いたやつ。
田家:バス停の絵だけ。
鈴木:そうそう、あれが全てですよ。なので企画化は難航しました。僕の説明も良くなかったかもしれません。舞台は日本。時代は昭和30年代。まだ日本には田園が残っていた、そこでのお化けと子どもたちの交流という話。製作のお金を出すのは、会社のおじさんたちですよね。嫌がったんですよ。「昭和30年代」って聞くだけで、貧乏を思い出すからです。「何だよ、それ。もう少し何とかならない?」と言われて。最初の企画は、トトロだけだったんです。トトロ1本で反対されたから、じゃあ2本立てにすればいいだろうと。そうしたら、徳間の副社長が本当に怒りました。「お化けに墓までくっつけるのか!」って。
田家:両方ともプロデューサーは、東映動画で『太陽の王子 ホルスの大冒険』を作った原徹さんでしたね。
鈴木:製作がはじまれば、やがて高畑と宮﨑はけんかになる。そこで考えたんですよ。けんかさせないためには、両方ともプロデューサーは同じ人にすべきだと。現場には、スタジオの責任者である原さんがいる。それで彼をプロデューサーにしようと考え、実行に移したんです。
『となりのトトロ』の音楽の作り方は『風の谷のナウシカ』とも『天空の城ラピュタ』とも明らかに違う。
何よりも「歌モノ」だったことがある。アルバム『となりのトトロ イメージ・ソング集』に載った宮﨑駿と、「いやなこと」をやらなくていいという保育園を描いた『いやいやえん』で知られる童話作家・中川李枝子との対談のタイトルは「声をはりあげ、みんなで歌えるうたが欲しい」である(対談の初出は『アニメージュ』1987年6月号)。全11曲のうち「さんぽ」はじめ7曲の作詞が中川李枝子、「となりのトトロ」など3曲が宮﨑駿の手によるものだ。作曲はともに久石譲である。最初から「ボーカル入り」として作られたものだった。
「心に残る子どもの歌を作ろう」
田家:「いやいやえん」は、宮﨑さんが子どもの時に読んで感銘を受けていたそうですが。
鈴木:実を言うと僕も大好きな本だったんです。2人で『トトロ』の音楽をどうする、作詞を誰にやってもらおうという話題になったとき、同時に中川さんの名前を出したんですよ。それで、互いに顔を見合わせるという。本当に嘘みたいに同時だった。宮﨑が言ったのは、「鈴木さん、日本の子どもの歌っていうのが今なくなっているじゃない?」ということで、それを作りたい。じゃあ作詞は誰? という話になり、中川さんの名前があがった。
それで僕が使者になり、中川さんのところに行ったのですが、最初はけんもほろろ。「何で私が徳間なんかの仕事をやらなきゃいけないんだ」とか、失礼千万な言い様で(笑)。でも、話しているうちに仲良くなっちゃったんですよね。
田家:イメージアルバムをボーカルものにしようというのは?
鈴木:それも宮﨑の考えなんですよ。子どもの歌を作りたい、心に残る子どもの歌を作ろうって。そこから始まって、後の具体的なことはみんなで考えました。まず詞ができたんです。もう忘れちゃったけど、10曲近くあったのかな。それをもとに、久石さんに来てもらって、みんなで打ち合わせたんですよ。
田家:宮﨑さんがご自分で詞を書くというのは最初からあったのですか。
鈴木:ちょっと正確には覚えていないな。徳間ジャパンの渡邊隆史の要望だったんじゃないかと思いますね。僕が編集していた『アニメージュ』のスタッフだったんですが、彼が就職の頃になって、行き先がないと言うから徳間ジャパンを紹介して。それで、ジブリの作品にかかわるようになったんです。久石さんとがっぷり四つに組んで、仕事をしてくれた。彼には感謝しています。粘り強い男で、すごく頑張りました。このアルバムにおける彼の功績は、すごく大きいですね。
田家:久石さんも子ども向けの音楽はあまりやってなかったんじゃないですか。
鈴木:それについては、久石さんと随分話した覚えがあります。日本の唱歌って、昔はアイルランドが発祥だったじゃないですか。段々、その伝統から外れていきましたよね。久石さんは、そういう話題になると本当に真面目な方で。当時、自分の仕事場に朝から晩まで子どもの歌を流すチャンネルを引いてね、それを聴きまくってた。子どもの歌とは何かって、勉強していましたよ。
田家:子ども向けだとしても、土着的なものにはしないって久石さんの話にもありましたね。ハードルがいっぱいあったんじゃないですか。
鈴木:ありましたね。最初はこんな作詞家は知らないって怒るしね(笑)。口を利いてくれなかったですから。
「トトロはオバQではない」
『となりのトトロ』の音楽がどういう意図で作られたのか。
鈴木敏夫が久石譲にあてた手紙が残されている。日付は昭和62年12月11日だ。本文のあとに書かれた文の冒頭に「昨日」とあるのは、話に出た「みんなで打ち合わせた」日のことだろう。久石譲にデモを依頼したあとの念押しと言っていい内容だ。全文を紹介してみる。
『となりのトトロ』を制作するに際し、最初、宮さんが強調していたのは、「『トトロ』と『オバQ』の決定的な差は、トトロが一種の精霊であり、自然の精であって、けっして、子どもが、まして大人が仲よくなれるような生きものではない。アイドルとか、マスコットとはかけ離れた存在なのダ」──ということでした。
ところが、キャラクター、及びその内容が段々明らかになるにしたがって周囲の反応は、製作側配給側を含めて、宮さんの意図とはまったく正反対のちがった受け取められ方をしてゆきました。
ひとことでいうと「カワユイ!」のひとことです。つまり『トトロ』は「’88年のオバQ」になってしまいそうな気配があるのです。東宝の宣伝チラシにも解説として、それは露骨にあらわれています──曰く、となりのオバケとのご近所づきあい。まさに、宮さんの心配通りに、事は進行しているのです。(いま、阻止の為にいろいろやっているところです)。
しかし、これは私見ですが、何も周囲だけが悪いわけではありません。宮さんにも、その責任の一端はあります。生来のサービス精神というか、エンターテインメント精神で、絵コンテのトトロに、いわゆるアイドル性が出ているのは、たとえ、本人が否定しようが、ダレにも否定できないからです。(このことは宮さんには内緒です)
さて、そこで音楽の話に突然、なるのですが、音楽の力で「精霊、自然の精」の要素を補強して戴くのが結果としては、宮さんも納得のいくものになるだろうというのが、私見です。宮さんもいまは、いろいろいっていますが、結局、すきなものは変わらない人ですから、そこに落ち着くのが目に見えている様な気がするのです。
そこで、先刻の提案になります。エスニックなミニマル曲をいくつか作って戴き、それをデモとして宮さんに聞かせ選ばせたあと、具体的な進行に入るのが、現実的な方法だと確信するのです。
久石さんには、ご苦労かけますが、何とかお願いしたいと思います。
そうした本文のあとに「昨日の会議のあと、元プロデューサー高畑氏と話し合い、そのあと宮﨑氏とも話しあった結論が以上です。何卒、よろしくお願い致します。」と結ばれている。
『となりのトトロ』の音楽がどんな意図で作られたのか。「トトロはオバQではない」という指摘は見事に的を射ていないだろうか。
久石譲がそれに対してどう応えたかの端的な例が、オープニングの「さんぽ」だと思った。
子どもたちが声を張り上げて歌いたくなるだろう親しみやすい曲に、『イメージ・ソング集』では使われていなかったスコットランドの民族楽器、バグパイプが使われていた。
失われつつある昭和の田園風景を表現するのにバグパイプの使用を思いつく人がどのくらいいるだろう。久石譲は『ジブリの教科書3 となりのトトロ』(文春ジブリ文庫)の中で「バグパイプ」についてこう話している。
「宮崎さんの作品にはそういう風土感がないと思うんですよ。『トトロ』も日本が舞台ということがわかっているんだけれども、土着的な日本でしか生まれないふんい気というものは感じられなかったんです。そういう点でのこだわりはなかった。バグパイプを出したのも、音楽打ちあわせの時に『バグパイプなんかイントロにあったらどうですか』って聞いたら、宮崎さんが『おもしろいですね』とおっしゃって、それで入れたら、とっても喜んでもらえたんですよ。そうしたら『全部に入れてほしい』と宮崎さんがいいだして(笑)」
『ナウシカ』『ラピュタ』では音楽を高畑勲に「お任せ」だった宮﨑駿が、『トトロ』では全面的に関わった。
久石譲は、同じ『ジブリの教科書3』で2人についてこう言っている。
「いままで高畑さんがプロデューサーで音楽を担当してきて、(今回は)宮崎さんが自分で前面に立たなきゃいけなくなったでしょう。そうしたら音楽打ちあわせで『こんなおもしろいものを高畑さんはいままでやっていたのか。ズルイ』といいながら、やってました。(中略)宮崎さんは音楽わからないとかいいながら、けっこうスルドイ」
「『トトロのテーマ』。あれは7拍子なんだけど、少し音が多いかなと思ったら、宮崎さんが『もう少し音が減りませんかね』っておっしゃる。そういうのが何カ所かあったんですよね。高畑さんは理論的だし、よく知ってらっしゃるけれど、宮崎さんは感覚的に鋭いなという感じ、それで僕の思ってることと、ほとんど同じことを指摘してくるんです。それが、すごくおもしろかったですね」
トトロは「精霊」であって「おばQ」のようなファミリーアイドルではない。
見える人にしか見えない。普通の人には見えてこない。子どもの心をもち、自然と親しむことの出来る人にとってしか存在しない。
久石譲の「これまで」と「これから」
久石譲が書いた「M表」のM19は、メイが小トトロを追いかけて行って、眠っているトトロに出会う場面だ。そこには「トトロの上に乗る 『トトロ』ミニマル曲」とあり「ex. B. イーノ Music for-Airport」」と書き込みがされている。ブライアン・イーノは70年代イギリスを象徴するグラム・ロックの立役者だったバンド「ロキシー・ミュージック」のシンセサイザー・キーボーディストであり、バンドを離れてからは、アンビエント・ミュージックと呼ばれる環境音楽の第一人者として名を馳せていた。
学生時代からミニマル・ミュージックに取り組んでいた久石譲は、ブライアン・イーノに多大な影響を受けていた。彼の著書『I am - 遙かなる音楽の道へ』(KADOKAWA)には、イーノのアルバム『Music For Airport』を聴いた時の「ああ、やられた」という感想と「のびのびやっている」「心から羨ましかった」という率直な想いが書かれている。
ミニマル・ミュージックというのは、音の動きを最小限に抑え「音型」の単純な反復を生かした現代音楽の形だ。メロディーの起伏やコードの動きに頼らない、「音の響き」を重視した音楽と言えばよいだろうか。直接的な感情より想像力に働きかける、と言ってもいいのかもしれない。その形にこだわり過ぎた自分たちの音楽に「窮屈さ」を感じたと久石は語るのである。
M表のトトロが踊るシーンに流れるM29には「SEなし、セリフなし 夢のようなシーン」と書かれ、「ex.ムクワジュのB-1」という具体例も挙げられている。
「ムクワジュ」は、久石がインドやアフリカの民族音楽のリズムを取り入れた打楽器奏者3人と結成したユニット「ムクワジュ・アンサンブル」の1stアルバム『ムクワジュ』(1981年)のことだろう。アフリカの樹の名前に由来するこのアルバムは、ミニマル・ミュージックとしては日本で最初のものであった。著書『I am』では、「僕にとってはいちばん大事なアルバム」で「現代音楽としてのミニマルと訣別する踏ん切りがついた」「ポップスという新たな領域に船出することにした」とまで書かれている。
M29は、『ジブリの教科書3』で「トトロのテーマ」と呼ばれている、『イメージ・ソング集』には収録されていない曲だ。久石は『ジブリの教科書3』でこう語っている。
「この作品は中編でしょう? ちょっといい方が難しいけれど、普通のオーケストラだけの曲を書くと、ごくあたりまえの幼児映画になってしまうんですよ。だから『トトロのテーマ』はミニマル・ミュージック的な、ちょっとエスニックなふんい気を持たせてます。」
単純なリズムの繰り返しが無機質にならずに、むしろユーモアを感じさせる。随所にフィーチャーされている「風の通り道」もそうだ。更に付け加えれば、木の上でトトロとメイとさつきが吹くオカリナのような民族楽器や打楽器も効果的だ。「親しみやすく声を出して歌いたくなる」曲でありながら、ありがちな「童謡」や「ホームソング」に終わらない。それは「ボーカルもの」として始まったからこそ生まれた世界だったのではないだろうか。
『となりのトトロ』は、久石譲の「これまで」と「これから」が融合された記念碑的音楽作品でもあるのだと思った。
それぞれの世代の戦争体験
鈴木敏夫責任編集の『スタジオジブリ物語』(集英社新書)には、『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が逆風の中で始まったと書かれている。
徳間書店の上層部が「お化けと墓か」と激怒しただけでなく、それまでの作品を配給してきた東映も難色を示し、徳間康快社長が東宝と直談判して88年公開が決まったのだという。制作も徳間書店が『トトロ』を、原作小説を発売している新潮社が『火垂るの墓』を手掛けることで成り立った。日本を代表する老舗出版社初の映画制作である。
異例の長編2本立て。「この2本でジブリが最後になってもかまわないというアナーキーな気持ちだった」という当時の心境についての鈴木の言葉もあった。
鈴木:僕の頭の中にあったのは、『火垂るの墓』は「禁じられた遊び」で、『トトロ』は「ET」。そんなイメージを具体的に話したこともあるのですが。
田家:2本立てにするならこうだろうと。
鈴木:そうそう。
田家:鈴木さんは18歳の時に野坂さんの『火垂るの墓』をお読みになったそうですけど。
鈴木:大学1年生でした。感動しましたね。
田家:高畑さんももちろんご存じだったわけでしょ。
鈴木:実は、高畑さんは知らなかったんですよ。最初は、尾形(英夫)さんが「日本は戦争に敗けた。大人は自信を失ったけど、子どもたちは元気だった。そういう映画を作りましょう」と言って始まったんです。高畑さんが挙げたのが、1985年に出た村上早人さんの『日本を走った少年たち』。これを検討しませんかと言うので、2人で検討したのだけど、やっぱり違いますねと言われて。それで僕が「子どもたちが元気だったという趣旨じゃないけれど、『火垂るの墓』という小説があるんですよ」と言ったら、高畑さんは、名前ぐらいは知っていると。「1回読んでもらえませんか」と頼んだら、高畑さん、もう次の日に「やりましょう」って言い出したんです。
日本映画にとって「戦争」は避けては通れないテーマだったのではないだろうか。さすがに今は数こそ少なくなったものの、夏になると必ず公開されていたのが「戦争映画」だった。そういう中でも『火垂るの墓』は稀有な作品だと思う。
その最大の要因が野坂昭如の原作にあったことは言うまでもない。壮絶な戦闘シーンも生死を賭けて戦う兵士も出てこない。あくまで市井の光景として、国家総動員体制の戦時下の社会から見捨てられる幼い兄妹、清太と節子を描いている。
戦争をテーマにした同様の映画で真っ先に思い浮かぶのは、鈴木敏夫がイメージしたイタリア映画「禁じられた遊び」だろう。それでいてモノクロの「禁じられた遊び」とは似ても似つかぬ色彩感が醸し出す詩情については、高畑勲と対談した野坂昭如の「映画になど出来るはずがないと思っていた」「アニメ恐るべし」という言葉に全てが集約されている。
何よりも映画で使われている「音楽」である。「戦う」という言葉とは程遠い透明で静謐な詩情に胸を打たれた。音楽を手掛けたのは、間宮芳生だった。
田家:これもイメージアルバムが先にあったんでしょう。
鈴木:そうです。売れなかったですよ(笑)。
田家:だって公開前ですもんね。どんな映画になるのか誰も知らない。
鈴木:まあ、売れないことは分かっていて、やったんですよね。
田家:高畑さんはそれをやろうと言った時に、すぐに音楽は間宮さんって言われたのですか。
鈴木:いや、そこにたどり着くまでには……。
田家:音楽家探しに1か月掛かったと『イメージアルバム集』の解説にありましたよ。
鈴木:そうですか。時間が掛かったのは覚えています。高畑さんというのは、毎回新しく、その作品にふさわしい音楽家と組みたい人なんですよ。いつも同じ人というのではなく、その作品が必要とする音楽は何かということを優先させるんです。それもあって、方向性で迷っていましたよね。
田家:今まで名前が挙がったような坂本龍一さんなどの名前も出たのですか。
鈴木:その時は違いますね。自分が付き合ってきた人の中で、作品にそった音楽性を持っている人はまず誰なのか、と考えていたと思います。徳間ジャパンからもいろいろ候補が出たのですが、なかなかそれが一致を見ない。『赤毛のアン』の三善晃さんも良かったのですが、間宮さんに決まったのは、作品の内容も大きいでしょうね。
田家:お2人の戦争体験も反映されているわけですよね。
鈴木:そうですね。間宮さんはそういう空気を肌で分かる人だったから、やりやすかったんじゃないかな。
田家:高畑さんも終戦の時のことは話されていますね。
鈴木:9歳の時に岡山で空襲に遭って3日間1人で焼け跡を逃げ歩いた人だから。だから、戦争のことが分かる人に音楽をやってほしかったんでしょうね。それでもう一度間宮さんにお願いしたと。憶えているのはそれぐらいですが、ただ間宮さんって本当にいい人でしたね。
プロデュースの間宮芳生は1929年生まれ。独学でピアノを学んで今の東京芸大に入学、管弦楽や協奏曲だけでなく民謡や合唱曲、テレビや映画の音楽も手掛けていた。彼が後のNHK交響楽団の指揮者になる外山雄三や、声楽や映画音楽の作曲家として知られる林光らと1953年に結成した「山羊の会」には「日本の国民音楽発展のため」という旗印があった。80年代に入ってからは宮沢賢治の作品を取り上げるなど児童文化活動も行っていた。95年にはハンガリーの作曲家、バルトーク・ベーラの著書『ハンガリー民謡』の翻訳にも関わっている。高畑勲が彼を「日本のバルトーク」と書いたのは1984年だった。
『火垂るの墓』のイメージアルバムでは彼が6曲、1941年生まれの佐藤允彦が1曲、1954年生まれの吉川和夫が3曲書いている。『イメージ・アルバム集』の座談会ではそれぞれの世代の戦争体験が語られていた。
1935年生まれの高畑勲は、9歳の時に岡山で空襲に遭い、ひとり猛火の中を逃げ惑った経験がある。間宮芳生は青森の家を焼かれている。佐世保の海軍兵学校に入っていた彼自身は難を逃れたものの、終戦後に戻る家はなく家族の行方も分からず、親戚の家で暮らしていた。1945年3月10日の東京大空襲の時に家の庭に不発弾が落ちたという佐藤允彦は、兄と一緒に焼け跡の死体を見ている。しかし3歳の子どもにとっては半分他人事で、彼が書いた「HOTARU」は、そういう実感のなさが曲になったと話している。『火垂るの墓』を高校生の時に読んだという戦争体験のない吉川和夫は、彼の書いた「夏草」について、建物が全部焼けてしまったのに夏草だけが勢いがあるという「愚かで、虚しくて、哀しい状況への悲歌」と語っていた。
戦争をどう「音」にするか。実際の映画音楽は『イメージ・アルバム集』とはかなり違っていた。高畑勲の音楽表のM1にはこんな書き込みがある。
「感情的なものでなく、なつかしい不思議さ。参考:「あの町この町」児童合唱「あんたがたどこさ」。「「ほたる」はあわなかった。バロックか? バロックの場合、ムードM(ミュージック)にならないで欲しい。バッハか? 硬質がいい。簡単には入り込めない。悲しい、つらいは強調しないで欲しい。戦争という大状況のもつ何か」
M2はこうだ。「惨禍をB29が… 常識的な重苦しさでなく、たとえば、雅楽の笙の持続音の中に君が代、とか、突然の軍艦マーチとか」「君が代」という語には、前後の余白に「大状況が仲々見えない。戦争中に育った人間としては、悲惨のよって来たる所以が」、「異様さ、気違いじみた感じ」と加筆されている。
それぞれのシーンの音楽をどんな楽器の音色にするのか。母親の日傘姿や清太の入学式などの回想シーンが続くM10には「詠嘆」「硬質」「ハンドベルの音色で詠嘆の内容をやる」「ハンドベル的な音」「ピアノの音色とハンドベルを併わせると」とあり、「工夫してみます。冒頭にその音色をもってきてもイイ」という間宮芳生の書き込みもあった。
楽器ということで触れなければいけないのが、古代民族楽器パンフルートだろう。ギリシャ神話の牧神パーンが吹いたという伝説に由来するこの木管楽器は、ルーマニアでよく使われることで知られるようになった。森の中で用を足す2人の上空を飛来する飛行機を、清太は「あれ、特攻機やで」と言い、節子は「蛍みたいやね」と言った。「特攻機」と「蛍」。消え入りそうに危うく美しい。戦火に散った全ての人の「命」が「蛍」に例えられているのだと思った。音楽表のM19に「パン・フルートを使ってはどうか?」とある。
書き下ろしではない既成曲についても触れなければならない。
一つは童謡である。波打ち際で節子が口ずさむ「あわて床屋」、清太を待つ節子の横を通り過ぎる母子の「かえろかえろと」、雨の中を横穴に向かう清太の「雨ふり」、節子を負ぶった清太の「ななつのこ」。「鯉のぼり」は、鼻歌のように歌われる場面と、清太の弾くオルガンで2人で歌う場面がある。その後の「戦時中に非常識な!」という叔母さんの怒気をはらんだ一言があまりにも象徴的だった。
※「ななつのこ」「鯉のぼり」も末尾のプレイリストから試聴できます
そうした既成曲の最たるものが「軍艦マーチ」とイングランド民謡「埴生の宿」だった。
田家:「埴生の宿」はどなたの案だったんですか。
鈴木:もちろん、高畑さんです。
田家:あれ良かったですね。
鈴木:良かったですね。
田家:あれと「軍艦マーチ」が効きましたね。
鈴木:そうですね。あれは絵コンテの段階から決まっていたんです。彼は「埴生の宿」が映画『ビルマの竪琴』で使われた時の由来なんかを全部知っていました。
あと、音楽ではありませんが、僕が感心したのは、声です。東京の子どもの声じゃなくて、大阪の声でやりたい。あれも高畑さんの考えでした。とくに、妹の節子役のあの子は、天才でしたよね。声を聴いた瞬間、みんな鳥肌が立った。びっくりしましたもん。
戦争が終わって何が変わったのか。その証しに使われたのが「埴生の宿」だった。
映画『ビルマの竪琴』では、ビルマで包囲された日本軍が敵を油断させようと歌い出した「埴生の宿」に対して、インド軍が英語で歌い返すことで戦闘に至らず、犠牲者を出すことなく降伏した、という場面の重要な曲として使われていた。日本版「リリーマルレーン」のような歌と言えばいいかもしれない。
高畑勲は映画の中で、日本語の「埴生の宿」ではなく、イタリアの声楽家、アメリータ・ガリ=クルチの「HOME SWEET HOME」を流している。しかも蓄音機から流れるという設定だ。戦時中禁止されていた「洋楽」が蓄音機から流れて来る。時代が変わった証しだった。
高畑は著書『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店)の中で、「父のこと」として蓄音機について「子供たちと妻のために、敗戦後どこからか進駐軍(占領軍)のカーキ色の手廻し蓄音機を手に入れてきてくれた。以後十年近く、ぼくが高校を卒業するまで、その蓄音機でぼくたちは友だちから借りたモーツァルトやベートーヴェンのSPレコードを聴いた。LPはまだなかった」と書いていた。
『となりのトトロ』の中にも蓄音機が出てきたことを記憶している人も多いのではないだろうか。「お化け屋敷」への一家の引っ越しの時に最初に運び込まれたのが、蓄音機と本だった。宮﨑駿は高畑のエピソードを知っていたのだろうか。『となりのトトロ』と『火垂るの墓』に通底している「戦後」という時間でもあるのかもしれない。
『火垂るの墓』の音楽で特筆しなければいけないのは『サウンドトラック集』だろう。曲だけではなく、映画の台詞もそのまま入っている。曲を集めたというより「場面」の記録である。高畑勲はサウンドトラックアルバムを集めたボックス『サントラBOX』の解説「映画音楽の不思議」でこう書いている。
「当時のサントラ盤レコードは、今のように音楽だけが真っさらで並んでいるのではなく、本当のサウンドトラック、すなわち、効果音も台詞も映画そのままに渾然一体、ミキシングされてまるごと入っているものだったのだ。映画を見ていない人も、それを、あたかもラジオドラマのように聴くことができた」
『火垂るの墓』のサウンドトラックは、彼の中での本来あるべき一つの形であり、ラジオしかなかった時代を意識したものだったのではないだろうか。
高畑勲の覚悟、宮﨑駿の想い
田家:高畑さんでなければ、こういうものはできないでしょうし。ジブリにとって『火垂るの墓』があったというのは……?
鈴木:大きいですよ。本当の文芸作品。それは宮﨑駿にも、ある影響を与えました。高畑さんが『火垂る』をやることになって、しばらく経った頃、宮さんが「向こうは文芸作品でしょ」と言い始めた。「まあそうですね」と返したら、「ネコが空を飛ぶ、そんな馬鹿なことやっていられないよ。俺も文芸で行く!」とか言っちゃってね。「誰がコマに乗って空を飛ぶんですか!」って(笑)。
田家:そういう意味では2人が対等な形で作品を世の中に問うというのは、初めてなわけでしょ。
鈴木:そうですね。
田家:宮﨑さんの方が意識するのは当然かもしれませんね。
鈴木:そうです。そのとき、僕はちょっとだけ話を大げさにして、こう答えたんです。「でもね、宮さん。あのネコバスは秀逸なキャラクターであると、高畑さんが言ってましたよ」。そうしたら、「あ、そうですか」って、それで使うことになるんです。大変でしたよ。
田家:張り合ったわけじゃないのでしょうけど。
鈴木:同時に作るという状況が、お互いのライバル心をあおった。それは間違いないです。
田家:それがまた『魔女の宅急便』で一緒になるということですね。それは次回ということで。
鈴木:『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』も、同じケースですね。あれも同時期に作り始めたんですもん。
『火垂るの墓』は制作が遅れて2か所が未完成、つまり色がついてない状態で公開された。
鈴木敏夫は2013年に出た『ジブリの教科書4 火垂るの墓』の中で「鮮明に覚えている」2つのシーンについて書いている。
1つは、完成が遅れ公開が間に合わないという時に、新潮社の社長を交えた3人でその時点での映像を見た時のことだ。「質を落とさないで間に合わせてください」という社長に対する高畑勲の言葉は「公開を延ばしてください」だった。
鈴木敏夫は「高畑さんという人は、どこかで、映画がちゃんとできるなら、自分は死んだって構わないと思っている。だから怖いものはない」と書いている。
もう1つのシーンは、完成が間に合うかどうかの瀬戸際で深夜かかってきた宮﨑駿からの電話についてだ。鈴木は吉祥寺のスナックで、宮﨑が用意してきた一枚の紙を見せられたという。そこには「『火垂るの墓クーデター計画』こうやれば『火垂るの墓』は完成する!」と書かれていた。どうすれば作業が早まるかの技術的な面も含めた提案だった。彼は「宮さんは高畑さんのやってることが気になってしょうがない(笑)」と書き、こう続けている。「宮﨑駿の高畑勲に対する感情というのは、愛憎相半ばするところがあるんです」。
彼は、その時に宮﨑駿が書いた紙を今も大事に持っているのだそうだ。
著者・編集部より:本記事を準備中の10月18日、中川李枝子さんご逝去の報が届きました。謹んでお悔やみを申し上げます。