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島田雅彦 ショスタコーヴィチ再考[『図書』2025年9月号より]

ショスタコーヴィチ再考

ベートーヴェンとの比較において

 

 亀山郁夫の『ショスタコーヴィチ──引き裂かれた栄光』を興奮とともに読んだ。少年時代からショスタコーヴィチを愛聴し、彼が世界で熱狂を呼び、20世紀を代表する世界的作曲家になってゆく過程を遠くから見ていた者にとって、21世紀にその音楽がどのように受容されるのかは大いに気になる。本書はショスタコーヴィチの可能性の中心をめぐる論考であるが、ここから受けた啓示を元に、いくつかの私見を述べる。

 先ずはやや強引かと思いながら、ショスタコーヴィチを20世紀のベートーヴェンと位置付けてみようと思う。

 ベートーヴェンの作品はどれも厳密な形式に基づいて作られているが、交響曲や弦楽四重奏曲に耳を傾けていると、創造的作為を随所に感じる。だから何度聴いても毎回違う発見があり、飽きない。ベートーヴェンが稀代のエンターテイナーであることは間違いない。創作とは形式との格闘にほかならない。ベートーヴェンの音楽は、かつてグレン・グールドが語ったように「一小節ごとに運命と出会っている」ので、そのダイナミックな展開は英雄の生涯のように波瀾万丈になるのである。こうした特性はショスタコーヴィチの楽曲にも当てはまる。

 ベートーヴェンは、調性の完全な運用、交響曲、弦楽四重奏曲といった器楽曲の形式の完成によって、コトバによらずに複雑なイデア、繊細な感情の表現が可能になり、聴衆の想像力をより刺激し、古典主義からロマン主義への扉を開いた、と音楽史的に位置付けられる。

 主観と客観、内容と形式、部分と全体、カオスとコスモスが常に対立的なものとして捉えられている点で「ベートーヴェンの音楽はヘーゲル哲学そのものである」とアドルノは述べているが、ベートーヴェン音楽もヘーゲルの歴史哲学も、社会や時代の変化の記録になっている。

 否定弁証法を駆使して、歴史を人類の精神の発展史として総括したヘーゲルと、ソナタ形式を拡大し、古典的な論理と美学を打ち立てると同時に、後期弦楽四重奏曲やピアノソナタなどの晩年の作品群でこれを自ら破壊し、より自由な躍動性を獲得したベートーヴェンは同い年で、ナポレオンの1歳年下だった。ナポレオンに献呈する予定だった交響曲第三番「英雄」はベートーヴェンにとっての『精神現象学』といってもいいくらいだ。

 そのヘーゲルは自身の『美学』の中で、ベートーヴェンの音楽を想起しつつ、次のように書いている。

 

  今日の劇音楽は芸術的技巧を凝らし、相反する情念を対立させつつ、一つの楽曲に盛り込み、効果を高めている。たとえば祝祭的な雰囲気に、憎悪や敵意や復讐の想念を介入させ、快楽や歓喜や舞曲の合間に激しい対立や分裂を暴発させる。こうした支離滅裂の対照は統一性を失わせ、美的調和に反し、メロディにおける一貫した内面性の表出や自己回帰を不可能にする。

 〔筆者抄訳〕

 

 面白いことに、この文言はそのまま、ショスタコーヴィチに対しても当てはまる。晩年の弦楽四重奏曲第十三番や遺作の「ヴィオラ・ソナタ」にはピアノソナタ「月光」のモチーフが繰り返し用いられていることを含めて、ベートーヴェンへのオマージュ的な要素はどの時代のショスタコーヴィチ作品にも通底しているのではないか。ベートーヴェンの場合はナポレオン、ショスタコーヴィチの場合はスターリンという、それぞれ19世紀初頭と20世紀前半を象徴する人物との深い関係性が作品に刻印されているという点でも2人はよく似ている。

 自ら作り上げた形式さえも乗り越えて、ロマン主義時代の新しい音楽技法への橋渡しまでやってのけたベートーヴェンに比肩しうる20世紀の人物がいるとすれば、ショスタコーヴィチ以外には思いつかない。

 スターリンとヒトラーの世紀はナポレオンの世紀よりもはるかに大量の殺戮が行われ、自由の欠如、残虐な暴力、秩序の破壊が罷り通った理不尽な暗黒時代である。楽曲に時代を映す鏡の役割があるなら、ショスタコーヴィチのそれはベートーヴェンよりも熾烈な葛藤の記録でなければならなかった。

 19世紀末から20世紀初頭は、西洋近代音楽が後期ロマン派から次のステップに大きく踏み出す時代だった。ワーグナーの影響を受けたブルックナー、マーラーらの後に活躍する作曲家は従来の音楽概念を拡張する様々な試みを行なった。シェーンベルクら新ウィーン楽派の3人が登場し、十二音技法、トータル・セリエリズムが現代音楽のメインストリームを形成し、同時に騒音音楽、電子音楽、偶然性の音楽などが現れた。20世紀初頭はそうした実験が果敢に行われる一方で、そのポテンシャルは比較的短期間に蕩尽された。音楽は人間の認知能力との駆け引きという側面があり、作曲者と作品を受容する聴衆との需要と供給関係が音楽の潮流を決定する。

 19世紀末の後期ロマン派が活躍した時代は、まだハプスブルク帝国が健在だった。帝国は内部に民族的、文化的多様性を抱え込んでおり、辺境の自治を容認しつつ、緩やかに諸民族を統合する支配形態を取っていた。ブルックナーやマーラーの巨大交響曲はそれ自体が帝国の縮図やメタファーのように聞こえる。だが、20世紀になると、帝国は瓦解し、それぞれの民族が自決権をもち、国民国家が生まれたことに伴い、かつての帝国の周縁から多くの作曲家が現れ、民謡と最新の音楽技法との組み合わせを通じて、「国民音楽」が生み出された。フィンランドのシベリウス、ポーランドのペンデレツキやルトスワフスキ、ハンガリーのコダーイやバルトーク、チェコのヤナーチェクらである。また国家形態と音楽手法を強引に対応させようとすれば、調性音楽は帝国や国民国家という「大きな物語」に対応し、無調音楽、十二音技法はそれからの逸脱のメタファーになるだろう。

 このような音楽の座標軸にショスタコーヴィチを配置しようとすると、どうなるか?

 彼は社会主義イデオロギー全盛の時代に作曲家デビューをしており、ソヴィエト体制の中でアーティストとしてどのような立ち位置を取るかという試行錯誤の傍ら、自身の膨大な音楽知識をフル活用する形で作曲を行なってきた。

 帝国のツァーリにあたるスターリンとショスタコーヴィチの関係は極めてスリリングだが、ソヴィエト帝国の威信を背負わされた作曲家というイメージが如実に現れてくるのは避けられない。マーラーの交響曲がそうであるように、ショスタコーヴィチの交響曲にもソヴィエト帝国の多様性が盛り込まれている。おのが音楽的探究心にのみ従って作曲してきたように聞こえるが、むしろ権力者との大きな葛藤があったからこそ、内的矛盾をそのまま楽曲に反映できたといえる。

 若い頃のショスタコーヴィチは過激なモダニストで、交響曲第一番および第二番、オペラ『鼻』には斬新な実験精神が盛り込まれており、ロシア・アヴァンギャルドのテイストに溢れている。マーラーを意識した作曲の試行錯誤は、交響曲第四番に最も顕著である。ソヴィエト体制の翼賛的プロパガンダ作品や反ナチスの戦意発揚的作品がある一方で、反体制的なメッセージ性を含む作品も数多くあり、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』では「音楽ならざる荒唐無稽」と批判され、晩年の交響曲第十四番、第十五番ではソ連では禁止されていた十二音技法を用いた。その両義性ゆえ毀誉褒貶の振幅が極めて大きかった。

 現代音楽は、自由主義世界では商業主義との葛藤、社会主義世界ではイデオロギーとの葛藤という問題に常に直面してきた。作曲家の唯我独尊の実験は常に大衆から乖離する結果になるので、古典主義、ロマン主義への回帰や通俗的、熱狂的要素が両陣営において等しく必要となった。その結果、後期ロマン派的、マーラー的なサウンドは20世紀においてもスタンダードな位置づけになった。一般聴衆の耳の保守性はマーラーを超えられないようになっているともいえるのだが、ショスタコーヴィチの音楽はそうした限界を突き抜けて、20世紀の聴衆の胸に迫ってくる。ソヴィエトにとどまらず、西側でも熱狂的に受け入れられ、生前から交響曲第五番や第七番は人気のプログラムになっていた。

 ショスタコーヴィチの作品は過去に様々に試みられてきた形式、音楽技法、オーケストレーションなどを網羅的に踏襲しているのが特徴で、それ自体が音楽史を形成している。ジャンル横断的、通史的作曲家といってもいい。ここでいうジャンルとは交響曲や弦楽四重奏曲、劇音楽といった楽曲のジャンルを意味すると同時に、ノースロップ・フライが古今の散文テキストを分類した際に提示したロマンス、小説、風刺、解剖、告白、百科全書といったジャンルのことでもある。楽曲の特徴をフライと同じように分析してみると、たとえば、ショスタコーヴィチお得意の交響曲の中のスケルツォには優れた諧謔風刺が盛り込まれている。たび重なる先輩作曲家たちへのオマージュ的な引用は、先行する楽曲の解剖でもあるわけだし、過去の手法を百科全書的にアーカイブ化していく作業も自覚的に行なっていたと思う。内省とか告白という部分に関しては、個人的な死者を悼む思いで書かれたような楽曲がそれに当たる。

 私のショスタコーヴィチと亀山氏へのオマージュは以上であるが、今後、亀山氏の論考がどのようなショスタコーヴィチ再評価を触発するか、楽しみである。

 18世紀や19世紀の作曲家は同時代の政治的コンテクストからほぼ解放された状態で鑑賞されていることを思えば、ショスタコーヴィチも純粋音楽として聴かれる余地が広がり、特に個人的な心情を反映した晩年の浄化系の作品は文化的差異を超え、ダイレクトに聴衆の耳に届く。その点から、本書でも著者の「私情」が随所に見られるが、そうした「私情」に引き寄せた鑑賞態度から、新たなショスタコーヴィチ現象が現れそうな気配が感じられる。

(しまだ まさひこ・作家)


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