〈対談〉ショスタコーヴィチの謎と仕掛け 前編
〈対談〉
ショスタコーヴィチの謎と仕掛け(前編)
亀山郁夫×吉松隆
ショスタコーヴィチとの出会い
吉松 僕が、慶應高校のワグネル・ソサィエティー・オーケストラに入ったときに、最初に演奏したのがショスタコーヴィチ5番のフィナーレ(最終楽章)で、2番ファゴットを吹きました。実は、父のレコードコレクションの中にもなぜかミトロパウロス指揮ニューヨークフィルのLPがあって、それがショスタコーヴィチとの出会いでした。一九六〇年代後半ですから、一番新しい交響曲が第13番「バビ・ヤール」だった頃です。
僕が本格的に作曲の勉強を独学で始めた六〇―七〇年代は、いわゆる現代音楽の時代で、調性がある音楽や交響曲などというのは古き悪しきものの代表。なのでショスタコーヴィチのスタンスは、「今の時代にまだこんなものを書いている」という、時代遅れの象徴というか笑いものになるようなポジションでした。
当時、作曲家が下手な素人っぽい曲を書いたとき「ラフマニノフみたい」「ショスタコーヴィチみたい」というのは最大級の侮蔑の言葉でしたから。そのぐらいショスタコーヴィチの音楽は、当時の現代音楽の状況とは乖離していて、ソヴィエト連邦という特殊な場でつくられた、隔離された音楽だから仕方ないというのが、大部分の作曲家の意見でした。
亀山 一九七五年、私が二度目にロシアに行ったその夏、ショスタコーヴィチが死去したことをホテルのテレビのニュースで知って、そのときには「ああ、死んだのか」といった程度の感じでした。まあ一種のソ連の御用作曲家、まさに笑いの対象にしかならないような音楽を時代錯誤的に書き続けていて、しかも権力を得ていた、そんな作曲家像でしか、当時は見ることができなかった。それが、ある時を境に自分自身の彼の音楽の捉え方が変わったということがあります。
それから二〇年になりますか、ソ連崩壊後の一九九四年六月、ロシアの白夜祭でショスタコーヴィチの8番の交響曲を聴いたときでした。第一楽章の例の爆発的なクライマックスの部分を聴いたとき、自分が、今まで経験していたショスタコーヴィチとは全然、違うものがそこにある、と思ったんです。その経験が今回の『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』の執筆につながりました。
ショスタコーヴィチは二重人格?
亀山 ショスタコーヴィチの場合、ものすごいと思うところと、どうしようもないと思うところ、この二つの分裂が尋常じゃないんですね。それ自体がとても文学的であるし、また若干つたない表現かもしれませんが、極めてドストエフスキー的だ、と思うところがあります。
今、私の思いとしては、ショスタコーヴィチにもう一曲オペラを書いてほしかった。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はレスコフの原作ですが、ドストエフスキー原作の『悪霊』とか、チェーホフ原作の『黒衣の僧』とかですね。
吉松 たぶんオペラを書くとしたら、必ず殺人が出てくるものをショスタコーヴィチは書きたかったと思います。自分が作曲家をやっていてしみじみ思うんですが、作曲家の性格と音楽ってあまり一致しないんですね。実際、血も見られないような気弱な性格なのに、殺人の推理小説なんかを書く人っているでしょう。作曲家もそれと同じで、二重人格的なところがある。
五〇年代末に日本の作曲家の芥川也寸志さんが、ソ連に渡って、ショスタコーヴィチとお会いして話をしたそうですが、もう五十代で、11番を書いて、レーニン賞とかスターリン賞とかもらっているから、押しも押されもしない巨匠なのに、何か周りをキョロキョロ見まわして神経質で気の弱い感じだったと言うんですよ。
一方で、5番とか7番とかの交響曲を聴くと、非常に英雄的で芯の強い、そして反体制的な根性のある人というイメージがあります。でも、芥川さんが見た限りでは、全くそういうのは感じられなかったそうです。その落差が謎ですね。
亀山 たしかに、いろいろな回想録を読んでも、本当に目をキョロキョロさせていて、小心で、気が弱いというか、そういうところがありますね。
また、書くとしたら殺人のオペラだろうと言われましたが、そもそも『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を書くというのは、ああいう何かものすごく情念的なもの、あるいはきわどいもの、そういう世界にやはり彼自身が惹かれているということでしょう。本当に臆病な子どもが怖いもの見たさで大人の世界を覗くような、ある種、屈折した想像力みたいなものを宿命的に抱えている。
吉松 しかも、新婚早々で奥さんに献呈しているんですよ、あの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を。若妻が間男と結託して旦那を殺すオペラを、結婚したての新妻に献呈するということ自体が、どういう精神構造をしているのか(笑)。
ショスタコーヴィチの「安全通行証」
亀山 うーん。たしかに、かなり異常性格的なものを感じますね。ただ、目をキョロキョロさせるという、神経症的な態度というのは、逆に言うと、彼自身のものすごい自信のあらわれでもあったのだと思いますよ。たとえば、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を書いて、「荒唐無稽」とかスターリンにガツンとやられても、おそらく内心では全然、響いてなかったと思いますね。
吉松 確かに、何かあの時代ってよくわからないところがありますね。本当に恐怖の時代だったのか、それとも自分は大丈夫、という自信が彼にあったのか。
亀山 そう、自分は大丈夫という確信は、ほかの多くの芸術家は持ち得なかったと思います。でも、あれほど臆病な作曲家のショスタコーヴィチが、逆にものすごく強烈にその確信を持っていた。つまり、「絶対、俺のことをスターリンは愛している」という、ある種の絶対的な自信みたいなものがあった。
吉松 ソロモン・ヴォルコフの「ショスタコーヴィチは、リア王についている道化みたいなものだ」という言葉を読んだとき、ああ、なるほど、と思いました。普通、リア王は偉い王様だから、ちょっと彼のことを悪く言うと首が飛ぶわけです。ところが、横に道化としてついていると王様に意見するようなことを言っても、「こいつ!」と軽く叱られることはあっても常に無事ですよね。それと同じだと。
亀山 そうです。そこがたぶんヴォルコフの論点で、つまりショスタコーヴィチというのは、帝政ロシア的な雰囲気のある権力構造の中で、いわゆるユロージヴイ(「聖痴愚」)的存在として聖域に置かれていた。「聖痴愚」については、ドストエフスキーもよく描いていますが、普通の人よりはるかに神に近い存在と見られているので、権力に対してどう盾突こうが、権力は絶対に手を付けられない。そういう安心感、まあ「安全通行証」のようなものを確信しながらショスタコーヴィチは生きていたと思います。
吉松 あとで見ると、音楽家って、意外と粛清されていないですよね。
亀山 作曲家はその点、ラッキーでしたね。やはり言葉で躓くということがなかったからだと思います。ご指摘のように、主だったほとんどの作曲家がスターリン時代を生き延びている。ただ、その中で、神経衰弱に陥ってほとんど廃人のようになってしまった作曲家もいますが。その中でもショスタコーヴィチが、いかに目をキョロキョロさせて一見、無力な風を装いながらも、全然、権力に屈することなく書き続けることができたのは、やはりそれなりに強靭な精神力を持っていたからだと思います。
吉松 やっぱり交響曲第5番で当ててから、ソヴィエト内でもそうだけど、国外のほうですごく有名になったわけでしょう?
亀山 そうです。だから、ますます手がつけられないですね。