第4回 『魔女の宅急便』と『おもひでぽろぽろ』
スタジオジブリの機関誌『熱風』は、2024年5月号から7月号にかけて、映画『君たちはどう生きるか』の海外での反響を続けて特集した。アメリカやヨーロッパはもちろん、アジア、中南米と地球を一周する各国のファンの声を読んでいて、その影響力の強さを再認識させられると同時に、改めて新しい時代が来ていることを実感した。僕らが子供の頃にディズニー映画に胸をときめかせていたように、海外の子供たちは今ジブリアニメを観ているのだと思ったからだ。
1985年に会社として発足した当時、こんな風に海外で受け入れられると思ってはいなかったのではないか。自分たちの作品が海外でどう受け止められるか、という意識はどのくらいあったのだろうか。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』と『となりのトトロ』『火垂るの墓』、それぞれ「西洋」と「日本」の明確に異なる舞台選択に、「海外の反響」はどの程度想定されていたのだろうか。
鈴木:確かに『トトロ』と『火垂る』は日本を舞台にした作品ですが、それは成りゆきというか、結果としてそうなったということですよね。『ナウシカ』『ラピュタ』が海外を舞台にしたから次は日本で、という考えはありませんでした。ただ、東映がアニメーション制作を始めたとき、海外で売るというのは大きなテーマになっていたはずです。日本の映像作品は、映画もテレビも、海外ではまったく売れていなかった。しかしアニメだったら売れるかもしれない……という思いがあったんですね。東映動画のアニメーションの第一作がありましたよね。
田家:『白蛇伝』。
鈴木:そう。あれは何のための企画だったか。海外に売りたかったから、できた企画だったと今田智憲元社長から聞いたことがあります。でも作ってみたら全然売れなかったという(笑)。日本ものをやるということについて、宮さんは作り手だから、うまい言い方をしてましたね。「日本に借金がある」と。やっぱり日本を舞台に映画をつくらなきゃいけないって。高畑さんも『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』といった作品を手がけてきて、西洋を舞台にすることに飽き飽きしていた。ふたりの「日本ものをやりたい」という気持ちが、『トトロ』と『火垂る』の時期に重なった。偶然ですよね。
田家:『魔女の宅急便』で、再びヨーロッパが舞台になりました。
鈴木:『魔女』は、広告代理店の電通を通じて持ち込まれた企画でしたからね。日本人が書いた海外風の物語。そういう作品でうまく行くのかな、という気持ちはどこかにあったかもしれません。もうひとつ、事情がありました。『トトロ』と『火垂る』の興行成績の数字が、それまでの2本に比べて飛躍的に悪かったんです。よく例に出すのですが、4週間興行で観客動員数が45万人。『千と千尋の神隠し』の初日は、なんと42万人来てるんです。だから『トトロ』と『火垂る』はかわいそうだったな、という気持ちが残っています。
田家:トトロが公開された時には、あのキャラクターも含めて、これだけ国民的な映画になるとは思っていなかったと。
鈴木:全然。なにせ大赤字ですからね。でも、天は見放さなかった。どういう事かというと、グッズでトトロのぬいぐるみを作ったんです。それまで「ぬいぐるみなんて冗談じゃない」と言っていた宮さんも喜んだほど、出来がよかった。そのぬいぐるみを、テレビで『トトロ』を放送する時にプレゼントしたら、あり得ないほどの高視聴率を取ったんです。これで人気に火が着いたんですね。
ジブリとビートルズの共通点
話を『魔女の宅急便』に戻そう。監督脚本、プロデューサーは宮﨑駿。原作は童話作家、角野栄子。13歳になった魔女のキキがしきたりに従って他の街に行き、独り立ちするという児童文学。鈴木敏夫の『天才の思考——高畑勲と宮崎駿』(文春新書)には、広告代理店から話が来たのは1987年の春で、『トトロ』と『火垂る』の制作が始まった頃だと書かれている。
当初は、「高畑勲監督作」の企画で持ち込まれたが諸般の事情で、宮﨑駿に打診することになった。原作を読んでない、という彼に対して鈴木敏夫は「この原作、見た目は児童文学ですけど、たぶん読んでいるのは若い女性じゃないかと思いますね」と、こんな私見を話したという。
「たぶん田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた本なんですよ。彼女たちは好きなものを買って、好きなところへ旅行し、自由に恋愛も楽しんでいる。でも、誰もいない部屋に帰ってきたとき、ふと訪れるわびしさみたいなものがあるんじゃないかと思うんです。それを埋めることができれば映画になりますよね」
その場の思い付きで言った言葉に宮﨑駿が興味を示し、企画を引き受けてくれることになった。しかし、実際に脚本を書く段階になって、「鈴木さんの言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!」と宮﨑に言われ、シナリオを書く作業に完成まで毎日付き合う羽目になった、とある。
同書で改めて知ったのが、宮﨑駿が1シークエンスを書くごとに鈴木敏夫に感想を求め、その感想を受けて、その場で書き直したりしながら執筆してゆくという作られ方だった。作家が書きあげるのを何日も隣の部屋で待っていたという作家と編集者のストーリーは、さほど珍しいものではない。しかし、作業をする作家の傍らにプロデューサーがいるというケースはかなり稀だろう。鈴木自身が同書で「そんなふうにして書く作家っていないですよね」「普通ひとりで書斎に籠もって集中するものじゃないですか」と書いている。
そんなエピソードを読みながら連想したのが、ビートルズとプロデューサー、ジョージ・マーチンの関係だった。ジョンとポールがスタジオでジョージの意見を聴きながらレコーディングしていた話は有名だ。プロデューサーという名の「共同作業者」である。
では、高畑勲とはどういった関係性だったのだろうか。『魔女の宅急便』での高畑勲の肩書は「音楽演出」である。彼は『ジブリの教科書5 魔女の宅急便』(文春ジブリ文庫)で「音楽演出」という役割についてこう話している。
「何も特別なことをしたわけではないんですよ。ようするに、ふつうの映画で監督が音楽についてする作業を代行しただけの話です。今回の作品が特に音楽的にむずかしいから、こういう特別な役割を設定したというのでもないし、宮さん(宮﨑駿監督)から頼まれてお手伝いしただけのことですから、音楽演出だなんてオーバーなんですよ」
ただ、そうした控えめな発言を額面通りに受け止めるわけにはいかなさそうだ。
メモが語る「ユーミン起用」の舞台裏
『魔女の宅急便』では、スタジオジブリにとって初めての試みが2つあった。1つは自分たちの発案ではなく、外部からの持ち込み企画だったことだ。もう1つは劇中歌にユーミンの「ルージュの伝言」と「やさしさに包まれたなら」が使われていたことである。この連載の第2回で鈴木敏夫が、すでに発売され知られている「既成曲」を使うことに対して否定的な発言をしていたことを記憶されている方も多いかもしれない。
彼はこう語った。
鈴木:とにかく制作期間が短かった。すぐ主題歌を決めなきゃ間に合わない、という状況でした。だから、むしろ積極的に既成曲を使う方向に踏み切りましたね。ちょうどその頃にユーミンのツアーがあって、武道館に観に行ったんです。それで「やっぱりユーミン、いいな」と思った。当時宮さんが大ファンで、1つのカセットテープを朝から夜中まで延々、テープが擦り切れるほど聴いていたんです。
田家:『魔女の宅急便』を作る前から?
鈴木:そうです。はた迷惑でしたね(笑)。だから宮さんも、ユーミンの起用に大賛成。高畑さんはそれまで関心があまりなかったのですが、実際に聞いてもらうと、すごく後押しをしてくれました。こちらも大賛成でしたね。彼女の曲の理論的なことも含めて、教えてくれたのは全部高畑さんでした。
高畑勲は『ジブリの教科書5』のインタビューでユーミンの起用についてこう語っている。
「宮さんとしてはタイトルバックに歌を使うというのは最初から計画していたことだったんです。それもラジオから流れてくるという設定でね。そうすると、キキという都会生活に憧れるふつうの女の子が、ふだん聴くとしたらどんな歌だろう、と。そこから発想していって、都会的な気分を代表していて、なおかつ作っているわれわれの世代にもわかるような曲。それはやはりユーミンじゃないだろうかという結論になったわけです。(中略)宮崎さんも、むかしのユーミンはよく聴いていましたからね」
とにかく時間がなかった、という鈴木敏夫の言葉は、同じ『ジブリの教科書』での久石譲のインタビューの「新しいソロアルバムの録音のためにニューヨークへ行ってまして(中略)時間的な面では少しご迷惑をかけてしまいました」という発言にも繋がっている。
『魔女の宅急便』の制作スケジュールは様々な形で公になっている。鈴木敏夫監修の『スタジオジブリ物語』(集英社新書)によると、「魔女の宅急便準備班」が正式にスタートしたのは、『となりのトトロ』の初号が終わった翌日の1988年4月2日。宮﨑駿がキャラクター設定とシノプシスを書き上げたのが4月29日。そのシノプシスを参考にメインスタッフがスウェーデンのストックホルム、ゴットランド島ヴィスビーへロケハンに行ったのが5月7日から16日、脚本が脱稿したのが6月18日、一部を手直しして7月8日に改訂稿が出来上がったと書かれている。
手元に鈴木敏夫が残した、音楽についての「会議メモ」がある。その日に何のテーマで、どんな話がされたのか。それぞれのシーンのイメージをどうするか。更に具体的に、誰にどんな音楽を依頼するのかまで書き残されたシステム手帳200枚以上におよぶメモは、1本の作品について行われた会議を記録したものとは思えない濃密な内容だった。鈴木は「会議というより、高畑さんがずっと話をしていて、僕はそれをひたすら書いていただけ」と語る。
1回目のメモの日付は88年7月25日。宮﨑駿が脚本の改訂稿を脱稿してほぼ2週間後ということになる。最初に書かれているのは、「イメージレコードとサントラ」「イメージレコードをどう作るか」。その後に展開されたと思われる議論のテーマが「ラジオ」である。
「ラジオを持っているとはどういうことなのか」。宮﨑駿の脚本の冒頭がラジオだったのだろう。ラジオで映画が始まることの意味、ラジオという小道具をどう生かすか。ラジオで始まった映画をラジオで終わらせることの演出効果はどういうものなのか。
ラジオを通して夢見ていた子供の頃を表現する。そこから成長した過程をラジオでどう象徴させるか。音楽は最初からラジオで流れているのがいいのか、それともスイッチが入ってから流れる方がいいのか。もし、頭の中で鳴っているという設定にするのだとしたら、ラジオは必要ないのではないだろうか。1枚目のメモの前半はラジオについての記述だ。
「歌→松任谷由実」という名前が出てくるのは2枚目の最後だ。3枚目には彼女に依頼するとしたらどんな曲がいいのか、その場合、他のBGMやイメージアルバムはどうするのかと続いている。
そんなメモの中には「外国のものも含めて既成のメロディーを探して持ち寄る」という案もある。その後に「100曲」「ありものでさがすのは...?」とあるのは、そのアイデアに対しての結論なのだろう。「やさしさにつつまれたなら」と曲名が大文字で書かれ、そこには「実際の映像に合うか」という言葉もある。
考えられるあらゆる課題を想定して議論を進めてゆく。「間口を広げて」という文字の後には「安田成美」「イルカ」「渡辺美里」「岡村たか子」、「作曲家」として「小室哲哉」「後藤次利」「筒美京平」など他の候補として挙がったと思われる名前も見て取れる。
第一候補はもちろんユーミン。かと言って引き受けてもらえる確証はなかった。
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鈴木敏夫が「高畑さんの言うことをひたすら書いていただけ」という「メモ」の8月12日は「雲母社・前向きに参加していきたい」「主題歌 劇中」「8月中は体があかない」という言葉で始まっている。 雲母社は彼女の所属事務所の名前だ。ユーミン側の好意的な反応があったのだろう。「ユーミンに会って何を要求するのか」という1行は四角く囲まれていた。その後には「『娘の説明』を宮さんがやる」とあった。ユーミンに対してキキのキャラクターなど映画の内容を直接説明する段取りを話し合ったのかもしれない。
この映画の曲がなぜユーミンなのか。「ユーミンがいい理由」として「当時もいまも新鮮に聞こえる」「歌い方→シロウトっぽい」「シロウトっぽいまま鍛えられている」「感情移入を激しくしないですむ」「おねえさんの気分が大事」「希望、ライフスタイル、都会の女性、イモッぽさはない」と続いて行く。「中央フリーウェイ→都会への誘い」という記述もあった。
彼女に依頼するとしたら、他の歌手が歌う曲の作曲という形もあるのではないか。では、どんな人に歌ってもらうか。メモには、石野陽子や光GENJI、刀根麻理子、久野かおり、白鳥英美子、アグネスチャン、小坂明子から德永英明、海援隊まで出て来る。そんな流れの最後に「「やさしさに包まれたなら」だったら「ルージュの伝言」」とあった。
「やさしさに包まれたなら」は74年発売の2枚目のアルバム『MISSLIM』、「ルージュの伝言」は、75年発売の3枚目『COBALT HOUR』、「中央フリーウェイ」は76年発売の4枚目『14番目の月』の中の曲だ。いずれも松任谷由実になる前、荒井由実時代のアルバム。まさに宮﨑が「テープが擦り切れるほど聴いていた」という初期のユーミンの代表曲である。
88年8月21日の3回目の会議メモは更に突っ込んだ内容になっている。ラジオから流れて来る曲は主題歌でいいのか。キキのどんな感情を曲にするのか。曲調は都会的でいいのか。田舎風という解釈はないのか。「都会的センスは要るのかな~」という言葉もある。「地方色」「時代色」「無国籍」「地中海→弦楽器」「南ヨーロッパ」「西海岸」「カナダ」「イタリアのわい雑さ」「キキは何が欲しかったのか? 人のつながりが欲しかったのではないか。人なつっこさ」「キキが最終的に求めていたのは?」と書かれたところに「ユーミンではスカスカになる」という1行もあった。「好きだから」だけでは終わらない。簡単に結論を出さず、前回の議論を覆してでも、あらゆる角度から検討してゆく。「音楽は、母から父から受け継いでいるものを代表していればいいのではないか」という確信めいた1行も含まれている。その日のメモは「松任谷正隆」「久石譲」「その他の候補」という記述で終わっており、主題歌以外の音楽についての話になったことを伺わせる。
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さらに8月29日、9月1日、9月7日、1月7日のメモが残されている。その間に名前の出て来る演奏者、作曲者、歌い手は、はっぴいえんど、ティン・パン・アレー、坂本龍一、宇崎竜童、細野晴臣、宗次郎、芸能山城組、マーラー、坂田晃一などだ。彼らに依頼した場合に映画はどうなるかを検討したのだろう。9月7日には雲母社のプロデューサーの名前もある。「由実はOK、松任谷、ぼくは映画音楽は下手」とあることから、雲母社側の最終結論が出たに違いない。
それぞれのシーンでのキキの心理状態の解釈からトンボやおソノなど登場人物のキャラクター、ユーミンの歌い方やエンジニアのミックスについても話された気配がある。最後はスケジュールやスタジオの日程、レコーディング予算などが書かれていた。
このメモが公になるのは、今回が初めてだそうだ。見ようによっては脈略のない単語が並んでいるだけと思われるかもしれない。しかし、『魔女の宅急便』をどういう作品にするのか、それにはどんな音楽がふさわしいのか、そうした総論に始まって場面に即した各論、「ユーミン」という類いまれな音楽家の評価や分析、日本の音楽シーン全体の傾向などの論評にまで及んだと思える膨大な言葉の断片は、高畑勲の「音楽演出」がどういうものかを物語っていると同時に、連載1回目『ナウシカ』時の「高畑さんとの音楽の打ち合わせは十時間を超えていた」という久石譲の言葉を思い出させるものだった。「時間がなかった」という中でもそれだけの議論が積み重ねられていたことには、驚くばかりだ。
「上機嫌」な気分に満ちた作品
高畑勲は『ジブリの教科書5』のインタビューで、「今回の音楽の特徴は、どういうところですか」と聞かれてこう答えている。
「この作品はいわゆるファンタジーではありません。『トトロ』もそうでしたが、大きな意味ではファンタジーに属するものでしょうが、もっと現実に近い物語であると宮さんは考えてつくった。たとえばキキは空を飛びますけど、それはカッコよく飛ぶのとはちがうし、ふつうの女の子の日常的な描写や気持ちが中心になっているんですね。ですから音楽が担当する部分も、世界の異質さとか戦闘の激しさとかを担当するわけではない。むしろふつうの劇映画のような考え方をして、しかもヨーロッパ的ふんいきをもった舞台にふさわしいローカルカラーをうち出そうということだったんです。それと、つらいところ悲しいところに音楽はつけない、とか、歌とは別にメインテーマの曲を設定して、あのワルツですが、あれをキキの気持ちがしだいにひろがっていくところにくりかえし使うとかが、音楽の扱いの上での特徴といえば特徴ではないでしょうか。はじめ、ホウキで空を飛ぶ、というのはスピード感もないし、変な効果音をつけるわけにはいかないので心配だったのですが、久石さんの音楽もユーミンの歌も、いまいったねらいにピッタリだったし、上機嫌な気分が出ていたのでホッとしているところです」
宮﨑駿が『魔女の宅急便 イメージアルバム』のために書いた10曲分の説明がある。「風の丘」「ナンパ通り」「店番」「リリーのテーマ」「町の夜」「木もれ陽の路地」「風邪」「トンボ」「元気になれそう」とタイトルがついた9曲分と、タイトルのない10曲目である。曲目の「風の丘」にはこうある。
“ラジオの天気予報が晴れるっていってる
風が雲をグングン運んで 一緒にいこうっていってる
湖の波も いこういこうってさわいでる でも
草と花はいくなっていってるわ ここがいいって
風、風、そんなにスカートをひっぱらないで
わたしが決めるまで もうちょっと時間をくれればいいのに”
タイトルのない10曲目はこうだ。
“世界って広いわ、わたしは何処までだって翔べるわ、もっともっと高くまでだって昇れるわ、ずーっと遠くまで行こう、海だってこえてみせるわ、お母さんのホーキは大きくて一寸みっともないけど なんか安心ね。それに飛びながらきくラジオって最高。電池をとりかえといてよかった 電波も空の方がよく通るのよ
いくんだから、あの地平線よりもっと遠くまで
やっぱり魔女の家に生れてよかったみたい以上 みやざきはやお”
書かれたのは88年11月18日だ。文末には「全体にナルシスムがかっとります なんせ13才ですので」と付け加えられている。
宮﨑駿が書いた詩(クリックで拡大)
彼が書いた「魔女の宅急便・映画化にあたって」という文章にはこんな一節もあった。
「今の世界に生きる少女たちの、若さのはなやぎを否定するのではなく、はなやぎのみに目を奪われることなく、自立と依存のはざまでゆれる若い観客に、連帯の挨拶を贈る映画として(なぜなら、私達自身がかつては少年であり、少女だったからであり、若いスタッフにとっては自分自身の問題だからですが)この作品を完成せねばならないと考えています」
かつての学生運動や組合活動の集会で使われていた「連帯の挨拶」という言葉が微笑ましい。鈴木敏夫と最初に出会った時に、「僕らが真剣に作っているアニメを題材に、子どもたちをだまして金儲けする雑誌だろう」と言った若き日の彼がここにいると思った。そんな言葉の端々に、彼の「上機嫌」ぶりが伺えないだろうか。
『魔女の宅急便』の公開は89年7月。観客動員数264万619人、最終配給収入21億7000万円(『スタジオジブリ物語』より)。この年の邦画最大のヒット作となった。
日常をドラマにした「大人向け」映画
『魔女の宅急便』の2年後、91年7月に公開された『おもひでぽろぽろ』について、高畑勲のこんな記述がある。『ジブリの教科書6 おもひでぽろぽろ』の中の「高畑監督のこだわりがあふれる音楽選択」という章だ。タイトルバックの後、小学校のグラウンドの場面で流れる「マイム・マイム」について、「ぼく自身は「マイム・マイム」に何のノスタルジーもないのですが」「娘が幼稚園の運動会のお遊戯のときに聞いて、フォークダンスの曲のなかでは一番好きでした」と書き、こう続けている。
「これをもっとアレンジすれば、映画にいろいろ使えるのではないかと思い、スタッフの会議でこれをかけたところ『なんか、かきたてられる!』と俄然色めきたったんです。
ところが、ぼくが気に入っている編曲のものではダメで、よく運動会で使われた日本コロムビアの、ちょっとツタない編曲の方がいい。そうでないとなつかしさはでない! といわれまして、日本コロムビア版をそのまま使うことになりました」
記事には書かなかったが、鈴木敏夫は連載第1回の取材の際、「高畑さんは、自分の使いたい曲の音源を持って来た」と語っていた。「マイム・マイム」についての高畑の記述は、彼のそんな言葉の裏付にあたるのではないだろうか。
『魔女の宅急便』と『おもひでぽろぽろ』には、いくつかの共通点があると思った。たとえば、ともに原作があることだ。『おもひでぽろぽろ』は、岡本螢原作・刀根夕子画で「週刊明星」に連載されていた漫画がもとで、1966年当時小学校5年生だったタエ子の誰にでもある日常が綴られた作品だ。『ナウシカ』の音響監督だった斯波重治からジブリに持ち込まれた企画で、「持ち込み企画」だった点も『魔女の宅急便』と共通している。
更に共通点として、ともに原作を忠実になぞった作り方をしていないことも挙げられる。原作ではさほど重視されていなかったり、全く登場していない人物が、物語上の重要な役割を果たしている。『魔女の宅急便』でいえば18歳の絵描きの少女ウルスラであり、『おもひでぽろぽろ』でいえば27歳のタエ子と25歳の青年トシオがそれにあたる。ちなみにトシオの名前は「鈴木敏夫」から取られたのだという。
新たに加えられた年の離れた人物の存在が、主人公の「成長と変化」という時間の経過をより可視化してくれる。だからと言って原作の「改ざん」にも「換骨奪胎」にもならずに、より深みのある物語として再生させている。
共通点はまだある。描かれているのが「普通の女の子の日常」だということだ。『魔女の宅急便』は舞台がヨーロッパ。『おもひでぽろぽろ』は日本、それも「東京」と「山形」と具体的だ。背景も時代も違うものの、いずれも少女が大人になって行く過程での日々の出来事が綴られている。
つまり「日常」である。
鈴木:日常がドラマになる、というのは高畑さんの発明と言っていいでしょうね。古くは『アルプスの少女ハイジ』に遡るんです。『ハイジ』は、原作では数十頁程度の物語。それを毎週30分のアニメーションで、1年分つくる。一種の大河ドラマですよね。そうなると、食べたり寝たり起きたりという日常を描かざるを得ない。その『ハイジ』が、35%という誰もが驚くような視聴率を取ったんですよ。広告代理店の人たちなんて、宮さんのことは知らなくても、高畑さんには平身低頭でした。なにせ「視聴率男」でしたから。『ハイジ』の時、宮さんは高畑さんのスタッフでしたから、そこで「日常」が大事だということを勉強したんです。
田家:27歳のタエ子を登場させるという案は、どういう過程で出てきたのですか。
鈴木:雑談の中ですね。当時、トレンディドラマが流行っていましたよね。自立して男に負けずに働く女性、いわゆるキャリアウーマンが理想像になった。それで高畑さんと2人で喋っているうちに、じゃあ彼女たちの成功率ってどのくらいだろう、という話になったんです。僕は「5%くらいじゃないですか」といい加減なことを言って。すると高畑さんが「じゃあ、残りは95%もいるわけですよね?」と返す。そこで僕は「それなら、成功した5%側の女性を主役にするより、うまくいかなかった女性を主人公にした方が、お客さんは来ますよね」と言ったんです。そうしたら高畑さんが「それはその通りだ。だったらそうしよう」と賛成してくれて。その時に、うまくいかなかったキャリアウーマンを主人公にする話は誰もやっていないということに、気づいたんですね。
田家:27歳というのは、児童文学の主人公の年齢ではないですもんね。
鈴木:そうですね。つまり、一般映画にしようということですよね。アニメーションというのは子供が見るのにふさわしい手段、と言っていたけれど、結果として大人の鑑賞に堪えるものを目指すことになった。すると、それまでのジブリ作品ではあり得なかったことが起きたんです。何かというと、映画館がカップルでいっぱいになったんですよ。
「紅花」と「流行歌」へのこだわり
鈴木敏夫は連載第1回で「高畑さんの最大の音楽映画は『おもひでぽろぽろ』」と言った。
『ジブリの教科書6』の中の「高畑勲の音楽のはなし」には、「『おもひでぽろぽろ』を支える音楽の三本の柱」が語られている。第一が「昔流行した曲をそのまま、あるいは編曲をしなおして使っている音楽」である。10歳、5年生だったタエ子と27歳の彼女の日常、1966年と83年に流れていた曲だ。第二はタエ子が出会う農業青年のトシオが好きな「東欧の民族音楽」。第三は、星勝が新たに作曲した音楽。27歳のタエ子が10歳の頃を思い出すことにまつわる曲「メインテーマ」という分け方だった。
『おもひでぽろぽろ』を前例のない音楽アニメにしている最大の要因は、1966年という時代性と、「都会の生活と田舎の暮らし」という社会性を背景にした「生き方」のドキュメント性にあるのだと思う。それを集約していたのが「紅花摘み」だった。
鈴木:高畑さんは、映画の「華」になるものがほしい、以前から紅花に興味があるので取材したい、と最初から言っていましたね。そういう時の高畑さんの行動力はすごい。僕も一緒だったのですが、何のあてもなく山形の市役所に行って、「紅花を作ってる農家を教えてほしい」と。それで農家の方を紹介してもらい、訪ねて行く。そこで紅花の栽培について詳しく教えていただいて、帰ってからも紅花に関する本を集めて徹底的に調べる。すると今度は「米沢市に一番栽培のうまい人がいるので会いに行きたい」って言うんです。既に作画にとりかかっていたので、米沢には演出助手に行ってもらいましたが(笑)。
映画を観ていて再認識させられたのが、音楽の使い方だった。何気なく観ていた時には気づけなかった計算と配慮に驚かされた。どのシーンで流れる曲にも理由がある。たとえば10歳のタエ子が祖母と行った熱海の温泉で流れるのは古賀政男作曲の「湯の町エレジー」だし、27歳の彼女が新宿の地下街を歩くシーンではYMOの「ライディーン」が流れる。家族で初めて食べた本物のパイナップルの味に落胆する場面でテレビから流れてくるのは西田佐知子の「東京ブルース」である。“どうせ私をだますなら死ぬまでだましてほしかった”という歌詞は「パイナップル幻想」が消えた家族の気持ちの代弁だろう。『ジブリの教科書6』の「高畑勲の音楽のはなし」には「気がついた人は笑うかも知れない。全然気がつかなくても差し支えない。それでも成立するように使っています」とある。
ビートルズが来日した66年は、ザ・ワイルドワンズの「想い出の渚」が発売された年だ。女生徒の憧れの的の広田君が野球の試合で活躍する姿には、66年の西郷輝彦の最大のヒット曲「星のフラメンコ」がお似合いだ。星勝が編曲した「おはなはん」は、平均視聴率が45%を越えた66年の大ヒットドラマの主題歌だ。女性客の共感を呼んだであろう、生理の話の後の「こんにちは赤ちゃん」も微笑ましい。「星のフラメンコ」が形を変えて使われるように、曲の扱いは一様ではなかった。
そうした曲の使い方で最大の効果を発揮しているのが、NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」の中の曲たちだ。テレビのブラウン管から番組の場面として流れて来るものもあればタエ子ら登場人物が歌ったりもする「ひょうたん島主題歌」「コケコッコの唄」「ドンドンガバチョ」などの6曲は、まさに昭和41年、1966年の「子供たちの日常」の象徴だった。
鈴木:原作を読んで、高畑さんが興味を持ったんですよ。ところが放送された番組を観たことがない。ちょうどその時、角川書店の月刊誌『バラエテイ』で「ひょっこりひょうたん島」の特集号が出たんです。それを高畑さんが読んで、「トラヒゲとドン・ガバチョの歌に興味があるので聴いてみたい」と。でも楽譜もないし、レコードを出していた日本コロムビアにも音源が残ってない。困っちゃったんですね。
田家:NHKはどうだったんですか?
鈴木:そう、ビデオが残ってないかなと思って、知り合いを辿って借りることができたんです。でも8話分しか残っていなくて、肝心のトラヒゲとドン・ガバチョの歌は入っていなかった。ビデオは全部高畑さんに観てもらったのですが、「面白かった。しかし、僕の知りたい音楽については分からない」と。それで彼は、「作曲した人がいるはずだから、その人に聞いてほしい」と言い出したんです。宇野誠一郎さんですね。彼のご自宅まで伺ったんですよ。こういう理由で「ひょうたん島」を映画で再現したい、ついてはこういう曲がありましたよね、とお尋ねしたんです。でも、「何曲作ったかも分からないので、覚えてない」と仰って。楽譜も残さない方だったんです。
田家:お手上げですね。
鈴木:それでも高畑さんは「聴きたい」の一点張り。しょうがない、僕が編集長をしていた『アニメージュ』の周りには、マニアと称される人たちがいっぱいいたから、その伝手を頼ったんです。そのなかに、日本全国の知り合いに手紙を出してくれた人がいて、一通のお返事が届きました。何と、ラジオで放送した「懐かしのひょうたん島」という特番を全部カセットテープに録っている、と書かれていたんです。映画で使った歌の音源は、ラジオを録音したそのカセットテープです。高畑さんも大喜びで、自分で楽譜を書き起こしていました。でもそれで終わらず、こう言ったんです。「人形の振り付けはどうなっていたんでしょう?」 人形劇を担当していた劇団ひとみ座に連絡しても、あの時の演じ手はもう辞めてしまって分からないという。それでも八方手を尽くして、振付師の方に辿り着き、高畑さんと一緒にお会いしに行ったんです。でも高畑さんがその方に「ドン・ガバチョの振付を覚えてますか」と尋ねたら「すみません、もう忘れました」と仰って。
田家:映画の中で描かれた番組は、NHKに借りた映像ではなかったのですか。
鈴木:あれは全て想像で作ったんです。手に入れることができた8話分のビデオに、該当する歌が登場する場面はありませんでしたから。番組の演出家の方も訪ねたのですが、やっぱり覚えていなくて。高畑さんが「実際に声を演じていた人がいるでしょう」と言うので、もう引退して主婦をなさっていましたが、その方にも高畑さんと会いに行きました。徹底してましたね。でも、やはり覚えていらっしゃらなかった。ところで、さっきのラジオの特番の話ですけど、どなたが音源を持っていたと思います?
田家:ファンの人ではないんでしょうか?
鈴木:NHKにも作曲の宇野さんのご自宅にも、そして、レコードを発売したコロムビアにも無かった音源が何故、あったのか? 実は、この作品に、中山千夏さんが「博士」の声で出演されていて、彼女のお母さんが録音していたんです。娘の出る番組は毎回収録の現場に来て、全部録音していらしたんですね。そのカセットテープをお借りして、この「懐かしのひょうたん島」というラジオ特番が作られ、放送されたんです。しかも、放送は北海道のみ。大感動でした。あれは評判になりましたね。
高畑勲が書いた楽譜(クリックで拡大)
なぜ「東欧の民族音楽」だったのか?
音楽が流れて来るのはテレビからだけではない。トシオが運転する軽自動車のカーステレオから流れて来る音楽がある。
前半の舞台となっていた「都会」を彩るものが「テレビ」だとしたら、後半の「田舎」の象徴が「カーステレオ」だと思った。ソニーがウォークマンを発売したのは79年。カセットで好きな音楽を好きな場所で聴くのが、流行の音楽との親しみ方になった。時代ごとに、音楽がどんな媒体から流れ来るかが使い分けられている。
『おもひでぽろぽろ』が単に「都会」と「田舎」を対比したものでも、「田舎暮らし礼賛」にもならなかったのは、農業を営むトシオが好きなのが「東欧の民族音楽」であることが決定的だと思った。66年当時の回想に使われている他の音楽にある「地軸」や「時間軸」から解き放たれている。
なぜ「東欧の民族音楽」だったのか。『ジブリの教科書6』の「高畑勲の音楽のはなし」の「第二の柱」にはこう書かれている。
「トシオは、むろん日本の民謡や祭の太鼓がすきな青年でもいいし、民謡を朗々と歌わせてもいい。あるいは東南アジアやタイやインドネシアの民族音楽のほうが本当かも知れない。でもそうすると、たちまち観客を突き放してしまうおそれがある。観客の中心がいわゆる都会派の人々だとすればですね。」
「もしトシオが『百姓の音楽がすきなんです。俺、百姓だから……』といって、かけた音楽が『あぁやっぱり田舎はダサいんだ』という偏見を吹きとばす力のないものだったら、タエ子さんとしては、やはりそこに入って行けないでしょう。その接点として『東欧の民族音楽』があるんじゃないかと思うんです。」
「それは基本的にはヨーロッパです。しかし、西欧文化圏と、イスラム文化圏が交差した、周縁部として、なかば東洋的でもあるし、古くからのものもずいぶん残している人たちの音楽なんです。ぼくはすきなんですが、非常に人なつこくて、あったかくて、すぐ集団的な踊りの輪ができそうな音楽。自然とじょうずに交わりながら、いきいきと暮らすすべを知っている人たちの音楽、そんな気がするんです。私たちの風土と、洋風生活を結ぶ接点。そういった音楽が、トシオを通じてあらためてタエ子が見直すことになる日本の田舎の景色に流れるわけです。」
『火垂るの墓』でのパンフルートを挙げるまでもなく、なぜ彼がハンガリーやルーマニア、ブルガリアなど東欧の音楽を好んで使ってきたのかの答えが、これではないだろうか。西欧文化圏とイスラム文化圏が交差した周辺部ならではの東洋的な音楽。人なつこくて、あったかくて、すぐに踊りの輪ができそうな音楽。自然とじょうずに交わりながら、いきいきと暮らすすべを知っている人たちの音楽。私たちの風土と洋風生活を結ぶ接点となる音楽。いわゆる「伝統的な日本的情緒」と一線を画したそうした音楽は、高畑勲にとっての「失われた日本」「幻の日本」を表現しているのではないだろうか。
アニメーションによる「引用」の傑作映画
もし、この映画が実写だったとしたらこんなに情報量の多い作品になっただろうか。
高畑勲は『ジブリの教科書6』で「この映画はじつは「引用」を基本にした映画」と書いている。音楽だけでなくすべてが「引用」で成り立っているというのである。
それぞれの記憶の中にある様々な要素の引用。それは「27歳のタエ子」だけでなく、あの時代に10歳だった誰もが持っている「記憶」。もっと大きく言えば、年齢を問わずあの時代に生きていた人たち全ての人の「記憶」。それでいて個人の経験に留まらない「記憶」の引用。「都会」と「田舎」、「東洋」と「西洋」でもいい、二者択一的な区分けからは見えてこない、想像力による引用と言ってもいいかもしれない。
そうした引用は、実写だったら可能になっただろうか、と思った。
アニメーションだから可能な引用がある。その極めつけがエンディング曲の「愛は花、君はその種子」ではないだろうか。
原曲はベット・ミドラーの『THE ROSE』。悲運のロッカー、ジャニス・ジョプリンの生涯を描いた映画『ROSE』の主題歌、というようなことは単なる「引用元」のデータに過ぎない。高畑勲自ら訳詞した「愛は花、君はその種子」は、原曲とは全く違うストーリーを持った歌になっている。
1984年に「普通のおばさんになりたい」と引退宣言した演歌の女王、都はるみが「これまで演歌を歌わされていただけだった。これからは自分の歌を歌いたい」と復帰してからの3作目。初の洋楽曲ということにもドラマ性があった。高畑勲は彼女の起用を「復帰宣言に感激した」と話している。映画『ROSE』は鈴木敏夫に教えてもらい、都はるみに歌ってほしいと書いた詞だった。
映画のエンディングに流れる曲でありながら、フィナーレと一体になっている。10歳の時の記憶があの頃のまま蘇って、27歳の自分の未来を祝福してくれる。自分の過去とあんな風に幸せな再会を果たすことがあるだろうか。わずか4分足らずの間にそれまでの物語を締めくくる意外性に満ちた光景が展開する。
そこにはもう「都会」も「田舎」も「日本」も「西洋」もない。あるのは「新しい自分」を選択した一人の女性の旅立ちへの愛情に満ちた視線だけだ。実写映画だったら、あれだけの人数を表情豊かに描けただろうか。
『おもひでぽろぽろ』の全国動員は91日間で216万9435人。興行収入、31億8000万円、配給収入18億7000万円。89年の『魔女の宅急便』に続いて91年度の日本映画興行収入の第1位だった。第2位が『ドラえもん のび太のドラビアンナイト』、第3位が『男はつらいよ 寅次郎の休日』である。
アニメーションが実写を超える。実写では出来ない表現が可能になる。そして、「アニメはただの子供向け」という映画界の先入観を覆した歴史的な作品。それが『魔女の宅急便』と『おもひでぽろぽろ』だったのだと思う。それは「持ち込み企画」「既発曲の使用」という新しい試みから生まれた結果でもあった。
鈴木:当時、みんながびっくりしたことがもう1つあって。『おもひでぽろぽろ』はアジアで大ヒットしたんです。香港では『魔女の宅急便』より動員数が多かった。徳間康快社長は、びっくりして言ってましたね。何で山形の話が香港で受けるんだって(笑)。
付け加えれば、2016年、『おもひでぽろぽろ』の英語版が北米で初めて公開された時にタエ子役を担当した女優、デイジー・リドリーは「わたしが10歳の時、母が『ハウルの動く城』を観に連れて行ってくれたけど、とても衝撃を受けたわ」というコメントを残している。
スタジオジブリは国境を越えようとしていた。
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