第9回 「Bitch」・「チョン」・Nワード、そしてヒップホップ〈金 範俊/Moment Joon 外人放浪記〉
さようなら、私の研究
2010年から、私は阪大生でした。阪大は日本に来るきっかけだったし、日本での自分のホームベースで、先輩や友達、先生たちや彼女に会わせてくれた場所です。授業料免除やその他の恩恵で私を育ててくれ、私の知的好奇心を、人に価値のある何かに変換するよう導いてくれた場所。そんな阪大を、この3月をもって修了します。
2021年から続けてきた自分の研究も、ここで一旦置くことにしました。差別用語とヒップホップの関係を探って、自分の創作、そして日本のヒップホップの現在と未来を見つめ、想像してきた日々。力不足で修了までに博士論文という形には仕上げられなかったですが、後悔はありません。
4月からは阪大生ではなく、また研究者でもなく、今までとは違う形で日本で生きていきます。ただ博論は出せなかったにしても、何かの形でこれまでの研究を少しでも人と共有することが、こんな私を育んでくれた阪大への恩返しだと思って、ここに書くことにしました。世の中のあらゆる差別、また言葉による表現に興味を持っている方々、そしてヒップホップとラップを愛している全ての方に、この文章を捧げます。
注意書き
1. これは学術的な論文ではありません。査読などの検証を経ておらず、私の意見と価値判断に塗れていることを心がけてお読みになってください。
2. 出来るだけ頑張ってみますけど、先行研究の内容をお読みではない方にはどうしても不親切な文章になると思います。私の前作『日本移民日記』の第5章と第6章に、修士までの研究内容が書かれていますので、より深読みしたい方は是非お読みください。
もう一度、ラップと差別用語を考える:Nワード
職場である人たちから「チョン」と呼ばれた経験以来、差別用語というテーマは私の頭の隅っこに居座っていました。ある日、自分の曲の歌詞でも「チョン」という言葉を書いてしまった私。おそらく私は、自分のその決定を理解するために、差別用語とヒップホップの関係について考え始めたと思います。
修士論文までの研究では、アメリカと日本のヒップホップにおける差別用語の使用、例えば Nワードや「外人」「チョン」などの用例を分析しました。
その分析をする際に特に重要となるのが「言葉の意味の取り戻し(reappropriation)」という概念です。「appropriate」とは「何かを、ある目的のために当てる」という意味なので、「reappropriate」とは「何かを、本来の目的ではない他の目的のために新たに当てる」と理解できます。では、「差別用語」を「reappropriate」するとはどういうことでしょう。
その代表的な例として、アメリカの黒人が、自らを Nワードで呼ぶことがあります。奴隷制の時代から続くアメリカ社会の黒人差別の歴史の中で、黒人の尊厳、場合によって命を奪う時にすら、Nワードは武器として使われてきました。その歴史の闇があまりに深いため、今やアメリカ社会ではNワードの綴りをそのまま書いたり、発話するだけでも物議を醸すほど、タブー視されています。
そんな言葉を、アメリカの黒人たちは自らを呼ぶ際に、そして黒人同士で呼び合う際に使ってきました。「自分を侮辱する言葉を自ら自分に使う」ということがうまく理解できない人は、以下のシチュエーションを想像してみてください。クラスで周りからずっと「バカ」と言われて嫌な思いをしてきた子が、ある日「そう、僕はバカだぜ。だから何?」とその言葉を自ら使い、堂々とした態度で皆に立ち向かうことです。
アメリカの黒人社会は、まさにこのような意図で 自分たちに対してNワードを使ってきました。従来の差別的な意味合いを受け入れるのではなく、堂々とした態度と自信、そして同胞への愛と信頼を込めて自分自身や他の黒人をNワードで呼んできたのです。その結果、Nワードは黒人社会の中では従来の差別的な意味を失い、黒人同士の親密感や連帯、アイデンティティを表すという新たな意味を持ち始めました。元々自分たちを傷つけるために使われていた言葉を、自分たちのアイデンティティを表す言葉に変換した黒人社会におけるNワードの使用は、差別用語を「reappropriate」した代表的な事例で、私が「reappropriate」を「言葉の意味の取り戻し」と訳す理由です。
黒人音楽として始まり、黒人社会の言語や習慣を生々しく反映してきたヒップホップでも、このようなNワードの使用による意味の取り戻しの事例がたくさん、たくさん見られます。「金持ち・強い・ボス」といった成功を表すイメージや文脈と共に Nワードを使う歌詞などは、Nワードが本来表していた「貧乏・頭が悪い・怠慢」などという黒人に対する歴史的な差別のイメージを真正面からひっくり返します。これは「力の逆転」による差別用語の意味の取り戻しの例です。
同時に「あいつは俺の Nワード」というように、親しみと信頼を込めて他人をNワードで呼ぶ事例も数多く見られます。そして、従来のネガティブな意味を転覆するという意図もなければ、ポジティブな意味を付与するのでもない、価値中立的な「呼び名」としてNワードを使う場合も、たくさん見られます。
もう一度、ラップと差別用語を考える:日本のヒップホップの差別用語
アメリカから太平洋を渡って日本に目を向けると、日本のヒップホップでも差別用語を使用する楽曲がある程度見られます。
なかでも「Jap」という言葉が日本のヒップホップで使われるケースは、大変興味深かったです。言うまでもなく「Jap」は、英語圏における、日本人・日系アメリカ人に向けられた差別用語です。アメリカで活動する日系アメリカ人のアーティストが「Jap」を使うのであれば、Nワードと同じく差別用語の意味の取り戻しが起きているとみなせると思いますが、その言葉による差別を直接経験することのないであろう、日本生まれ、日本育ちのラッパーが、自らを「Jap」で呼ぶことは何を意味するのでしょうか。
日本のアーティストがNワードを使う事例も興味深いです。アメリカ出身の黒人で日本に移住して音楽活動をしている人や、アメリカの黒人のルーツを持って日本で生まれ育った人、アメリカではなく他国にルーツを持って日本で生活している黒人、日本に生まれ育ったけど黒人でも大和民族でもない人、日本生まれ、日本育ちの大和民族でアメリカ滞在経験がある人、日本に生まれ育った大和民族であり、アメリカ滞在経験もない人まで、様々な出自の人が楽曲で Nワードを使っています。各々の事例において、使用者とNワードの距離・関係がバラバラであるのは、言うまでもありません。
「チョン」「外人」など、日本社会における差別用語を使って、差別の経験を描写した楽曲ももちろんあります。最近で言いますと私の一推しのラッパー、Fisongの歌詞に「俺は過去に殺されたチョンの亡霊」(Moment Joon - We Don’t Trust Remix ft. Fisong, SiX FXXT UNDXR & Worldwide Skippa)とあるのがその好例でしょう。単純に差別を描写するだけじゃなく、「意味わからんなんでこの外人。付けてる物が全部真っ金」(Playsson - Gaijin, 2020)と歌ったPlayssonの歌詞には、社会的なアウトサイダーである「外人」に「成功」のイメージを付与する、力の逆転による意味の取り戻しの試みも見られます。
しかし、日本のヒップホップにおける「チョン」「外人」の使用には、被差別者が自らをその言葉で呼ぶことはあっても、同じ出自を持った他人をその言葉で呼ぶ事例はほぼ見られません。アメリカのヒップホップでは黒人アーティストが他の黒人を Nワードで呼ぶ事例が無数にありますが、それに比べて、日本でそういった使い方が見られないのは何を意味するのでしょう。
今こそ、ラップと「Bitch」を考える
修士論文ではこれらの言葉の分析をもとに考察を行ったのですが、実はそれが不十分であることは、論文を書き始める前から分かっていました。なぜなら、ヒップホップにおいてNワードと共に最も頻繁に使われる差別用語、「Bitch」の事例を取り扱わなかったからです。今回の連載では、何度も道に迷いながら、博士課程で「Bitch」について考察して分かったことを、皆さんに共有したいです。
Merriam Websterによると「Bitch」は、「犬のメス」を示す言葉として、12世紀の英語に初めて使用例が確認されます。それが女性に対する差別・軽蔑的な意味で使われたのは15世紀からだそうです。「文句を言う(complain)」という意味での「Bitch」の動詞的使用は1675年には確認でき、これは現代の英語でも——もちろん低俗な表現ですが——よく使われています。これら以外にも、「女々しい」「欲張り」「うるさい」「臆病」、また「性的に紊乱」「よく妬む」など、本当に多様な、しかしどれも否定的な意味を持ったのが「Bitch」という言葉だと言えるでしょう。
このように差別的な意味を持つ「Bitch」は、ヒップホップではどう使われているのでしょう。Nワードのようにポジティブなイメージ・文脈を付与して「力の逆転」を図る使い方も、たくさん見られます。女性アーティストが自らを「Boss Bitch」「Queen Bitch」「Rich Bitch」と呼ぶ事例は無数にあります。しかし、この「力の逆転」をすなわち「意味の取り戻し」だと見なすのはまだ早いです。理由は後で説明します。
「Bitch」という言葉の謎
ヒップホップにおいて「Bitch」という言葉が他の差別用語と最も違う所は、本来の差別的な意味で「Bitch」を使う事例が、楽曲から無限に見られる点です。交換・購入可能な財貨のように女性を扱う「I got bitches」「I get bitches」のような表現、性的に紊乱な女性を蔑む「bitch」、「女々しい 1」「うるさい」などを表す「bitch(名詞および動詞)」、ストレートに女性の価値を蔑む「bitches ain’t shit」など、ヒップホップの歌詞には、他人の価値を蔑んで傷つける目的での「Bitch」が、様々な用法で登場します。
このように本来の差別的な意味で使われることは、例えば Nワードにおいては到底ありえないことです。白人や非黒人のアーティストが、楽曲で黒人に対して、奴隷制の時代から形成されてきた差別意識と偏見をまるまるぶつけるために Nワードを使うなんて、まず想像できないことですよね。楽曲の外でもそうですが、もしこのようなNワードの使用があれば、必ず大きな反発と制裁に直面するでしょうから。では Nワードと違って「Bitch」はなぜこのような本来の差別的な使い方が「許されている」のか。これに関して私の編集者からは「人種差別より女性差別の方がより許されているからでは」という意見をもらいましたが、実はそんなに簡単なことではない気がしてくるのです。
なぜなら、「男性」だけではなく多くの「女性」も差別的な意味合いで「Bitch」を使うからです。例えばDoja Catの楽曲「Boss Bitch」(上記YouTubeリンク)は、サビで「Boss」と「Bitch」を合わせた言葉で自分を称し、「力の逆転」を表現していますが、同時に歌詞の他の箇所では「Said bitch, I’m the after, you’ve been the before(おいビッチ、私は未来、君は過去)」と、「Bitch」を使って誰かを蔑んでいます。
これに対して「矛盾しているんじゃないか」と思う方もいるでしょう。だって「Bitch」に込められた差別的な意味を積極的に用いて他人を蔑む人が、自分自身を指す時にはその差別的な意味に抵抗して「力の逆転」を図るなんて、おかしくありませんか?
他の差別用語にはなかなか見られない「Bitch」だけが持つこのような特性は、実は「Bitch」が指す対象の範囲が流動的に変わることから生まれています。「Bitch」は必ずしも「生物学的な女性」だけを指すのではなく、例えば相手が男であっても「女々しい」「臆病」「お喋り」などの意味で蔑みたい時には、「あいつはビッチだ」というように使われています。ざっくり言えば、「Bitch」とは「Bitchらしいことをする人 2」を指します。つまり、「Bitch」の本当のターゲットは「女性」ではなく、「男性性の不在」なのです。
「Bitch」が攻撃するターゲットが「男性性の不在」であるということは、言い換えればある人が「どのぐらい男性性をパフォーマンスできるか」によってBitchの対象となるかどうかが変わるということでもあります。いや、むしろヒップホップでは、誰かを「Bitch」と呼んで蔑むこと自体が、自分はその人と違って「Bitch」ではないことを強調することとなって、自分の男らしさをアピールする一つの典型になってきているのでしょう。
以上のことを総合して考えると、男性アーティストだけではなく女性アーティストも「Bitch」を差別的な意味合いで使うのは、彼女たちが「男性性をパフォーマンスする」からだと理解できるでしょう。浅い知識で語るのはおこがましいですが、男装や宝塚歌劇などに見られるように、女性が(強い)男性性をパフォーマンスすることは、男性優位の社会で生きている女性にとっては、きっと意味と価値があることでしょう。従来「強い男性像」が強調されてきた、男性優位の文化であるヒップホップにおいても、「女性アーティストでも“男性性”を見せられる」ことや、更にその「男性性」のパフォーマンスを通じて女性アーティストが成功することは、それをパフォーマンスする本人にとっても、オーディエンスの女性にとっても、きっと貴重な経験なのでしょう。カニエ・ウエストの楽曲『Monster』(2010)で、Nicki Minajが披露した「ヒップホップ史上最もヤバくて衝撃的」とも言われるバースで、Nickiは「Pull up in the monster, automobile gangsta(モンスターのような車に乗ってきたギャングスタの登場だぜ)」と歌っていますが、このように女性が強い男性性を体現することには確かにカタルシスとスリルがありますよね。同時に女性でありながら他人を 3「女々しいやつ」と「Bitch」と呼んで蔑むのも、正にこのような男性性のパフォーマンスです。
「Bitch」という言葉の意味は、取り戻せるのか
さて、男性でも「Bitch」と呼ばれうることや、女性アーティストが男性性をパフォーマンスする際に「Bitch」を使うなど、他の差別用語とは違う「Bitch」の謎は、その対象範囲が流動的に変わることから来ていると論じました。それによって生まれる、もう一つの特徴があります。差別的な意味合いで「Bitch」が使われることに対して、オーディエンスや社会からの大きな反発や制裁が見られないことです。
「Bitch」が指し示す範囲は性別や人種といった比較的「確固たる」基準で決まっておらず、人の態度や行動によって流動的に変わるため、男性優位の社会を生きる多くの人は、「Bitch」という言葉が表す差別と闘うより、その言葉が表すものの範囲に入らないように、「Bitch」にならないように振る舞う選択肢を選べるのでしょう 4。他人を「Bitch」と呼ぶことで自分は「Bitch」ではないと強調するのは、ヒップホップでもよく見られるパターンです。
そしてこのような大きな反発・制裁の不在は、「力の逆転」的な「Bitch」の使用を更に複雑にしています。Nワードの「力の逆転」の場合は、外集団(非黒人)が Nワードを差別的に使うことに強い反発と制裁があり、本来の差別的な意味の再生産を阻止することを前提としています。その上で、歴史的に差別的な意味を持っていた Nワードにポジティブな意味合いを付与して「力の逆転」を成し遂げ、最終的に「言葉の意味の取り戻し」を試みる。これによってNワードという言葉が表すような、歴史的な黒人差別に抵抗することになるのです。
しかし「Boss Bitch」のように「力の逆転」の意図で「Bitch」が使われていても、一方で本来の差別的な意味合いは相変わらず再生産されており、場合によっては「Boss Bitch」といった言葉を使う女性アーティスト本人たちも、その再生産に参加しています。従来の差別的な意味合いと断絶することなく、「Bitchであるにもかかわらずリッチ/クイーン/ギャングスター」であると「力の逆転」が行われる場合、それは言葉の意味の取り戻しに繋がるのでしょうか。
いや、いや。ちょっと待ってください。言葉の意味の取り戻しになっていないから「Bitch」は悪いという、そんな簡単な話がしたいわけではありません。そもそも「Bitch」という言葉が表す「男性性の不在」って、悪いことなんでしょうか。誰かが「強い男性」と違って「弱いBitch」だと呼ばれる時、その「弱さ」って悪いことなんですか?「ストイックな男性」と「感情的すぎるBitch」が対比される時、その「感情的」なことは悪いことでしょうか? 誰かが「淫乱なBitch」と呼ばれる時もありますが 5、「性的に自由」なことは悪いのでしょうか? そもそもこれらの属性って、否定したり、いわゆる「ポジティブ」な意味合いに塗り替える必要は、あるんですか? こうした属性を「悪い」と決めつけてそれを「Bitch」と呼ぶ、ミソジニーに満ちた世の中が悪いんじゃないんですか?
白黒じゃない、グレーとFuckするヒップホップ・フェミニズム
でも「世の中が悪い」と叫んだからって、すぐにミソジニーや男性優位の社会がなくなるわけではありません。われわれは相変わらず「男性性」という土台の上に築かれた社会の中で生きていくしかないのです。「男性性はよい」と感じている人たちの価値観や、その男性性が与えられるアドバンテージ、または男性性の不在が与えるペナルティと差別も、決してすぐになくなるわけではありませんよね。
そして何より「世の中が悪い」と叫ぶわれわれの感覚自体や価値観すら、「男性性」から自由ではありません。男性性が「必然的によいもの」である理由はないと知っていても、壊れた世界で生まれ育ってまた壊れている私たちは、ラッパーが銃声の口真似をすれば、自分も真似してしまうし、(男女問わず)あるラッパーがカッコいい時には「マジギャングスターやん」などと言ってしまうのですね。ある女性に対して劣等感・優越感を感じる時に、それが純粋にその「人」に対する感情なのか、「女性」という性別に対する感情なのか自分でも分からないですし、コンビニや書店に置かれているグラビア雑誌にはどうしても目が留まってしまうなど、女性の性を商品として消費してしまうことも相変わらずです。
男性だけではもちろんありません。女性であってもクィアであっても、この壊れた世界を生きる全ての人は、どこか矛盾していてどこか壊れているのでしょう。自分のことを「Queen Bitch」と呼んだあとにまた誰かを「Bitch」と呼んで蔑む人も、「Bitch」なんて言葉は誰も使うなという人も、他の女性やクィア・コミュニティの一員に親密感と連帯を表すために「Bitch」を使う人も。自分で価値判断を下してはいけない「論文」では、これまでの差別用語の使用を分析した上で「うん、たまには矛盾してたりいろいろ複雑ですね」と言えば結論になるでしょうが、エッセイとしてこれを読む皆さんには、是非紹介したいことがあります。
長年、文学界・学術界の両方でヒップホップとフェミニズムについて論じてきた作家 Joan Morganは、その記念碑的な著作『When Chickenheads Come Home to Roost: A Hip-Hop Feminist Breaks It Down』(1999)において、自らの個人史をもとにヒップホップとフェミニズムについて省察しています。Morganは若い時にヒップホップに出会った時のワクワク感とヒップホップへの愛を絶やさず、しかしヒップホップのミソジニーにはうんざりし、また主流派のフェミニストからはヒップホップを聴いていることから「じゃあなたは本当のフェミニストじゃないんだよ」と言われてきた経験について語っています。ヒップホップとフェミニズムの狭間で生きてきた彼女は、本書で「ヒップホップ・フェミニズム」を初めて提唱しました。
現代のフェミニズムの中に存在する諸問題を幅広く考察するMorganは、白人・中産階級・アカデミックな背景を中心とした主流派のフェミニズムだけでなく、フェミニズムの中の様々な声を同時に並べて置くことからこそ、真実が見いだせると主張しています。Morganが提唱したヒップホップ・フェミニズムは、白か黒かではない「グレー」と関わることができるフェミニズム、原文をそのまま訳せば「グレーと fuckする勇気を持ったフェミニズム(a feminism brave enough to fuck with the grays)」です。Morganは国際的な視点を持って行動を起こしながらも、同時に矛盾した存在としての「自分」を肯定して生きることを女性に呼びかけます。自己愛と主体性を歌いながら差別と戦う一方で、差別意識を内面化し、男性優位の世界を生きぬく中でたまにはそれに順応するなどのチョイスを下し、頭ではよくないと分かっていてもどうしても反応してしまう体の感覚を持つなど、われわれは矛盾するグレーの固まりなのです。そういった矛盾するわれわれ、その中でも女性やクィアが、そのような矛盾を抱えながらもヒップホップの中で生き、それでも尊厳や来るべき変化について話し続けられること。それがヒップホップ・フェミニズムです。
欲望と差別用語、そしてラップ。さようなら
「Bitch」の事例を分析することで、私はヒップホップにおいて「欲望されること(desirability)」とは何なのかを考えるチャンスを得られました。ヒップホップにおいて欲望されるのは、単純に「女・車・お金」などといった「手に入る」ものや、「強さ・ギャングスター・地位」など「男性性」とよく一緒にされるものだけではありません。ある時には誰かを「淫乱」だと蔑む理由になる「性的な魅力」が欲望されますし、ある時にはあるグループの一員であるという帰属意識や連帯感が欲望されます。そして「差別を受けている」ということがもたらすリアルさや象徴性が欲望されることもあり、その結果「差別用語を使う」こと自体が欲望されることになるのです。
日本のヒップホップの楽曲で「Jap」が使われた事例があることや、または黒人の出自を持たない人が Nワードを使う事例の多くも、その「欲望」の概念で説明できるのではないでしょうか。自分とは関係が薄くても、その言葉を使うことで「本当のヒップホップに近づきたい」という欲望、またはそれを使うことで期待される注目・利益・プロップス(尊敬)などへの欲望。
私が自分の曲の歌詞に「チョン」という言葉を書いてきたことについても、やはり「欲望」というキーワードで考えるようになりました。差別を描写するとは何なのか、それで自分は何を望んでいたのか。気持ちが解消されること? 人にショックを与えることと、それがもたらす快感? 自分の気持ちを分かってもらいたいという気持ち? あるいは単純に「チョン」を使うことで話題になったり、それによって注目を集めること? もしそういった「世俗的」な理由が絡んでくるなら、「純粋なはずだった」自分の意図というものは汚れるのか? 私は何を欲望して「チョン」を歌詞に入れ、またリスナーは何を欲望しながらその曲を聴くのでしょう。その答えは多分「差別と闘うため」や「お金がほしいから」、「Momentを応援したいから」や「差別というリアルさをエンタメとして消費したいから」の白か黒かではなく、色んなものが混ざって、自分でもキレイに切り離して説明することの出来ない「グレー」にあると思います。「グレー」だから全てを許す、何でもオッケーという訳ではもちろんありません。明らかに人に害を与えることも、明らかではないが問題点を含むことも、もちろんあるのでしょう。それらについて考えるのをやめるとか(場合によっては闘う)ことをやめるということではありません。ただし、白黒の理屈で人を「ジャッジ」する前に、そのグレーを通して人を「理解」すること、私はそこから始めたいです。
それが、私がこのテーマを最終的に論文に仕上げられなかった理由でもあります。私にとってマイノリティ性や差別の構造と経験、そしてそれをヒップホップでどのように表現していくかは、たんなる分析対象だけではなく、自分ごとでもあります。自分の行動や選択を、どこまで分析して理解すべきなのか。いや、その分析や理解よりも、何かを作り出して行動を起こしていくことこそが、アーティストとしての本分ではないだろうか。そう、阪大に通いながら16年間「留学生」として生きてきた私は、これでやっと「勉強をする」学生ではなく、何かを生み出す「アーティスト」であることを優先すると決めたのです。どうしても理屈で物事を考えがちなタイプなので、今後もこのような「分析」的な思考はおそらく止められないと思いますが、それでも重要なのは、自分の人生や、自分の抱える矛盾を解体して理解するのではなくて、その全てを両腕で抱きしめて、何かを生み出すこと。Nワード、「Bitch/ビッチ」、そして「チョン」を手にして彷徨ってきた大学院7年よ、さようなら。私は、これからは素手で彷徨っていきます。
1. 日本語でも「女」の字でこの概念を表現する理由を是非考えてほしいです。
2. Nワードを含む他の差別用語に全くこのような使い方がないとは言えません。物議をかもすことで一時期有名だったハリウッド俳優のチャーリー・シーンが、白人である元妻に残したボイスメールで彼女を Nワードで呼んだ事例から、必ずしも黒人を対象にしなくても「Nワードみたいなやつ」という意味合いで使う場合もあるかなと。しかしそのような例はごく稀で、「Bitch」の事例ほどポップカルチャーやポピュラー音楽で頻繁に見られるとは言えません。
3. その「他人」の範囲がまた女性だけに限らないことに注目してほしいです。
4. 「Bitch」が差別的な意味合いで使われることに対する反発が、ヒップホップの中に存在しなかった訳ではありません。Queen Latifah が『U.N.I.T.Y.』(1993)という曲で「Who you calling a bitch?」や「You ain't a bitch or a ho」など「Bitch」の使用に真正面から挑戦したことや、90年代に公民権運動家の C. Delores Tucker がヒップホップの「Bitch」「Hoe」などの言葉の使用に強く反発して反対運動を展開したこともありました。しかし2020年代の現在「Bitch」の使用に対する統一した反発や制裁は、特に非黒人の Nワードの使用と比べると明らかに存在感が薄いと言えるでしょう。
5. 日本語でも既に「淫乱」て言葉に価値判断が入っていますが。




