第1回 『風の谷のナウシカ』と高畑勲
いきなりの余談で恐縮なのだが、「君たちはどう生きるか」がアカデミー賞を受賞した時の鈴木敏夫プロデューサーの言葉にうなってしまった。なにしろ第一声が「オスカーは買えるんですよね」だったのだから。彼はその後に屈託のない笑顔で「僕、3つ注文しちゃいました」と続けた。つまり、「買った」のは「トロフィー」というオチがあった。
テレビの報道番組で見たので発言の前後はあったのだろう。でも、「オスカーは買える」という端的な言葉が、古今東西、あらゆる「賞」と呼ばれるものにまつわる不透明さへの皮肉を含んでいるように思えたのだ。
その話をすると彼は「全くそんなつもりはなくて、その時頭にあったことを口にしただけ」と苦笑いしたのだが、あの自然体のさりげなさの中に権威におもねらず時流に媚びないジブリのありようが集約されていると思ったのは僕だけだろうか。
という話はさておき、10回にわたるこの連載のテーマは「音楽」である。今年5月もNHKの地上波で「ジブリのうた」という番組を放送していた。2008年には二枚組アルバム「スタジオジブリの歌」、2023年にも武部聡志プロデュースの「スタジオジブリトリビュートアルバム・ジブリをうたう」も出ている。それぞれの曲もすでに当事者の解説もされている。映像作品もそうであるようにその中の曲はすでに受け手のものにもなっている。ジブリ初心者の筆者の出る幕などなさそうだ。
とは言え「ジブリと音楽」という視点ではどうなのだろう。まだ語られていないこともあるのではないだろうか。ジブリの作品で流れている音楽は、それこそ時流を追ったものでも名のある人を起用したというありがちなものとは違うオリジナリティーを持っている。
今や世界に名だたる制作会社が音楽とどう向き合ってきたか。彼らの中で音楽はどういう位置を占めてきたのか。プロデューサー・鈴木敏夫へのインタビューを中心に個別の作品について様々な形で語られていることをつなぎ合わせると何が見えて来るのだろうか。
ジブリ音楽を生んだ「不純な動機」
話はこんな風に始まった。
鈴木 :今日第一に話そうと思ったのは、何と言っても、高畑勲がジブリの映画音楽の基礎をつくった。ポイントはここなんです。それまでの日本映画では、音楽制作のために与えられる時間が、フィルムの完成から大体3日でした。そのことを高畑さんは憂慮していて、もっと時間がとれないものだろうかと考えていた。「ナウシカ」の時は高畑さんは、監督ではなくプロデューサーという立場だったから、僕を相手に雑談する余裕があったんです。そこで言い出したのが、ちゃんと時間をとって、その中で音楽を作れないか、ということ。
それともう1つ、それまでの日本映画では、音楽作りはいつも一発勝負だった。3日しか時間がないから、1回作ったらそれで終わり、検証なんてできない。それでどうなるかというと、黒澤(明)さんにしたって、いわゆる日本で名匠と言われる監督、彼らの映画音楽には共通項があって、大事なシーンには音楽がないんです。
田家:なるほど。音楽というのはその程度の扱いだった。
鈴木:ジブリがスタートする前夜でしたが、「ナウシカ」をやる時、高畑さんがプロデューサーになったというのはものすごく大きかったですね。
田家:高畑さんをプロデューサーにというのは、監督の宮﨑さんがおっしゃったわけでしょ。
鈴木:そうです。
田家:高畑さんをプロデューサーにという根拠はどういうものだったんですか。
鈴木:……それね。
田家:すでにいろいろしゃべられたかもしれませんけど。
鈴木:いや、いいんです。あのね、宮﨑駿という人は、自分が監督になって映画を作りたいなんてかけらも思っていなかった人なんです。ずっと高畑勲のスタッフの1人として働いていた。その時の恨み辛みがいっぱいあったわけで。それをこの機会に晴らそうという、不純な動機だったんですよ(笑)。
田家:何ですか、それ。
鈴木:要するに監督って、自分の思い通りに作れるわけじゃないですか。じゃあプロデューサーは? もちろん意見は言いますよ。こうした方がいいんじゃないか、ああした方がいいんじゃないか、と。でも自分では手が下せない。その状態に高畑さんを置きたかったんですね。
田家:高畑さんの方が音楽が詳しいとか……。
鈴木:それは一切関係ない(笑)。
田家:関係なかったんですか。
鈴木:関係ない。とにかく自分が監督でしょ。高畑さんをプロデューサーにすれば、どうせ高畑さんはイライラする。それが自分の快感になるっていうことを、宮さんは分かっていた。そういうことなんですよ。
これは色々なところで喋った可能性もあるのですが、珍しく「鈴木さん、飲みに行こうよ」って宮さんに誘われたことがあって。彼は激しい人なので、飲みながら泣き出しちゃってね。「鈴木さん」って。「高畑勲にどれだけひどい目に遭ったか」って、そのつらつらを喋る。で、なにせキャッチフレーズが得意な人だから、「彼に捧げた15年の青春を返してほしい」なんて言ってね。それで、この1本に懸けたんですよ。
田家:なるほどね。何が起ころうと全部責任はあちらだと。
鈴木:そう。それで、とにかく自分が勝手なことをやるでしょ、宮﨑駿という人は(笑)。普段もできないことをやろうとするわけですから、高畑さんのスタッフとして働いていた時、自分が提案したことというのはほとんど受け入れてもらえなかった。そういう悔しさもあったんですよね。
田家:なるほど。
鈴木:監督になれば好きなようにできる。それで高畑さんをプロデューサーにすればイライラするだろう、というのが発端でした。
田家:その時に鈴木さんの中に「音楽」というテーマはあったんですか。
鈴木:全くないです。忙しくなるのは途中からで、最初の頃はのんきに雑談をしていたわけで。それでさっきの話に戻るんですけど、日本の映画音楽はどうなんだと。アニメーションだけじゃなくて、実写もみんなやっつけ仕事。それをちゃんとやることは出来ないだろうか、と。高畑さんがもう1つ言い出したのが、オーケストレーションをやるべきだということ。実はこれ、日本映画ではやられていなかったんですよ。3日で音楽をつくらなきゃいけないから、楽譜をちゃんと書いている暇もない。
そういうことで言うと「ナウシカ」は、高畑さんがずっと考えていたあらゆることの実現の機会にもなったんですよね。
「風の谷のナウシカ」が公開されたのは1984年3月11日、徳間書店の雑誌『アニメージュ』での連載がスタートしたのは1982年2月号からだ。鈴木敏夫責任編集の『スタジオジブリ物語』(集英社)には、『アニメージュ』副編集長だった彼が初めて高畑勲、宮﨑駿と接点を持ったのが78年7月の創刊号で1968年に公開された劇場用アニメ「太陽の王子 ホルスの大冒険」を取り上げた時だったと記されている。
同作品は高畑勲の初の監督作品であり宮﨑駿がメインスタッフとして初めて映画製作に参加した作品としても知られている。そこから二人はどういう関係だったのか。「高畑勲をプロデューサーに」という宮﨑駿の発言は鈴木敏夫には素直に納得出来たのではないだろうか。ただ、二人の間のやりとりは今も「丁寧語」なのだという。
クラシックに精通していた高畑勲
プロデューサー・高畑勲が最初に言ったことが「音楽」の扱い方だった。
鈴木:「ナウシカ」に関していうと、音楽を誰にお願いするかという話になって、最初高畑さんは、高橋悠治がいい、と言ったんです。
田家:現代音楽の高橋悠治さん。
鈴木:そうです。僕は全然知らなかったので、そう言ったら、「いや、外国では有名な人なんです」と。後になって知るんですけど、彼は晶文社の編集者でもあり、芝居もやっていた津野海太郎さんとか、『自動車絶望工場』を書いた作家の鎌田慧さんとか、ブック・デザイナーの平野甲賀さんたちの同人仲間なんですね。それで高畑さんが言うには、現代音楽で優れているのは武満徹、黛敏郎、それから高橋悠治の3人。その中で「ナウシカ」に合うのは彼なんじゃないかと、言い出したんですよね。宮﨑駿に相談とか、そういうのはなかったです。「高橋悠治さんは仕事を選んでやってきた。自分としては、彼しかかけないピアノ曲がいいと思う」って。高畑さんってクラシック音楽にものすごく詳しいわけです。それで言うと高畑さんの最大の音楽映画は「おもひでぽろぽろ」で、その話はまたの機会にしますが……。高橋さんはそのころアジア音楽に目覚めて、タイの民衆の歌とかアジアやラテンアメリカの抵抗運動の歌とか、いろいろ紹介する活動をしていた。高畑さんは、彼のそういう活動が僕は好きなんだ、と。日本の音楽状況の中では革命的な人で、三里塚の空港反対運動とかタイの学生運動なんかにも、自ら参加したりしていた。そういうことを、全部高畑さんに教えられたんです。彼のつくる第三世界の音楽を元にしてやる、というのは要するに「ナウシカに地域性が欲しい」ということだったんです。ほかにも林光さんとか、候補はいろいろあったのですが……。それで、いまだに忘れないです、僕。渋谷で会いましたよ、3人で。高畑さんと僕と、高橋悠治さん。
田家:映画音楽を頼んじゃったんですか。
鈴木:長時間にわたって意見を聞いていました。僕はその場にいたけど、2人の会話を聞きながらチンプンカンプンでした。
田家:シノプシスじゃないけど、こういう内容ですというのをお渡しするわけでしょ。
鈴木:それは口頭ですね。高畑さんという人は、考えたことをまとめてあって、それを口頭でしゃべるんですね。内容については、「ナウシカ」は漫画の連載もありましたし。
高畑勲は音楽に詳しい──。
それはすでに「太陽の王子 ホルスの大冒険」にも表れている。アニメ創成期を物語る画像とは不似合いなほどにふんだんに音楽が使われている。主題歌だけではない劇伴曲も含めてミュージカルを意識しているのではないかと思うくらいだ。
高畑勲は82年に宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を自ら脚本を書き監督としてアニメ化している。映画を撮るというより音楽を表現することに徹した作品は音楽アニメの傑作だろう。「風の谷のナウシカ」の映画化が企画されたのは、その後だったことになる。
高橋悠治起用の案がどうなったか。
それは新たに登場するのが久石譲だったことが答ではないだろうか。
久石譲が手掛けた「風の谷のナウシカ」には「イメージアルバム『鳥の人』」、「シンフォニーアルバム『風の伝説』」、「「サウンドトラック『はるかな地へ』」と3枚が発売されている。それぞれ曲順もタイトルも使われている楽器もシンセサイザーからオーケストラまである。今で言う「バージョン違い」のはしりだろう。一本の映画でそれだけのアルバムが出ていること自体が異例だ。
最初に作られたのが「イメージアルバム」だったことはよく知られている。
田家:久石さんはメーカーの人の紹介だったとありましたね。
鈴木:ちょうどその頃、徳間ジャパンで久石さんのCDを作った人がいたんですよ。
田家:久石さん、最初のアルバムが徳間なんですね。
鈴木:そうです。英語のタイトルのミニマルミュージックのアルバム。それを高畑さんが聴いて、「この人のミニマルミュージックは、クラシックの素養がないとできない」「この人はいいですよ」って。それで久石さんに会おう、と決まるんです。阿佐ヶ谷のトップクラフトというスタジオで会いましたね。
田家:イメージレコードというのは高畑さんから出てきたのですか。
鈴木:そうです。ではなぜイメージレコードなのか、なんですよ。それはさっきも言ったように、日本の映画界は音楽を待ったなしで一回しか作らない。作ってみたけど良くない、ということが本当はあるだろうと。その時はその音楽を使わないで、もう1回やり直す、その機会が欲しい。それでイメージレコードという発想が出てきたんですね。
田家:高畑さんがイメージレコードという言葉をお使いになったのですか。
鈴木:そうです。別の意味でイメージレコードという、漫画を音楽にするとこうなるみたいなLPが出始めていたんです。高畑さんはそれを逆手に取ってね。イメージレコードをつくることで、チャンスが2回生まれると考えたんです。駄目な曲はなくして、もし全く駄目だったら全部作り直せばいい。それを作ることによって、何をやらなければいけないかがはっきりする。中には使えるものも出てくるかもしれない。そういう考えなんですよね。
田家:そういうイメージレコードというのはすでに売れていたんですか。
鈴木:漫画の原作が売れていたら、レコードも売れましたよ。だから「ナウシカ」は、僕絶対売れないと思っていました。原作が売れていませんでしたから(笑)。
田家:おまけに連載中だし完結していない、どこに行くか分からない。
鈴木:逆手に取った、というのはそういう意味なんです。だからね、これはある種発明ですよ、高畑勲の。
田家:久石さんのイメージレコードはすぐにできあがってきたのですか。
鈴木:何て言ったらいいのかな……。先にお伝えしておくと、宮﨑駿という人は、特に、この時は忙しかった。高畑さんにおんぶに抱っこだったんですよ。「音楽は自分が一切かかわらないところで、高畑さんがやってくれればいい」と、よく言えば、高畑さんに対して大きな信頼があった。
それで久石さんに頼むに当たって、高畑さんが何を言い出したか。原作の中から自分が気になる言葉を引っ張り出して、それぞれ宮﨑駿に説明してほしい、と言い出したんです。高畑さんも、漫画を読んで分からないところがある。それを知りたかったんですね。宮さんに説明を書いてもらうことによって、久石さんにとっても役に立つだろうし、同時に自分も勉強になると。結果として、それがイメージアルバムの1曲ごとになるんですよね。
宮﨑駿と久石譲をつなぐ
映画「風の谷のナウシカ」がどういうイメージなのか説明してほしい。プロデューサー・高畑勲の求めに応じて宮﨑駿が動画用紙に書いた手書きのメモが残されている。これは今回初めて公開されるものだという。
こんな文字が読み取れる(原文ママ)。
- メーヴェ(解放と広り)
- ツバメの人
- 軽ろやかな飛翔
- 耳もとをかすめる風の声
- 雲の山 地をかすめるカゲ
- はるかな地へのあこがれと
- 目くらめく高みと広り
- 風の谷(田園への思ぼ)
- 平和なみどりの谷
- 海からふきぬける風と風車の列
- ざわめく麦とブドウの葉
- なつかしさ あたたかさ 人々の声、家畜の声
- 巨神兵の墓所(うしなわれた世界へのいたみ 悲愁)
- 時の闇の彼方へ去ろうとしている
- 巨大な 太古の戦士達
- 錆つき 全身に緑青をふき出し るいるいと横たわる
- 失われた文明
- 不吉な遺跡
- 腐海(静と美)
- 生命にみちた 神秘の異世界
- 音もなく とびかう蟲達
- 雪のようにふる胞子
- 清浄…静けさ 死後の世界のように
- 戦闘(はげしく重苦しく)
- 遠い地平線に広る赤い閃光
- 銃をかまえまちうける人々の顔が 闇にうかぶ
- まちうける おも苦しさ 死と破壊の予感
- とつぜん立ち上り くずれた砲塔の上にとびのり彼方を見る
- 地平線がうごめく ゆっくりやって来る 大地をうめつくす大軍
- 人々の顔がひきつる 絶望にゆがむ
- 戦闘開始をつげるうちあげられる 信号弾の悲鳴
- 王蟲(崇高、高貴な大いなるもの)
- 地球上もっとも高貴で悲劇の生物、去りゆくもの
- 清浄をけがす者への
- 怒りと悲しみと友愛といたわり
- 歌 鳥の人
- 木々をめで 蟲とかたり 風をまねく鳥の人
- 失われた大地との絆をついに結ぶ者
- その青き衣をまといて金色の野におりたつべし
- 遠くより来たり 遠くへ去りゆくなり
- ナウシカの歌(静かな 心のつぶやきのように)
- ◎一つの世界がうかびあがって来るレコード
- ◎伝説の世界
- ◎広りのある…風のような…
- ◎さわやかさ
* * *
「風の谷のナウシカ」のイメージアルバム「鳥の人」が発売されたのは83年11月25日。映画の公開の4カ月前だ。
高畑勲は自著『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店)の中で宮﨑駿が試聴用の「イメージレコード」を繰り返し聴きながら音楽に乗って仕事をしたとこう書いている。
「イメージレコードとして、このアルバムは成功だと思えた。しかし、これが製作中の映画『風の谷のナウシカ』とどこまでうまく交わるか、それについては何もわかっていなかった。ましてその音楽がほぼそのまま映画をいろどることになろうとは思ってもいなかったのである」
「音楽打ち合わせは難航した」。「久石氏は在日中のスーダンのウード弾き語りの詩人、ハムザ・ウッディン氏とセッションをもってくれもした。私はまた、自分にとっても馴染みの薄い後期ロマン派の音楽を持ち出したりしてさらに問題を混乱させた。文明の終末にかかわる深い絶望と無限の憧憬は、結局その終末に追いこんできた西洋文明の申し子たる、世紀末音楽のうちにしか聴きとれなかったのである。
(中略)単純なひとふしのメロディーが、映像と結びついて人の心をゆるがす。あるいは瞬時にその場の意味を悟らせる、そういう力を知らないわけではなかったのに、『ナウシカ』の重さによって私は妙に気負いたっていたらしい」
イメージレコードが本編の作品にどんな作用を及ぼしたのか。彼は「宮﨑氏と久石氏の間にいて、私だけが無駄な一人相撲をとっていたらしいのである」とまで書いている。
久石譲は、『風の谷のナウシカ ジブリの教科書 1』(文春ジブリ文庫)の中でこの時のやりとりについてこう話している。
「宮﨑さんもそうですし特に高畑さんが音楽に大変くわしい方で(中略)例えば最初に作った『腐海』という曲などは後半に出てくるメロディーがドビッシー的なので今度の映画には合わないんじゃないでしょうか──というくらいに突っこんだお話をなさるんです。曲のニュアンスがどうこうという点になると大変に熱心で、音楽の打ち合わせは毎回十時間くらい、えんえんとやっていましたよ(笑)」
映画ではありえなかった「音楽コンテ」
高畑勲がどんな風に「熱心」だったか。
鈴木敏夫はこう言った。
鈴木:高畑さんの説明は、いつも具体的でした。宮さん(宮﨑駿)の詩のイメージを既存の曲にあてはめると、どうなるのか。それを一曲ごとに提案しました。その曲の多くがクラシックの曲で、それをすぐさま理解する久石さんの音楽的教養が大いに役に立ちました。
田家:なるほど。
鈴木:ときには自分のライブラリーの中から選んだ珍しい曲をカセットにコピーして、久石さんに説明していました。その上で、高畑さんは楽器にもこだわりを持って久石さんの意見を聞いていました。
* * *
高畑勲と久石譲がどんなやりとりをしていたかを物語る「高畑勲の音楽コンテ」という資料がある。オープニングからエンディングまでの各場面がどんな映像でどんな動きの中でどんな台詞が語られるか、そこにどういう音楽が入るかがA3判数枚に細かい字でびっしりと書き込まれている。これも今まで公開されたことがないのだそうだ。
音楽を表す“M”は“M1”から“M49”までありそこで使われる楽器や長さまで指定されている。例えば、“M2”の「風の伝説」には“序曲 重々しいしかし伝説的な味”と書かれ“70秒弱”と指定されている。“M3”の「王蟲のテーマ」には“シュタール”“20秒前後”とある。そのコンテを元に話が進んだことは“M14”について「テーマに近い気がする」(畑)「ここではじめて王蟲のやさしさがわかるんじゃないか」(久石)という二人の書き込みが残っていた。
鈴木:絵コンテで何が大事かというと、秒数なんです。秒数が具体化されているんです。そうすると、ここで音楽がどのぐらいの秒数で必要なのか、全部出ている。「王蟲登場」にしても、同じ曲が何度か違うアレンジで出てくるんですが、そのアレンジのやり方に対しても高畑さんの提案がある。聞こえてくる音によって、曲の印象も変わりますよね。久石さんは高畑さんを尊敬していましたね。高畑さんも、さすがにここまで徹底的にやったのは「ナウシカ」だけじゃないかな。
田家:その時の音で曲も絵の印象が変わるということが本当に細かく計算されている感じですね。
鈴木:こんな作品ないですよね。日本の映画音楽としては、あり得ないんじゃないですか。
田家:「イメージアルバム」の中では「遠い日々」というタイトルだったあの♭ “ランラララランランラン”は割とすぐ決まったんですか。
鈴木:子どもの声でいいのかどうか、ダビング作業を中断して検討が始まりました。高畑さんはあわてませんでした。この作品にとってBESTは何なのかを考えぬくんです。時間は全くありませんでした。ダビング作業は全部で1週間だったと記憶しています。全スタッフが泊まり込み、といっても、ベッドがあるわけじゃない。寝たい人はその場で眠るんです。そして、シャワーももちろんない。
そんなとき、高畑さんは平然と言ってのけましたねえ。「寝ている間に決まったことには従わないといけない」。僕も若かったので、ぜんぶつき合いました。
田家:コンテの最後にエンディングのことが4案書いてあって。細野晴臣という名前がありましたね。
鈴木:これ僕の字ですね。これはね、ちゃんと覚えています。ソ連のシンガーソングライターのヴィソツキー(ビソツキー)とか、いろいろ候補がありましたね。
田家:皆さんお作りになっているのですか。
鈴木:この4つの案からどれを選ぶかという問題でした。
田家:先に頼んじゃったという時系列になるのですか。
鈴木:そうです。
田家:ですよね。いろいろ資料を見ていると、先に頼んだということなんだろうなと。
鈴木:徳間ジャパンに三浦光紀という人がいて、現場の僕らに相談しないで、細野さんにいろいろ頼んでしまった。そういうことです。
田家:あれ三浦さんが頼んでいるのですか。そうでしょうね。
鈴木:「シンボル・テーマソング」というのは、高畑さんの造語です。細野さんが作った曲を結局使わないという結論が出たので、高畑さんが考えました。宮さんも高畑案に同意しました。
宮﨑アニメには、もっと熱い曲が似合う。それが細野さんの曲を採用しなかった理由です。むろん、細野さんの高い音楽性は認めつつ、「ナウシカ」という作品の内容を優先させた。そういうことでした。
そういうことなのか、と思った。
「風の谷のナウシカ」の映画公開前に松本隆作詞、細野晴臣作曲、安田成美が歌った「シンボル・テーマソング『風の谷のナウシカ』」がシングル発売されている。映画のエンディングでクレジットはされているものの劇中では流れなかった。あれはなぜだろうと当時思った一人だ。
細野晴臣に依頼したのは徳間書店が80年に設立したジャパンレコードの責任者、三浦光紀だった。70年代初めにベルウッド・レコードの設立プロデューサーとしてははっぴいえんどや高田渡などのフォーク&ロックのアーティストを世に送り出した人物である。細野晴臣は坂本龍一・高橋幸宏と組んで世界進出を果たしたYMOを解散したばかりだった。高畑勲が求めていたのがそういう時代性ではなかったことは容易に想像がつく。
高畑勲という存在
映画を見直していて「音響監督」のクレジットはあるが「音楽監督」がないことに気づいた。
鈴木:「音響監督」は、録音監督みたいなニュアンスですね。音楽とは関係ないかな。なかなか話についていけないですからね。僕なんかがなぜできたかというと、助手に徹したからですよね。斯波(重治)さんは忙しい人だったから、それはできないですよ。だから基本的には、音楽は全部高畑さんですね。
聴く人が聴くと、当時映画音楽としては最高だったみたいですね。いろいろな人に言われましたよ。「どうしてあんな音楽ができたんですか」って。
田家:でも高畑さんがそこまで音楽に対する知識と教養、応用の仕方も含めてのイメージを持った方だということは、鈴木さんもナウシカをやって初めて知ったみたいなところがあるのですか。
鈴木:そうです。それまで映画監督だということは分かっていたけれど、そんなに音楽の造詣が深いとは知らなかったですから。そういうことで言うとね、僕がプロデューサーをやる時、その先生はやっぱり高畑さんなんですよね。高畑さんから学んだことって、いろいろあるのですが、大きいものは何かというと、要するに「何が起きても監督の味方」。これは学びましたね。それでね、「間違っていても味方」ということなんですよ(笑)。それが一つ、すごく大きかったですよね。
「ジブリと音楽」は言葉を換えれば「高畑勲と音楽」でもあるのだと思った。
彼の存在がどういうものだったか。
最新作「君たちはどう生きるか」の中の眞人は宮﨑駿で大伯父が高畑勲、青サギが鈴木敏夫だということはすでに明かされている。
今年5月に放送されたNHK プロフェッショナル 仕事の流儀「特別編 宮﨑駿と青サギと...『君たちはどう生きるか』への道」の中で宮﨑駿は高畑勲について「僕らは愛憎なかばしてますからね」と語っていた。
「ジブリと音楽」は、「音楽」を題材にした3人の物語になるのかもしれない。