「いない」と言われても僕はここに「いる」〈MOMENT JOON「日本移民日記」〉
「私は〇〇派です」の贅沢
「私は〇〇派です」「僕は△△派」と、自分が何者なのかをはっきりと言う人々を見るたびに、いつも「贅沢だな」とつい思ってしまいます。「塩ラーメン派」とか「とんこつ派」とか、「からあげ派」とか「ポテト派」とか……好きな食べ物、好きなアーティスト、好きなドラマとか趣味など、自分が消費するもので自分を定義するのは決して日本だけのことではありませんし、消費社会なら世界中どこでも同じです。「何を消費するか」で集まってコミュニティを作ったり、逆にそれが原因で笑われたり嫌われたり、酷い場合はいじめられたりすることはどの国でも毎日起こっています。しかし、「映画『ジョーカー』が好きなやつらはテロリストに同調する危ないやつら」とか、「小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が好きなやつらは全員偽物の自称フェミニストだ」など、「何を消費するか」が自分のアイデンティティになるだけではなく、悪く言えば喧嘩、よく言えば激しい社会的議論につながることが多い他の国と比べると、日本の消費文化は比較的にまあ、静かな方でしょう。
「私は〇〇です」と誰かが言うのを見て私が「贅沢だな」と思うポイントは、彼らが「何」で自分を定義しているか、ではありません。「朝食で納豆食べない派」など、自分の行動と好みに基づいて「私はこんな人です」と自分から宣言できる自由、その自由が贅沢に見えるのです。私も「うすしお派」とか「ケンドリックよりはBig K. R. I. T.派」などとたまに言ってみますが、それらは「韓国人」「外国人」という大きなカテゴリーに覆われて流されることが多いのです。
「日本人同士でも出身による偏見はあるよ」と言われるでしょう。もちろんです。しかし、その偏見のもとになっている情報量に注目してほしいです。例えば誰かが「大阪出身です」と言った時、自分が知っている大阪についての情報をもとにその人を見るのは、人間なら当たり前でしょう。「お笑いのセンスがいい」「お好み焼きが好き」「早口で声が大きい」とかの簡単なレベルのことから、地域差別につながるほどの悪い偏見まで、出身による先入観はもちろん存在します。ただし、これらの偏見は厳密に言えば、相手が「日本人」であると認識している上で「〇〇出身」という「追加分の情報」で相手を判断するものであり、つまり、そこには「日本人」という共通分母による情報が共有されています。だから別に出身地を知ったところでその人と付き合う態度が劇的に変わるわけでもありませんし、どう話せばいいかで困ることもないでしょう。桜島から来た人に会ったとしたら、もちろんいろいろ知りたくてたくさん質問するとは思いますが、だからと言ってその人とどう話せばいいか分からなくて困ることは絶対ないでしょう。「日本人」という共通分母があるからです。
日本語で喋ってるけど
一方、「韓国人」「外国人」というカテゴリーから伝わるものは追加の情報どころか、平均値にも達さないとぼしい情報に過ぎません。向こうに「韓国人」「外国人」と認識されてから話をすると、「日本人という共通分母」がなくて「こいつとどう話せばいいか分からない」と困る人をたくさん見てきました。「日本人」という共通点がなくても「人間」という共通点から話をしていくのが一番理想的ですが、それが実はそんなに簡単ではないのです。
私はボランティアで大阪府内の小学校・中学校・高校でよく授業を行うのですが、外国出身だと自分を紹介すると多くの小学生から(たまに中学生からも)「韓国にも動物はいますか?」「韓国でも自転車乗りますか?」「韓国でも果物食べますか?」など、本当に基本的な質問を受けることが多いです。それは、「人=日本人」という環境で育ってきた子どもたちからすると当たり前の好奇心で、私は笑顔で答えます。「うん、もちろんいっぱい動物いるよ」「みんな自転車乗るよ」「みんな果物大好き」と答えることで、子どもたちは「日本人ではなくても人」の可能性に気づいて、私の中に、自分たちと同じ「人間」としての共通点を見出すのでしょう。
「小学生だから」「子どもたちは何も知らないから」と安心するのは早いです。知らないのは何の問題もないですが、同じ人間だと教えてみせた後も、同じ目に遭うことが多いからです。日本で勉強する留学生たちの間では結構有名な「But we’re speaking Japanese! 日本語喋ってるんだけど」というタイトルのYouTube動画があります
白人・黒人・アジア人の五人グループが日本のレストランで「すみません」と店員に声をかけますが、テーブルに来た店員はグループの人々の顔を確認してからアジア人の女性に「ご注文の方お決まりですか」と聞きます。すると隣の白人男性が日本語で「彼女は日本語が分かんないんですよ。今日のおすすめは何ですか」と聞きますが、店員は「すみません、ちょっと英語分かんないんで」と答えてまたアジア人の女性に「ご注文の方は?」と聞きます。黒人の男性が「いや、だから彼女はアメリカ人なんやて。日本語まったく分からへんねん」と言うのも無視して、またアジア人の女性に「お連れの方たちハンバーグですかねやっぱり」と言う店員。するともう一人の白人男性が日本語で「僕らはたしかに外見と言葉のギャップがあります。でも、もう二一世紀、外見とアイデンティティは違う」と言います。しかも日本語は母語! 出身も千葉県! 日本の野球チームも大好き! と言って「お願いします。僕らの日本語を聞いてください!」と頭を下げて店員にお願いをします(完璧な日本語で!)。しかし、店員は困った顔のままアジア人の女性に最後の一言、「お飲み物の方、お決まりですか」と聞くのです。
「大げさ」「こんなこと実際にはありえない」と言い切る前に、なぜ多くの留学生がこの動画に共感したかの理由を考えてほしいです。この動画の核心である「目の前に存在しているのに無視されること」が日本ではザラにあるからです。白人である私の彼女に「見た目から日本語が話せないと思って、英語で話しかけた」まではいいとしても、日本語で答えて「日本語喋れるし」と証明した後も相手は英語で話を続けることを、いったいどう理解すればよいでしょうか。
「キャラクター」ではないといくら叫んでも
それは、相手が「日本人」じゃなくて困る部分や情報が足りなくてできた空白を「人間」というキーワードを使って理解するのではなく、「キャラクター」として理解するから起こる惨事です。二〇二〇年八月二八日、外国人記者の日本語による質問に対して茂木敏充外務大臣(当時)は英語で答弁し、その記者が「日本語でいいです」と返したことがありました。このやりとりを巡って「外相が外国人記者をバカにした/していない」とか「これは差別だ/差別じゃない」などの議論があったことを覚えていますか。私はこの事件が、まさに「人間」ではなく「キャラクター」として人を理解する行為の典型だと思います。茂木外相は英語で答弁を始める前に「英語でもよいでしょうか」など、向こうの意向も何も聞かずにいきなり英語で話し始めました。相手の見た目は白人、だからあの人は英語話者、だから英語で話す、というごくシンプルな理解だったでしょう。しかし、例えばその外国人記者が、見た目はバリバリの白人であっても全く英語が下手な人だったら、どうしますか? ハンガリー語やフィンランド語話者だったとしたら? 英語より日本語の方が理解しやすい人だったら? 全て、「英語で答えてもよいでしょうか」と、一言聞いてみるだけで防げたはずのことです。善意か悪意かの関係もありません。一つの顔しか持たない「キャラクター」として人を見ないで、傷ついたり悲しんだり怒ったりする一人の「人間」として相手を見ていたなら、何かする前に相手の気持ちを配慮して意向を聞くのが、普通じゃないですか。
もし誰かに「観ないと殺されるぞ」と脅されても絶っ対に日本語吹き替えの映画は観たくないのも、「人間ではなくキャラクター」として人を見る態度が露骨すぎて腹が立つからです。日本の声優たちが世界でトップクラスなのは周知のことですし、私も個人的に好きな声優さんが何人もいます。しかし、その素晴らしい声で吹き替えられる人物たちのセリフは、日本語ネイティブが使う日本語でも、外国人が使う日本語でもない「変な国の日本語」です。不自然で、会話としても成り立たない不思議な言語。日本語吹き替え版の作品の中で、登場人物がものすごく感情的になって吐き出す言葉をよく思い出してください。その言葉を、そんな声のトーンで、そんなリズムで話す人って、日本のどこにいますか?なぜ、生々しい「実際の日本語」を登場人物たちに与えないのですか? 人物たちの声を「変な国の日本語」に替えて観客に伝える吹き替え版の映画は、スクリーン上の非日本人の人物たちを観客と同じ「人間」として理解させるのではなく、変な世界に住んでいる「キャラクター」として理解するように誘導します。これを単純に「日本ではそもそも演技のリアリティーを追求しないから」と理解すべきでしょうか。
街で彼女と日本語で話していると、私たちを見ている人々の顔つきから「僕らを吹き替え版映画みたいな感覚で見ているのね」と、すぐ分かります。「めっちゃ寒さに強いでしょ」とか「ウォッカ好きでしょ」とか「ホッキョクグマ見たことある?」と聞かれる「ロシア人」というキャラクターも大変だと思いますが、「辛いもの好きでしょ」で終わらずに「日本が嫌いなんでしょ?」「トンスル飲んだことある?」まで聞かれる「韓国人」のキャラクターをぶつけられると、本当に体中の力が全て蒸発して無気力なマリオネットみたいになってしまいます。
私はあなたの「外人」ではない
「オッケー、皆が望む通りに「韓国人」になって踊ってやる」とつい思ってしまうのです。私だけの話ではありません。日本社会が思う「韓国人像」に自分が当てはまるという自覚すらない人も、自覚していて「これが僕だから」と堂々と生きる人も、やりたくなくても周りからその「韓国人像」を求められて仕方なく演じている人もいます。韓流だKポップだと注目されて(もしかしたら日本史上初めて)日本でいいイメージを獲得した「韓国人」というキャラクターを、いい方向に生かしている人々もいるのでしょう。ユーチューバー、ティックトッカー、韓国関係のお店や事業など分かりやすい「韓国ビジネス」だけではなく、例えば学校や職場で「韓国人だから強い」「韓国人だからカッコいい」など、自分のポジティブな部分が「韓国人」であることで強調されたり注目されたりすることは、個人の人生においてはきっとプラスだと思います。一方、その結果「やっぱり韓国は〇〇」という偏見が固まることを恐れて、「韓国人像」をうまくやりこなす人を嫌がる人もいますが、少なくとも私には彼らをジャッジする資格はありません。二〇一一年、私も「外人ラッパー」というタイトルでYouTubeに曲を上げたことがありますので。
その「外人」もそうですが、「韓国人」だけではなく「中国人」「白人」「アジア人」「黒人」「ハーフ」など、日本社会にはいわゆる「日本人」じゃない人々のための「キャラクター」が用意されていて、その中にはネガティブどころかむしろ憧れられるキャラクターもあります(白人の彼女と一緒に街を歩いてみるとすぐに分かります)。しかし、ポジティブに見えるその「キャラクター」も、所詮は「キャラクター」。諸刃の剣です。「〇〇は外国人だから自己主張がはっきりしていてカッコいい」が、「お前らの中で俺のこと上層部に言いつけたのは誰だ? 〇〇、お前だろう?」に変わるのは一瞬です。
もっと酷い例もあげてみましょう。「黒人はペニスが大きい」はアメリカの奴隷制の時代からあった、白人社会の恐怖と警戒心から生まれた偏見です。日本の男たちの下ネタの「あいつとこの前一緒に銭湯行った時に見たけど、マジで黒人サイズだった」とかに出てくる「黒人」は、その男たちにとっては憧れの対象であって、「何でそんなこと言うんだ」と聞いても「何が悪いんだ、むしろ黒人を褒める言葉じゃないか」と答えるでしょう。しかし、その偏見を強めてきた数え切れないぐらいの大量のポルノ作品と冗談の裏には、黒人を「性的に淫乱で動物みたいな存在」と描写し、白人の女性と性関係を結んだ黒人を殺したり、何の罪もない黒人を「白人の女性をレイプした」とリンチして殺してきた歴史があります。悪魔化(demonize)と英雄化(lionize)はコインの両面みたいなもので、そしてどちらも、「人間」として人を見るのではなく「キャラクター」として理解することに過ぎません。
別にキムチはそんなに好きじゃないとか、ウォッカは飲みませんし家族みんなお酒が嫌いですとか、肌は黒いけど日本語が母語ですといくら「僕らはそのキャラクターじゃありません」と叫んでも、正直切りがありません。あ、また来ました。「日本は絶対に変わらない」君です。私は決して「日本は絶対に変わらない」と言いたくありませんが、たしかに「我らは〇〇ではない」と叫び続けるだけでは足りない気がします。本当に日本を変えるためには、「我らは〇〇だ」とはっきり言わなきゃいけません。私にとってはそれが「移民」です。
「いない」と言われても移民は日本にいる
二〇一八年のある日、自分が置かれていた状況を冷静に考えた時、初めて自分は「移民」だと気づきました。それまでの私の人生は河出書房新社の『文藝』(二〇一九年秋季号)に発表した「三代 兵役、逃亡、夢」という小説に書きましたのでそちらを読んでほしいですが、過去はともかく、これからの未来を考えた時に「日本でしか生きていけないし日本で生きていきたい」という結論にたどり着きました。身につけた知識や芸が使えるのも日本、愛している人がいるのも日本、自分を分かってくれて味方になってくれる人々がいるのも日本。世界のどこにも行きたくないし行けないし行く理由もない。じゃ、これからもずっと「韓国人」「外国人」として日本で暮らすのか。バイトで「チョン」と言われて家に帰って泣いた日、「外人の女はヤリマン」と言われながらセクハラを受けた友達、「見た目が怪しい」と自分の家の前で月に何回も警察に止められるイラン人の知り合い……「外人」と呼ばれて「じゃなくて外国人」とか「韓国人」だと返しても、またその言葉に付いてくる偏見……。
その瞬間、「移民」という言葉が思い浮かびました。漢字そのままの意味は「移ってきた民」。その新しい鏡に自分と彼女、友達と様々な人々を映してみると、「外国人」「〇〇人」「留学生」では見えなかった大きな絆が見えてきました。
「移民」という言葉が英語ではどんな意味なのか、法律的にはどんな意味なのか、クソほども興味がありません。私が言う「移民」は「違う地域・文化圏から来て今ここに住んでいる人」を意味します。違う文化の間で苦しんだり、どちらの文化も自分のものにしたり、それらを融合して新しいものが作れたり、そんな全ての人が移民です。例えば田舎に生まれ育った人が上京した場合も、その文化の違いによって深くて濃い経験をするならば、その人は自分を移民と呼んでよいでしょう。
「外国人」という単語が「日本に来る前のお宅の国」を強く意識させるのに比べて、「移民」はその人が今この日本に住んでいることをはっきり示します。「外国人労働者」と比べても、「移民」は単なる労働力ではなく仕事が終わった後も日本で人生を過ごす「人間」をはっきり見せます。「〇〇人」「△△人」と、国や人種によって班分けされて見えなくなっているものの、実はものすごく共通するところのある様々なグループの経験も、「移民」を使えば一緒に語ることができます。「ハーフ」とか「ミックス」「ダブル」など、親の血統と見た目で人を定義する言葉と比べたら、「移民」「移民二世」という言葉はその人が育った文化や環境のニュアンスをより的確に伝えることができます。国籍で人を定義する言葉でもないので、日本国籍を持っている人なら「移民で日本国民」と言うこともできます。そして何より、日本ではまだそこまで使われていない言葉だからこそ、われわれの手でその意味を作っていけるのが「移民」です。国が決めてくれた条件で成り立つのではなく、「私の人生はこうでした」という経験の上で自分から宣言できる言葉が、私が思う「移民」です。
もちろん一番理想的なのは「移民」という言葉も必要ない日本でしょうが、その日が来るまで、私は「キャラクター」ではなく「移民」として日本で生きていきます。入国管理局から「日本に移民はいません」と言われても、ネット上で「移民って何だよ? アメリカの話?」と言われても、私を含めた誰かが「私は移民です」と言う瞬間、日本に移民はいます。日本の様々なところで、移民はすでにあなたと共に生きています。「キャラクター」を演じて日本社会の助演俳優・エキストラ・お客さんとして生きるのではなく、主体として日本を生きている人々が。これから移民である私が見てきた日本の様々な姿と人々、そしてそれから生まれる新しいものについて書いていくつもりです。どうか、付き合ってくださいませんか。