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鈴木敏夫 × 田家秀樹 ジブリと音楽

第2回 ジブリ前史と『天空の城ラピュタ』の音楽

今年5月にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 特別編・宮﨑駿と青サギと…『君たちはどう生きるかへの道』」は、あの映画がなぜ事前情報も前宣伝もなしに公開されたかの答えでもあるように思った。

あそこまで宮﨑駿自身の個人的な想いが綴られていると先に明かしていたら、違う印象を持たれていたに違いない。少なくとも「何を問いかけているのか」をそれぞれが考えるという思索的な受け止め方はされていなかっただろう。そういう内容ゆえの英断だったのではないだろうか。

鈴木 :仰るとおりです。お客さんに何も知らない状態で見てもらう、これが理想ですよね。以前から、宮﨑駿の映画だったらその理想を追求してもいいんじゃないか、と思っていました。とくに今回は、自伝的要素が大きい作品。それをそのまま自伝だと宣伝したら、安っぽくなるだろうし、観る側も不純な動機で観ることになりかねない。だから宣伝をしないという判断をしたのですが、一か八かの賭けでした。僕の腹づもりとしては、これまで大勢の人が宮﨑作品を愛してきてくれて、どういうものを作るかに対して一定の信頼がある、それに乗っかろうと思ったんですよ。それとやっぱり、内容を知らず新鮮な状態で見てもらいたいという気持ちが強かったですね。

ジブリが始まった頃は、作品で流れる音楽も、映画館で初めて聴いてもらおうという考えでやっていたんです。そのほうが感動が大きいし、すでにヒットした曲を聴かされると映画がぶち壊しになるよねと、そんなことを高畑さんとよく話していました。でもそれだと、売れませんよね。やっぱり事前に知らせないと。

ジブリ作品で、初めて主題歌を予告編その他で大々的に使ったのは『もののけ姫』でした。そうしたら爆発的に売れたんです。やっぱり宣伝しなきゃだめだなっていうことをその時に思い知るのですが(笑)。

とは言え、話が『もののけ姫』に至るまでにはもう少し時間がかかる。
 そもそも宮﨑駿にあれだけの影響を与えていた高畑勲と鈴木敏夫との関係はどんな始まりだったのか。
 改めてそこから始めてみたいと思う。
 作品は1968年の『太陽の王子 ホルスの大冒険』と82年の『セロ弾きのゴーシュ』について。前回のおさらいでもある。

運命の出会いを生んだ『ホルス』

鈴木:これはね、身も蓋もない話なんです。ある日、『アニメージュ』という新しい雑誌を創刊するので作ってくれないかと、僕の上司だった尾形英夫という人に頼まれるんですよ。彼は、いわば日本のアニメーションブームの火付け役。すごい人なんですが、しかし頼まれた時点で発売まであと2週間ぐらいしかない。本当にむちゃくちゃでした。いろいろあって引き受けざるを得なくなったのですが、実作業の期間は1週間。それで月刊誌を作るという、とんでもない話だったんです。尾形は「俺も何か手伝うから」とか言って。自分が編集長のくせに何を言っているんだと思ったんですけど、なぜか“憎めない人”でした。ある日、アニメファンの女子高生を知っているからと3人紹介してくれたんです。それで、紹介したまま本人はどこかに消えてしまって。

田家:尾形さんが『太陽の王子 ホルスの大冒険』をご存じだったわけでは……?

鈴木:ないんです。とにかく時間がないので、紹介された3人の女子高生に会いました。それで、朝から夕方まで聞いた話が、そのまま創刊号の内容。スタッフもいないし、必死でした。

田家:編集者もいない?

鈴木:そう。だから僕、自分が担当すると決めたその日にまず編集者集めをしました。2日目にその女子高生たちに会って内容を決めて、その日の夜のうちに台割りを作って、3日目に編集会議ですよ。そんなスケジュールですから、その子たちが言ったことを真に受けるほかなかった。

田家:その子たちが『ホルス』がいいと。

鈴木:そうです。「他にも今までいろいろな名作があったんじゃない?」て言ったら、「いや、ホルスっていうのが一番すごいんです」って。それだけ聞けば十分だった。作品を紹介して、作った人のコメントを載せようと、そう考えたんです。

田家:でもコメントがもらえなかった。

鈴木:はい。それが僕と高畑・宮﨑2人との、最初の出会いになるのですが。

田家:電話でお話をされているんですね。

鈴木:そう。高畑さんなんて、初めての電話で「なぜ取材を受けたくないか」を延々1時間しゃべったんです。それでしゃべり終わった直後にこう言いました。僕はそういうわけで答えたくない。答えたくないのだけれど、今、僕の隣に、宮﨑駿という人がいる。彼は『ホルス』を共に作った仲間の1人。電話替わりますか?って。僕は「ぜひ替わってください」と答えて。それが宮﨑駿と僕の最初の出会いです。

田家:同じ電話なんですね。

鈴木:そうです。宮﨑駿という人は、話が早いんですよ。電話を取った途端、「あらましは聞きました」って。この台詞も忘れないですね。「あらましは聞きました。僕はしゃべりたいことがいっぱいあるからページを取ってほしい。何ページですか」といきなり言われたんです。8ページのつもりだったので、そう返したら、「16ページください」と。組合活動のこととか、それでも終わらない話の内容があるからって。「8ページで何とかなりませんか?」と粘ったら、「駄目だ」って。これが出会いですね。忘れないですよね。

田家:ページはどうされたんですか。

鈴木:斎藤侑という『ホルス』のプロデューサーの1人が東映の本社にいたので、急遽その人のところへ行って、スチールだけ手に入れました。そのスチールを順番に並べる作業を彼にやってもらって。当時ビデオも何もないので、大変でしたね。あとは、ホルスの声の大方斐紗子さん、グルンワルド役の平幹二朗さん、ヒルダ役の市原悦子さんたちの話を聞いて、とにかく誌面をつくって、創刊号を出しました。そしたらこれがなんと、7万部が3日間で売り切れたんです。僕自身がびっくりする勢いでした。そんなさなか、ちょうど池袋で『ホルス』のオールナイト上映をやるというので、観に行ってみたんですよ。そこでもびっくりしたんですよね。

田家:人がいっぱい入っていて。

鈴木:それもそうなんですが、驚いたのは内容。ベトナム戦争を描いていたんです。守るべきものは何か、と。ハノイですよ。それを大真面目に作った映画だったから、これはたまげましたね。それで高畑・宮﨑の2人に興味を持ったんです。

田家:お会いになったのはその後ですか。

鈴木:そうですね。その直後だったから、確か1978年の終わりだったと思います。最初に宮﨑駿に会うんですよ。『カリオストロの城』を製作中だというので、取材して記事にしようと。「ああ、あの時の宮﨑だな」と思ってましたね。それで質問の内容は僕が決めて、担当者に取材を頼んだら、この人が「取材がうまく行かないんだよ。一緒に来て」って。それで付いて行ってね、今度は宮さんと直接会う。それがきっかけですね。

田家:その時は話がうまく進んだのですね。

鈴木:いやいや。ひどいことを言われましたよ。「僕らが真剣に作っているアニメを題材に、子どもたちをだまして金儲けする雑誌だろう」って。頭にきましたよね。口惜しかったですね。

そういう出会いなのか、と思った。創刊する雑誌の頁を埋めるための企画が発端だった。そして、鈴木敏夫が2人に興味を持ったのは『太陽の王子 ホルスの大冒険』の内容がベトナム戦争を連想させたからだった。

1968年の公開である。ベトナム戦争が泥沼に入り込んで、アメリカでも日本でも反戦運動の狼煙が上がっていた時代だった。

田家:その時に『ホルス』の音楽についてはどう思われてましたか。

鈴木:間宮さんですよね。彼が担当した経緯は知りません。後に『火垂るの墓』で音楽をお願いして、間宮さんにお目に掛かることになるのだけど。高畑さんは、学生時代から間宮さんのファンだったんです。彼は確か、黒澤の映画音楽をやっていた早坂文雄に連なる方なんじゃないかな。高畑さんは、それで興味を持っていたんですよね。

田家:『ホルス』はワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』を下地にしているという指摘がありますね。それと、アイヌの神話を題材にした人形劇、深沢一夫さん脚本の『春楡(チキサニ)の上に太陽』。

鈴木:高畑さんはオペラが大好きで、とくに『フィガロの結婚』が好きでしたね。とにかく「音楽と映像」が好きだった。高畑さんは、ずっとアイヌを作品に取り上げようとしていたから、『春楡の上に太陽』を観に行ったんでしょうね。『ホルス』は舞台の場所を特定していない。本当は、アイヌの話としてやりたかったんだとのちに聞きました。

田家:『セロ弾きのゴーシュ』は彼がやりたかったことなんでしょうか。

鈴木:高畑さんが最初にやろうとしたのは、実は『セロ弾きのゴーシュ』じゃなかったんです。彼がやりたがったのは、同じ宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』。本格的な音楽アニメーションをつくりたかったんです。ただその場合、鹿が本当に踊っているように描けるアニメーターが必要。そうでないと成立しない。ところが、それに足る描き手が制作会社の中にいなかったんです。そうなると、彼は、企画そのものを変える人なんです。そこで出てきたのが、『セロ弾きのゴーシュ』。あれならストーリーがあるから、ストーリーに重きを置くなら今のスタッフで十分だという判断をした。一方で理想は持つけれど、現実を忘れないというか。理想を失わない現実主義者ですね。日本のアニメーションの世界で一番最初にその姿勢を示したのが高畑。それを見た宮﨑が彼に敬意を払う、こういう関係なんですよね。

『ナウシカ』と『ラピュタ』をつなぐ『柳川』

どんな作品でも完成に至るまでのいくつもの流れがある。「ジブリと音楽」というテーマも当然のことながら、そこをたどらないと語れない。88年の高畑勲監督作品『火垂るの墓』の音楽担当、間宮芳生は、高畑初の監督作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』と『セロ弾きのゴーシュ』も手掛けていた。

前回で「ジブリと音楽」は「高畑勲と音楽」でもあるのかもしれない、と書いた。彼の話をしてゆくには87年の『柳川堀割物語』について触れないといけない。86年に公開された『天空の城ラピュタ』は、『柳川堀割物語』があってこそ生まれたからでもある。

高畑勲監督・脚本、プロデューサーは宮﨑駿、音楽は間宮芳生。福岡県柳川市に網の目のように作られた掘割と呼ばれる水路をテーマにした2時間47分の長編ドキュメンタリー。『風の谷のナウシカ』で宮﨑駿が得た報酬を制作資金として提供、彼の個人事務所の自主製作作品として始まった。

鈴木:実を言うと、これも尾形さん絡みなんですよ。

田家:そうなんですか。

鈴木:尾形がたまにね、宮さんとか高畑さんのところへ来るわけですよ。それでワーッとしゃべって。しかも、ただ単に楽しくしゃべるんじゃない、必ず企画を出すんです。それである日、尾形が「『青い山脈』ってあったでしょ」って言い出して。あの映画は戦後の日本人を温かくした、みんなの気持ちを明るくした、そういう作品をもう1回作りませんかって。

田家:映画として? アニメーションじゃなくて?

鈴木:アニメーションです。それで尾形は、「舞台は地方がいい」と言い出す。それがこの企画の発端なんですね。そして「高畑さん、作ってくれないですか? あなたも映画監督だろう」と頼む。高畑さんも、尾形の純粋さみたいなものに、ちょっとほだされたんですね。心が動いたというのか。それで、高畑さんがアイディアを出しました。

九州の柳川にこういう話がある。あの街は古くからの水路を暗渠にする計画があった。このままでは水路が全部駄目になる。それを何とかしたいと願う大人たちが高校生の力も借りて救う映画はどうか。そうすれば、現代版『青い山脈』になると。

そこに宮さんなんかもいてね。彼も高畑さんのやりたいことが、何となく分かるわけですよ。それで、高畑さんがシナリオハンティングに行くことになる。

田家:柳川と何かの関係があったわけでは……?

鈴木:何もないです。それで、シナリオハンティングをやっているうちに、いろいろなことが分かってきました。暗渠にせずに水路をきれいにした人がいて、それが市の職員だったんですよ。

田家:広松伝さんという人ですね。

鈴木:そうです。この人を何らかの形で中心にすれば映画になるのではないか、と考えた。で、僕と高畑さんと宮さんの3人で、シナリオを山田太一さんに頼みに行って、結局駄目だったということもあって。そうこうしているうちに、高畑さんが「これは果たしてアニメーション映画としてやるというのが本当に正しい方向性なのか」と言い出して。実際にある話の方が面白いのだから、それを映画にしたらどうか、と言い出した。

高畑さんってそういう時ははっきりしている。普通だったら、この広松伝という個人をヒーローにすれば、作りやすい。でもそれは違うと思う、と彼は言うんです。いろいろな人がいろいろな形で関わって、みんなの力で成し遂げた物語だと。それを映画にするべきではないか、と。でも宮さんは最初、反対でした。「アニメーション映画にしようよ」って。

そんななかで、ナウシカがヒットして、お金が入った。宮さんがそれをどう使おうかって迷っていたから、僕、「高畑さんが作りたいという映画を宮さんのお金で作ったらどうか?」と言ったんです。そしたら宮さんは、「それは俺の評判が良くなるよね」と(笑)。「儲かったお金で車を買ったりすると、俺、評判悪くなるじゃん」とか言ってね。

田家:いい人ですね。

鈴木:本当にいい人、正直な人なんですよ、宮さんって。

一人の市の職員が職務を投げうって汚染した水路を蘇らせることで街を救う。まさにヒーロー物語にはうってつけと言っていいかもしれない。高畑勲はそうしなかった。アニメというフィクションではなく、実在の街の人たちの日常を描いた「水と人の暮らし」のドキュメンタリーにした。スタッフともども現地で暮らしながらの撮影である。彼は街の人たちに対して自らインタビュアーとして慣れないマイクを向けている。予想外の経費と時間がかかったことは容易に想像がつく。

生活用水として利用されなくなり、いつしかごみ捨て場と化してしまった水路を埋め立てて地下水をくみ上げたら、街は沈没してしまう。外見は不要で有害と思われている水路の存在が、実は人々の生活に必要な水や空気を守ってくれている。

柳川市にとって掘割と呼ばれる水路は、『ナウシカ』の中の「腐海」のような役割を果たしていたのだと思った。

* * *

田家:自分たちの制作会社を作ろうとおっしゃったのは高畑さんなんでしょ。

鈴木:ナウシカを作った後に、ああいうのをもう一本つくろうということになったんですよ。

田家:子ども向けのものを。みんなが楽しめるものを、と。

鈴木:でも、ナウシカを作った後に宮さんがね、「もう監督は嫌だ」って言い出したんです。「これは俺の最後の映画だ」って。なぜかというと、内容も評判が良くて、お客さんもいっぱい来てくれた、しかし多くの友達を失ったって。

田家:何で失ったのですか。

鈴木:スタッフに対して、仲良しだけでやっているわけにいかないでしょう。嫌なことも言わなきゃいけない。そのたびに友人たちが1人去り、2人去りしていったんです。そういう目に、もう自分は遭いたくないって。

田家:まあ監督ですからね。

鈴木:高畑さんは『柳川』を作っていたのですが、半分できたあたりで、宮さんが用意した制作費を全部使い切っちゃったんです。それで宮さんが僕のところに来て、「鈴木さんどうしよう。もうお金ないよ、俺。大した家じゃないけど、売りたくない。何か考えて」って。そこで僕は「もう1回、映画を作れば何とかなりますよ」と言ったんです。そうしたら宮さんがその場で『ラピュタ』の企画を話し始めたんですよ。5分後にはストーリーができていました。驚いて「いま作ったんですか?」って訊いたら、「いや、小学校の時に考えた」って。

田家:そちらにすぐに切り替えて。

鈴木:そうです。それで『ラピュタ』を作ることになる。一方、高畑さんはそれによって『柳川』を引き続き作ることができる。ただ、宮さんひとりでやるというわけにいかない。「高畑さん、分かっていますよね」って言ったら、「分かりました。またプロデューサーですか?」って。それで再び、宮﨑駿が監督、高畑がプロデューサー、ということになるんです。

高畑勲を感心させた「作詞家」宮﨑駿

『天空の城ラピュタ』は、85年に設立されたスタジオジブリの最初の作品である。

高畑勲は86年の『ロマンアルバム・エクストラ68 天空の城ラピュタ』のインタビューで「徳間書店が本当にアニメーションの大作をこれからも作っていこうという展望を持っているのなら、それなりに責任を持つ母胎を作った方がいいのではないか、ということで新しい制作会社を提案した」とジブリ設立について語っている。

監督・原作・脚本・宮﨑駿、プロデューサー・高畑勲、音楽・久石譲という並びは『風の谷のナウシカ』と同じだ。先にイメージアルバム「空から降ってきた少女」が製作され、映画公開後にサウンドトラックアルバム「飛行石の謎」が発売されるという手順も踏襲された。

違うのは作詞・松本隆、作曲・筒美京平、歌・小幡洋子で先行シングルとして発売されたイメージソング「もしも空を飛べたら」とは別に、映画公開後に本編にエンディングで流れた井上あずみの「君をのせて」がシングル発売されたことである。

作詞・宮﨑駿、作曲・久石譲だった。

鈴木:『ラピュタ』に関しては、『ナウシカ』を踏襲する形ですよね。だから高畑さんもちょっと手慣れていて、音楽作りは、やはりイメージアルバムからサントラという流れ。これは前回の経験が生きましたね。

田家:イメージソングは問題がなかったんですか。

鈴木:これも三浦光紀さん絡みでしたけど、最初から本編とは別のイメージソングとして作る、という方向性だったので問題は生じなかった。そこも学んでますね。

田家:松本さんは、どの段階でこの詞を書いているんでしょう。

鈴木:イメージソングの時です。かなり早かったと思いますよ。『ナウシカ』が成功したから製作に時間をもらえたんです。『ナウシカ』は6か月の製作期間でしたが、今度は1年かけて作ろうと。それでお金をいっぱい使っちゃうんですが(笑)。それより高畑さんは、宮さんの書いた原詞を見て、いたく感心したんですよ。詞の冒頭は、「地平線が かがやくのは 君をかくしているから」。なぜ高畑さんは感心したか。「あの沢山の灯がなつかしいのは どれかひとつに君がいるから」と続くんですが、この詞を書いた人は、どこにいるんでしょう?

田家:上から見てますよね。

鈴木:そう! 松本隆さんにも書いていただいたのですが、歌詞は「もしも空を飛べたら」。つまり、地上から見ているんですよね。一方で宮﨑駿のほうは、空にいて、そこから見ている。詩人って、大体は地上から見るじゃないですか。でも宮さんは、自分が上空に行っちゃっているんですよね(笑)。それを高畑さんが面白いって言って、すごく喜んだんですよ。

それで高畑さんが、久石さんが作ったイメージアルバムの中からあの「シータとパズー」を選んで、自分で楽譜を書いて、そこに宮さんの言葉を当てはめて詞にしたんです。2人の共作ですね。前回は歌でもめましたが、『ラピュタ』では問題は起こりませんでした。

宮﨑駿が最初に書いた詞はこうだ。

  • 地平線が かがやくのは 君をかくしているから あの沢山の灯がなつかしいのは どれかひとつに君がいるから
  • さあ出かけよう カバンにパンとナイフとランプを入れて
  • 父さんがのこした あつい想いと 母さんがくれた あたたかい眺し(原文ママ)
  • 君をかくしているので 地球はとても広い 君が美しいので 世界はかがやいている

 

鈴木敏夫 × 田家秀樹 ジブリと音楽 第2回 ジブリ前史と「ラピュタ」の音楽01
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実際にレコードになっている歌詞とどう違うかは、ご自分でお確かめ頂きたい。高畑勲が自ら楽譜を書いて譜割を合わせて修正したということがお分かりになるはずだ。作詞家・宮﨑駿のデビューということになる。

鈴木敏夫は、当初、作曲家に予定されていたのは宇崎竜童だったと『ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ』(文春ジブリ文庫)で明かしている。

 

 

鈴木:色々な人の名前が上がったのですが、高畑さんが宇崎竜童という人に注目していた。それまでの彼の映画音楽を聴いていたんですよ。宇崎さんは1984年の『少年ケニヤ』の音楽監督もやってるんです。それで、僕と高畑さんの2人で、宇崎さんが手がけた曲を聴きまくった。宮さんは、高畑さんが決めるなら異論はないということで、当時赤坂にあった事務所に僕と高畑さんとで会いに行きました。直接お目に掛かっていろいろな話もして、かなりいい感じで進んだんですよ。それなのに、終わって外へ出た瞬間、高畑さんが「本当に宇崎さんでいいのでしょうか」と言い出してね。そういう時に言い出したら聞かない人だから、僕もすぐに心を決めました。「そう思うときは、やめた方がいいですね。やめましょう」って。それで「やっぱり久石さんがいいんじゃないですか?」と言ったら、高畑さんも「そう思ったんですよ」と言う。「じゃあこの足で、久石さんのところに行きましょう」となったんです。

田家:その足で行ったんですか。

鈴木:そう。久石さんの事務所は当時六本木だったから、近かったんですよ。2人でいきなり訪ねて、『ラピュタ』の依頼。その場でイメージアルバムの話までしました。まず宮さんに文章を書いてもらって、それを元にどういう曲で行くか、ということを全部話し合ったんですよ。前回と同じようにね。

音楽は不要ではないか──高畑勲の苦悩

宮﨑駿は『ナウシカ』と同じようにキーワードを使って『ラピュタ』のイメージを説明している。個々の文章を紹介する余裕はないので項目を順にあげると、「空の海賊(ドーラ)」「フラップター」「鉱夫」「飛行石」「樹」「天空の城」「竜の巣」「ゴンドアの谷」「ハトと少年」「テデスの要塞(ゴリアテ)」「少女」という順だ。

冒頭が「空の海賊(ドーラ)」だったのは彼の思い入れの表れなのかもしれない。

 

鈴木敏夫 × 田家秀樹 ジブリと音楽 第2回 ジブリ前史と「ラピュタ」の音楽02
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鈴木敏夫 × 田家秀樹 ジブリと音楽 第2回 ジブリ前史と「ラピュタ」の音楽03
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鈴木:『ラピュタ』に関してはね、高畑さんが途中で「この映画は」と言い出したんです。なにかな、と思ったら、「音楽いらないですね」って。え、と思いましたけど、僕も『ナウシカ』で何となく勉強したから、少し高畑さんの考えが分かるようになっていた。考えは分かるんだけど、音楽がないと、みんな泣くから(苦笑)。徳間ジャパンとかね。「高畑さん、普通にやりませんか?」って言ったら、「まあ」って渋るので、いろいろ説得しました。要するに高畑さんは、音楽が絵の邪魔をすると思ったんです。せっかく手で描いて、絵で芝居をやっているわけでしょ。そこで音が鳴ったら、ぶち壊しになるだろう、と。

本編の最後、主題歌になっていくじゃないですか。高畑さんが一番悩んだのが、あそこですよね。元にあった久石さんの案を直したんですよ。久石さんも高畑さんへの信頼が厚かったから、彼の意見に従った。それで映画ができました。見終わった時、高畑さんが言ったんです。「最初の久石さんの案の方が良かった」って。あれは反省していましたね。久石さんに謝ったりもしていましたが、久石さんって明るい人だから、「そんなのどうでもいいんですよ」と言ってくれました。

田家:少年のトランペットはどの辺で出てきたのですか。

鈴木:あまり使わなかったですよね。宮さんってね、主人公に何かを持たせたいんですよ。

田家:持たせたい?

鈴木:そう。『未来少年コナン』では、銛を持っていた。何か持っていると、主人公として成立しやすいんです。それで今回はトランペット。いつもパズーがトランペットを持ってるようにしようとしたのですが、「面倒臭いね」って言い出してやめちゃう(笑)。「いちいち描いていられないよ、鈴木さん」とか言って。いつの間にか消えるんですね。すごいでしょ(笑)。面白い人なんですよね。

音楽は不要ではないか。

高畑勲はそのことについて『ロマンアルバム』のインタビューで「実は今でも気にしていることがひとつあるんです。それは『ラピュタ』にもし音楽を全然入れなかったらどうだったんだろうということです」とこう話している。

「この映画はそれでも成立したと思う。そして、むしろきっと雲の上とか、ラピュタの現実感をひしひしと感じたんじゃないか。そうすれば、一種観客が特別な体験をする映画になったと思います」

「ただ、観客はくたくたに疲れるでしょう。もう現実音だけですから、常に緊張をもって画面に集中していなければいけないですからね。しかし、これはやはり娯楽映画ですから、音楽は入れました。むしろ積極的にです」

筆者が印象深かった場面が二か所ある。ひとつは、パズーが早朝の屋根の上でトランペットを吹くシーンだ。久石譲は『ジブリの教科書2』で「今までの久石譲にはなかったメロディーですね」というインタビュアーの指摘に、「大学の時にバロックアンサンブルの指揮をやっていたんで身近な音楽」とこう答えている。

「それ以降なぜかエスニックな音楽の方へ行ってしまったので、意外と思われるかもしれないけれど、むしろそっちの方が僕の原点に近いんですよね。また、僕のメロディ・ラインは、スコットランドやアイルランドの民謡のような感じに近いんです。だから『ラピュタ』は、かなり僕のもともとの持ってる音楽に近いところでやれた作品なんです」

もう一つが、ラピュタに着いたパズーとシータが森の中のロボットの墓の前に立つシーンだった。久石譲は、やはり『ジブリの教科書2』で「一番苦労した曲、大変だったシーン」として「解釈が違ってましたね」とこんな話をしている。

「僕は、大樹やお墓というところから、壮大なそして神秘的な感じの曲を作ってしまったんですが、あそこはむしろ、マイナーでハートにしみるような曲の方が良かったんです。もの悲しさが必要だったんですね」

あそこはあれで良かったのだろうか。公開後もプロデューサーも作曲家もそんな自問を続けている。そのことも製作者の誠意の表れなのではないだろうか。

使われている「音楽」は「曲」として流れるものだけではない。

「王だけ生きてるなんて滑稽だわ」と言ったシータが「ゴンドアの谷の歌」として「土に根をおろし、風とともに生きよう。 種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう。 どんなに怖ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」と語った場面が忘れられない。

 

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