思想の言葉:イメージを象る 澤田 直【『思想』2025年7月号】
「神なしに絶対的な意味を救い出そうとするのは空しい」
──ホルクハイマーの一文をめぐっての省察
ユルゲン・ハーバーマス/三島憲一訳
パスカルにおける希望と絶望
──アウグスティヌスとモンテーニュの間
山上浩嗣
フランクフルト学派の歴史を拡張された場に置く
マーティン・ジェイ/日暮雅夫訳
近代認識・倫理共同体・主観の自由
──ヘーゲル『精神現象学』における三つの基本課題
福吉勝男
刑事事実認定の「共同主観的存在構造」
石塚章夫
概念史,認識論的歴史,日本の近代化
──世界の近代化と前近代世界の概念体系(4):近代初期の概念・番外編「神仏習合」
彌永信美
イメージを象る
イメージとは何か、ということが目下の私の関心事である。何をいまさらと思われるかもしれない。ちまたにイメージは溢れているし、一九九〇年代のいわゆる「イコン的転回」以降、書名にイメージを冠した著作は、美術や表象の分野にとどまらず、文学、哲学、人類学など、広範な領域で刺激的な研究を多数生み出している。ただ、私がいま手探りで考えようとしているのは、各論ではなく、領域を横断して用いられるイメージの根っこの部分であり、それをここで素描してみたい。
日常語での「イメージ」は、「ある事物に関して思い描く全体的な感じ、印象」という限定的なものだが、専門的用法ではもう少し広く、心に描く心象だけでなく、外的な映像など、姿形一般を表す。元になっている英語やフランス語のimageやドイツ語のBildの意味を見てみると、さらに幅が広がり、似姿、(忠実な)再現、典型的な姿(光景)という意味のほかに、比喩表現、喩えという意味もある。きわめてレンジの広い言葉なのだ。原典では同じこの言葉が、邦訳では形象、映像、心象、画像などと訳し分けられているために、膨大なコーパス間の連関性が見えにくくなっている。
いまでこそ哲学においてもイメージ論は花盛りだが、六十年ほど前メルロ=ポンティは「イメージという語は評判が悪い」と『眼と精神』(一九六四年)で弁解ぎみの口調で言っていた。じっさい、哲学にとって「イメージ」は、中心的な主題であったどころか、軽視され、侮られていただけでなく、悪役と言ってもさしつかえのない存在だった。真理の探究において、イメージは私たちを惑わすものでしかなく、最良の場合でも、媒介者にすぎなかった。イメージはミメーシスや模倣という文脈で捉えられ、オリジナルより劣るコピーとされてきた。あるいは概念とちがって不純なものとされてきた。不可視のものを近似的な形で可視化することでしかない、ともされた。このことは、一神教が表象不可能な神を偶像化することを厳しく禁じたこととも無縁ではないだろう。とはいえ、「創世記」において神は人間を自らの「似姿」として創造したとされるように、イメージを決定的に排除することは困難だ。ジャン=リュック・ナンシーが指摘したように、世界のラテン・キリスト教化のなかでイメージが演じた役はけっして小さくないのだ。
このようなイメージの否定的捉え方は、哲学と文学が敵対関係にあったこととも関係している。逆に言えば、イメージこそが、文学と哲学を接続する蝶番的な位置にあるのだが、いまなお文学は文学で、哲学は哲学でイメージを論じることが多い。そこを架橋することで、新たな展望が見えてくるはずだ。
二〇世紀のフランスでは哲学と文学が急接近した。プルースト、ヴァレリー、シュルレアリスムは思想色の強い作品を著したが、そこでイメージが大きな役割を演じたのは偶然ではあるまい。一方、哲学で、イメージを思想の中核に据えたのがベルクソンの『物質と記憶』(一八九六年)であることはよく知られている。「物質とはわれわれにとって、イマージュの総体である」と明言するベルクソンは、事物と表象という相互補完的な二つの概念のあいだを自由自在に伸び縮みするようなものとしてイメージを考えた。それに刺激され、サルトルが『イマジネール』(一九四〇年)を書き、バタイユ、メルロ=ポンティ、フーコー、ドゥルーズなど芸術と哲学を繫ぐような考察が次々と紡ぎ出されていった。だが、このように概念史を辿るだけでは、イメージの領域横断性の豊饒さを明るみに出すには十分ではないだろう。
そのとき補助線になるのが、比喩としてのイマージュ、隠喩(メタファー)だろう。隠喩とは、あるものを別のもので捉えること、同一のものを他の仕方で表すことだが、これが単なる修辞学上の問題ではなく、認識論的、存在論的な問題構成であることは、ポール・リクールが『生きた隠喩』(一九七五年)で示したとおりだ。じっさい、多くの抽象的な言葉や表現、さらには観念や概念でさえ、その原初的な形態は、具体物の隠喩的な用法であったことは、ヘーゲルの『美学講義』に触れながら、デリダが強調するところだ。また、比喩(イメージ)が概念以上に直観的なしかたで真理を提示する力に哲学者たちも抗うことができなかったことは、プラトンその人が、「洞窟の比喩」をはじめとしてイメージを多用したことに現れている。ヘーゲルの「主人と奴隷」など、哲学者による比喩は多い。イメージを強く批判したパスカルにしても、その最も有名な言葉は、「人間は一本の葦にすぎない」なのだ。
だがそれ以上に、隠喩には、異なる物のうちに類似を発見する機能がある。それは通常の認識とはもちろん異なる。「これを見る」と「これを~と見る」は違う。前者は知覚であり、後者はイメージだ。哲学は両者を峻別するのだが、現実と見紛うばかりの精緻な複製イメージが遍在する現在、この相違は自明ではない。窓から見える外の風景と、モニターに映し出された風景の違いはどこにあるのか(この問題を画家ルネ・マグリットは時代に先駆けて提起していた)。
サルトルは『イマジネール』のなかで知覚と想像の志向性を峻別していたのみならず、われわれは現実を知覚として意識することと、イメージとして意識することは同時にはできない、とも言っていた。ところが、サルトル本人がそれを覆す例を示す。それは「もの真似芸人」の例だ。私たちが、もの真似を見る場合に、そこに真似される人だけを見ては面白くないし、真似する人だけが見えるのでは、そもそも失敗だ。その二つがオーバーラップしないと、もの真似は成立しない。このダブルイメージこそが隠喩の構造であり、イメージの本質でもある。ヴァルター・ベンヤミンは、このことを擬態と呼んだが、近年ではケンダル・ウォルトンが指摘する「ごっこ遊び」とフィクションの共通性とも繫がっている。こうして見ていくと、通常は対立すると考えられる知覚と想像、現実とイメージの懸隔は、「模倣」を中間地帯として、断絶より連続的であることが見えてくる。
視点を転じて、ここまで西洋文明の文脈で素描してきたイメージを日本語との関係でも瞥見してみよう。イメージすることをやまと言葉で言えば、「かたどる」となる。漢字で書けば「象る」となるこの言葉は、「物の形を写し取り、ある形に似せて作る」という意味と、「物事を形象化して表す、象徴する」という意味がある。
西洋風のイメージという観念が日本に入ってくるのは一九〇〇年ごろだ。ここでも『物質と記憶』が考察の補助線を提供してくれる。初版を除く六つの邦訳では、imageは「イマージュ」とフランス語がそのまま音写されているが、一九一四年刊行の高橋里美訳では「形象」と訳されていた。興味深いことに、その翌年、漱石は『道草』で「自分の新らしく移った住居については何の影像も浮かべ得なかった」という文の「影像」に「イメジ」とルビを振っている。その後もイメージという語がすぐに広まらなかったことは、宮澤賢治が『春と修羅』で「心象」と何度も記していることからもわかる。「心」という語は入っているが、内的表象だけでなく、外的な形象をも含んでいるから、この詩集は「イメージのスケッチ集」ということになろう。
私たち学者の多くは日本語で思考しながら、実際には西洋語のタームで考えている。現象といえば、phenomenon、想像力・構想力といえばimaginationやEinbildungskraftと瞬時に置き換えるというアクロバティックなことをしているため、現象という言葉のなかには「象」という漢字があることに気を留めないし、「想像」のほうには人偏のついた象がいることにも無頓着だ。日本語で哲学をしながら半分外国語で考えているのである。
だが、ふと立ち止まってこれらの術語を見てみると、不思議な光景が現れてくる。想像のほうはまだしも、現象のほうは、象(elephant)が現れる、というシュールなイメージになる。もちろん、この象という漢字のここでの意味は動物ではなくて、「かたち」「ありさま」という意味だ。しかし、なぜ「鼻の長い象」という具体的な動物と、姿形という抽象的なものが同じ漢字で表されるのか。じっさい、「象」という漢字は、古代文字を見ると、まさに鼻が長いあのゾウを象ったものだ。それが「姿」「ありさま」の意味で用いられることになった経緯については漢字事典に譲るが、興味深い挿話が老子を解説した『韓非子』の「解老篇」に出てくる。
『老子』の第一四章は、万物の存在の根源が人間の感覚や知識を超越した存在としての「道」であることを説いているが、そこに「無状之状」とならんで「無物之象」という表現がある。姿なき姿、物とは見えない象。この見えない「道」を、聖人はその痕跡によって洞察するという。韓非子は、それを解説して、「生身の象を見ることは稀だから、死んだ象の骨を手に入れて、その図を案じることで、生きている象の姿を思い浮かべる」と述べ、「だから心に想い描くものを象というのだ」と説明する。これが想像という言葉の語源であるかどうかはともかく、「象」という漢字の多義性がこのようなイメージを呼び起こすことはきわめて興味深い。
以上は視覚的なイメージだが、聴覚的なイメージで言うと、オノマトペがまさに音による現象の象りである。擬音語の場合は現実の響きを、擬態語の場合は様態を、擬情語の場合は気持ちを、音によって象る。コロコロ、ネバネバ、ウキウキといった言葉で、直観的に意思疎通できることは素晴らしい。もちろん、「粘着性」という抽象語のほうが正確だと考える人もいるだろうが、ぴたりとはまるオノマトペはイメージを伴った観念と言える。ベンヤミンは、「すべての語は―そして言語全体は―オノマトペである」というルドルフ・レオンハルトの言葉を引用しながら、擬態の問題をオノマトペに接続し、文字のみならず、言葉が誕生する以前の読解に想いを馳せた。つまり、我々は自然をなぞることで考えを始め、高度な思惟に至ったのだ。思考の根源にこのような「象り」があるとすれば、これはいま話題の「記号接地問題」に繫がっている。哲学書がしばしば読みにくいのは、オノマトペと異なり、「超越論的」といった言葉が私たちの身体にアンカーしてないからだ。だとすれば、擬音が豊かな日本語で思考するということの意味と可能性もイメージ論に接続すべきだろう。
このような広大なネットワークを渉猟して、イメージの問題を考察してみたい。これが私の目下のささやかな野心である。