野崎歓 サン=テグジュペリ翻訳余滴[『図書』2025年9月号より]
サン=テグジュペリ翻訳余滴
この一冊のおかげでフランス文学への興味をかきたてられた、という本がぼくにはある。堀口大學の訳詩集『月下の一群』だ。
中学生のころ、なんとなく題名にひかれて文庫本を手に取ったのだが、効き目は絶大だった。スーポーだのピカビアだのジャムだの、詩人たちの不思議な名前の響きにまず驚かされた。そしてアポリネールやコクトーの詩がとても親しみやすく、ウィットに富んだ魅力を放っていた。まったく新しい言葉の面白さに触れた思いだった。以後、堀口大學の翻訳をあれこれと読んだ。サン=テグジュペリの『夜間飛行』や『人間の土地』も大學訳で親しんだのである。
それから半世紀後、自分で両作品の翻訳を手がけてしまった。先達に反旗をひるがえすがごとき仕業だろうか? しかし訳書の刊行後も機会があれば訳文に手を入れ続けた大學先生のこと、翻訳は終わりのない営みだと身にしみてわかっていたに違いない。そして新訳とは、かつて愛読した訳への恩返しとも言えるのではないか。もちろん、自分なりの解釈=演奏を試みたいという訳者のエゴの部分が大きいことも否定できないのだけれど。
訳出にあたって避けて通れないのがタイトルの問題だ。『夜間飛行』は文句なしとして、『人間の土地』はその後、複数の訳者が『人間の大地』として訳出している。さらには『人間の土』という訳書もあるらしい。どうしたものか? そんなふうに迷わされるのは何と言っても、フランス語の特質のせいである。
英語と比べたとき、フランス語の語彙はかなり少ないと言われている。辞書で比較してみるなら、最も規模の大きな仏仏辞典である『トレゾール仏語辞典』の見出し語は約10万語。それに対し『オックスフォード英語辞典』の見出し語は約29万語と、かなりの開きがある。少ない単語数でまかなっている結果、フランス語には多義語が多いということになる。とりわけ基本単語ほど、文脈に応じて異なる意味を担うのだ。人間の「土地」と大學が訳したterreも、地面、土地、大地、地球とさまざまな意味をもちうる。表題のみならず、冒頭、最初の単語がterreである。大學訳を見ると「ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える」とある。この一文をはじめとして作中、日本語では「大地」がぴったりくるケースが目につく。これはやはり『人間の大地』としたい。
とりわけ印象的な用例は、“夢の朝ごはん”とでもいうべき挿話に見出される。夜間飛行の途次、方角を見失ったサン=テグジュペリは、相棒の無線通信士のネリともども「惑星のあいだで宇宙空間をさまよっているような気分」を味わう(以下引用は拙訳)。草創期の操縦士がのちの宇宙飛行士のような感覚を抱いて飛んでいたことが伝わってくる。そのとき彼は、あの「たった一つの星」に帰還できたならと思いをはせる。もちろん地球のことだ。無事着陸したあかつきには、ビストロに入って食事しよう。「目の前には焼きたてのクロワッサンとカフェオレ。ネリとわたしはそんな人生の朝の贈り物を受け取るだろう」。
このほかほかの朝食の有難味は、和食党の読者にだって伝わるはずだ。シンプルきわまりないメニューならではの説得力である。そして著者はこう続ける。
わたしにとって生きる喜びは、その香ばしくやけどしそうに熱い最初の一口のうちに、牛乳とコーヒーと小麦の渾然一体のうちに集約されていた。われわれはそれを通して、なごやかな牧場や、エキゾチックな大農園や、刈り入れ時の麦畑と結ばれ、大地のすべてと結ばれるのだ。
サン=テグジュペリが根本的に「生きる喜び」の作家なのだということを雄弁に伝える一節である。大地と自分が結びついていると実感できることの幸福が、ささやかな朝食によってもたらされる。一杯のカフェオレの中に、われらの惑星全体が集約される。プルーストのマドレーヌと紅茶の挿話に比べたくなるような一節といったら大げさだろうか?
こんなエピソードにもうかがえるとおり、先端を行く飛行機乗りの冒険を描きながらも、『夜間飛行』、そして『人間の大地』では、じつは地上への帰還が大きな意味をもってくる。とりわけ後者においては、飛行機の「墜落」が物語に真の深みを与えることになる。
1935年、サン=テグジュぺリは念願の自家用飛行機を購入した。経済観念が乏しく、家賃も払えないほど火の車だったのに、なぜ最新機を買えたのかは謎である。とにかくその飛行機を得て大喜びの彼は、長距離記録を懸けた飛行に挑む。巨額の賞金目当てだったことは間違いない。ところがパリを出発後、地中海を渡ったところであえなく墜落。食糧も飲み水も尽きた状態で、機関士のプレヴォと2人、灼熱の(そして夜間は冷え込みの厳しい)リビア砂漠をさすらうことになった。五日後に奇跡的に助けられるまでの経験が『人間の大地』のクライマックス部分をなしている。何度読み返しても、引き込まれずにはいられない面白さだ。
思えば、砂漠は飛行士サン=テグジュペリと切っても切れない縁がある。航空会社に就職した翌年の1927年、彼はアフリカ北部の定期航路にとって重要な位置を占めるキャップ・ジュビーの中継基地主任を命じられた。現在のモロッコ南西端、砂漠の飛行場である。いわゆる不帰順地帯の民との折衝や、墜落した飛行士の救助も重要な任務だった。妹宛の手紙によれば、フェネックをつかまえて飼ったりもしたようだ。耳が大きくてかわいらしいが、人に馴れず吠え声ときたらライオン並みだと嘆いている。そのフェネックが『星の王子さま』のキツネとなり、「大切なものは、目には見えない」という名言を吐くのである。
『星の王子さま』の物語は、砂漠に不時着した語り手の前に、ちいさな王子が現れるところから始まる。そのファンタジーの大元が『人間の大地』に描かれた、生死の境をさまよった5日間にあることは間違いない。砂漠での経験が作家にもたらしたものはきわめて大きいのである。
一方、砂漠の基地に駐留しているあいだはとにかく暇だったようだ。俗世から切り離されて、まるで「修道院」にいるみたいだ、と母親宛の手紙に書いている。娯楽など何もない中では、もともと読書家のサン=テグジュペリのこと、本を読む時間が増したはず。さて、彼は砂漠で何を読んでいたのか?
そう考えたとき、一人の思想家の名前が浮上する。フリードリッヒ・ニーチェだ。キャップ・ジュビーに赴任する直前、友人に書いた手紙にはこうある。「僕はニーチェを抱えて行く。この男が大好きなんだ。キャップ・ジュビーの砂漠に寝そべってニーチェを読むとしよう」。
プレイヤード版全集の編者はこの手紙にこう注を付けている。「ニーチェの著作と思想はサン=テグジュペリの作品に永続的な影響を与えた。『夜間飛行』は英雄崇拝への礼賛で終わるし、『城砦』は『ツァラトゥストラはこう言った』におけるニーチェの説教口調に発想を得ている」
なるほど、部下たちを叱咤し力強く統率する『夜間飛行』の航空会社支配人リヴィエールの姿には、ニーチェの「力への意志」や「超人思想」がこだましているようだ。そして30年代、サン=テグジュペリが断続的に書き継いだ大作『城砦』は、断章形式からしてニーチェに倣っているように思える。
しかしながら、このたびの翻訳作業をとおして、ぼくはプレイヤードの注には加筆が必要ではないかと思わされたのである。森一郎氏による活きのいい『ツァラトゥストラはこう言った』新訳を読んで、大いに刺激を与えられたためでもある。すなわち、ドイツの哲学者からインスピレーションを得た事実は、『人間の大地』においてこそまぎれもなく表れているのではないか。特に「大地」の価値を謳いあげるくだりにそれが実感されるのだ。
朝食をめぐる思いが記された先ほどの引用には、「大地のすべてと結ばれる」とあった。大空を飛翔し、星々のあいだを経めぐりながらも、操縦士が目指すのは地上への帰還である。夜の闇の中を飛び続けたのちに彼は夜明けの訪れをこいねがう。「東の大地から湧き出すあの光」を待望するのだ。これは同僚のギヨメが死線をさ迷う経験をしたときの胸の内を推察しての表現である。サン=テグジュペリ自身、砂漠への墜落ののちに死の危機に直面しながら、次のような認識を得ている。
さらば、わたしが愛したみんな。人間の体が水を飲まずにいると三日ともたないのは、わたしのせいじゃない。自分がこれほど泉にとらわれていたとは知らなかった。自立していられる範囲がこんなに狭いとは思わなかった。人はみな勝手にまっすぐ進んでいけるものだと思っている。自由だと思っている……。人間を井戸に縛りつけている綱、人間をへその緒のように大地の腹につないでいる綱が見えていないのだ。そこから一歩踏み出せば、人間は死ぬ。
自立も自由も、大地に支えられているからこそであり、大地との絆のおかげである。そう痛感するとき、飛行士はだれにもまして、大地礼賛を綴らずにはいられない。一夜、砂漠に寝転んで満天の星を仰ぎ見たときの感想にはこうある。
自分がうなじからかかとまで、大地に縛りつけられているのがわかった。大地に体重をゆだねていると一種の安らぎを覚えた。重力は愛のように至上のものであると思えた。
大地との切っても切れない縁を見出した飛行士=作家は、自らが至上の愛に包まれているという感慨を抱いたのだ。
そんなサン=テグジュペリの言葉と、『ツァラトゥストラはこう言った』は見事に響きあっている。何しろニーチェによれば「超人とは、大地の意味」なのだ。「私は君たちに求めたい、兄弟たちよ。大地にあくまで忠実であれ、そして、地上を超えた希望を君たちに語る者たちのことを信じるな、と」(森一郎訳)。
かつては「神を冒瀆すること」が最大の冒瀆だったが、神の死ののち、「今や最も恐るべきことは、大地を冒瀆すること」である。そう述べて、ツァラトゥストラは「大地にあくまで忠実であってくれ」と繰り返し、「君たちの惜しみなく与える愛と、君たちの認識は、大地の意味に仕えるものであれ」と懇願する。
興味深いのは、そうしたニーチェの希求が、高みを目指し、天がける運動とともにあったことだ。まだ航空機が発明されていない時代に、ニーチェは「われわれ精神の飛行する者!」(『曙光』茅野良男訳)と誇らしく自己定義していた。しかも彼は、天上の彼方に救いを求める旧来の宗教を激しく否定した。飛翔の果てに大地へ帰依する軌跡をニーチェは描き出しているのだ。
サン=テグジュペリはそうした哲学者の理念を具現した冒険家ではなかったか。「今や、人間がみずからの目標を定めるべき時となった」「人間とは、克服されなければならない何かである」(『ツァラトゥストラはこう言った』)。『夜間飛行』や『人間の大地』に登場する飛行機乗りたちは、ツァラトゥストラの呼びかけに応える者たちであるように思えてならない。
そんな観点から読み直すとき、『人間の大地』の最後の一文はどう訳せるだろう。前の段落から切り離された一行には、全編をしめくくる役割が託されている。人間は未完の存在であり、つねに創造の過程にあるという、全編の通奏低音となっている考えを端的に要約した一文である。大學訳はこうなっている。
精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。
原文の主語はL’Espritであり、「風」にあたる語はない。いったいどこから吹いてくる風なのかと考えると、やや曖昧ではある。大學訳の他に優れた翻訳が二種類あるが、いずれの訳者も「精神の風」を受けついでいる。大學の顔を立てすぎという気がしなくもない。
ここで考慮に入れるべきは、旧約聖書への目くばせだろう。創世記第2章第7節のよく知られた一文だ。
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。
(聖書協会共同訳)
「土の塵」はサン=テグジュペリにおいては「粘土」で置き換えられている。『人間の大地』には何度かこの語が登場する。日常に埋没し、生の意味を失った人間が干からびた粘土にたとえられる一方で、疲れ果てた労働者の姿を見て「美しい人間の粘土は台無しにされた」と慨嘆する箇所もあった。本来、いかようにも伸び広がる可能性をもっているはずの人間存在を、彼は可塑性に富む粘土として思い描いているのである。
しかもそこに息を吹き込むのはあくまで人間の営みであることも、『人間の大地』の随所で示されていた。それは「神である主」の恩寵によるのではない。サン=テグジュペリは「人間の領土は内部にある」と書き、「自分の内部で(…)人間が目覚める」瞬間の喜びを綴った。そこでは各自の精神の発露が決定的な意味をもつ。つまりこの最後の一行は(ニーチェ的不遜ささえ漂わせつつ)聖書の一句を書き換えた人間宣言なのである。というわけで拙訳はこうなった。
「精神」だけが、その息吹が粘土の上に通うならば、「人間」を創造することができる。
(カッコ書きは大文字表記に対応)
旧訳との違いは些細なものにすぎないし、これぞ正解と主張したいわけでもない。ただ訳出を終えた今、この一文を翻訳論としても受け止めたい気持ちになっている。精神の息吹が通ってこそ「翻訳」を創造することができる。さもなければそれはAI翻訳にすぎない。そう自分を励まして、次の仕事に向かうとしよう。
(のざき かん・フランス文学)