本間龍「今回の五輪の遺産(レガシー)とは」
ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない。
これは使い古されたともいえる、ジョージ・オーウェルの言葉とされている(オーウェルの言葉ではないとの指摘もある)、あまりにも有名な言葉だ。だが東京五輪における報道を考える時、これほど現在のメディア状況を言い当てている言葉はないだろう。
開催まで1カ月を切った今でも、東京五輪は有観客なのか無観客なのか、はたまた中止なのか定まっていない。政府分科会の尾身会長が国会で「普通ならこんな時期にはやらない」と言い放ち、ほとんどの医療関係者が中止または無観客を提言しているのに、中止はおろか観客を入れようとしているのだから、もはや狂気としか言いようがない。
ここまで政府や五輪組織委が民意を無視して暴走できるのは、批判する側のメディアの力が、著しく弱いからだ。それもそのはず、大手メディアはあろうことか、自ら五輪のスポンサーとなり、積極的に翼賛報道に加担してきたのである。
五輪にまつわる諸悪の根源は、全国紙全紙(朝日・毎日・読売・日経・産経)が東京五輪のスポンサーになったことである。スポンサーになるとは、その対象に全面的に賛同し協賛することであり、広告収入等で必ず儲けられるという打算があったのだ。もちろんそうなれば、批判的報道ができなくなることは分かりきっていた。だが彼らはそれを承知で儲けを優先し、真実を報道する義務を捨てたのだ。
実は、報道を旨とする団体が五輪スポンサーになったことは、五輪の歴史上、過去一度もない。それが日本では、全国紙全てがスポンサーになっているのだから、驚愕である。そして新聞社がスポンサーになったことは、その各社とクロスオーナーシップで結ばれた民放テレビキー局にも大きな影響を与えた。五輪のデメリットを忖度なく批判すべき報道機関が消滅し、翼賛報道に躍起となったのだ。「報道の顔をした広報」が、恐るべき規模で展開されたのである。
最近でこそようやく、政府の姿勢に批判的な報道は増えた。だがそれでも、「中止」の主張はほとんどない。大手では朝日新聞社が社説で中止を要請したが、それでもスポンサーにとどまっているから、迫力が無い。他社に至っては、中止を主張した社は皆無である。これは、3.11以前の、メディアが原発に対して無批判だった状況に酷似している。この「報道の自殺」こそは、五輪の「負の遺産(レガシー)」として、永遠に語り継いでいかなければならない。
注)冒頭の一文について、オーウェルの言葉ではないのではとのご指摘をいただき、公開時の原稿に修正を加えました。(2021年7月14日)
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)