尾 松 亮 「『復興』をやめる」痛み
それで、世の中では「もう帰ってきてください」「もう住んでいますよ」とか、「再開しましたよ」といった明るいニュースが流れています。けれども、あぁ、私たちの村には復興っていうのはないだろうなって、そう思ったのが去年の秋です。
(熊坂義裕『駆けて来た手紙』より。福島の自家焙煎珈琲「椏久里」を営む市澤美由紀さんの言葉)
飯舘村で珈琲店を営んできた女性・市澤美由紀さん。原発事故後、避難生活を送る福島市で同じ名前の珈琲店を開いた。
福島市の珈琲店は、県内の各地から避難してきた人々が「生きてたの?」と泣きながら再会する場となった。「○〇ちゃんも津波で亡くなった」「うちも……」と語る人たち。自分だけ避難して飼っていた牛を見殺しにしてしまった話。泣きながらそんな話をする人でいっぱいだった。そんな話を取材したいと押しかけてくるマスコミに対し、市澤さんは「ちょっとやめてください」と押し返してきた。
話しても仕方がない。どうせ励まされたり、同情されたり、定型のストーリーにあてはめられるだけ。言葉を発することへのあきらめを抱えた客たちに、珈琲店は「何を話してもいい」場をつくろうとしてきた。
市澤さんの話を聞いたのは、『駆けて来た手紙』という書籍に収録された座談会の場。息をつく間もなく、言葉が次から次へと紡ぎだされていく。その言葉の流れは、立ち止まることも許されないまま生き抜いてきた「原発事故後の時間」を早送りで見せるようだった。
「あぁ、私たちの村には復興っていうのはないだろうなって」
この言葉がすとんと落ちるように訪れたのは「去年の秋」という。
2019年の秋のこと。原発事故から8年以上が過ぎている。
「どういうふうに飯舘がなれば『復興』だと思いますか」
フランスからの訪問者に聞かれた。それまであまり考えたことがなかったことに気づいたという。
住民票は飯舘村民。村の珈琲店は休業しても閉めていない。
帰らないと決めたわけではない。
「どうして村で珈琲店を再開しないのか」という問いかけには、答えられず、自分を責めもし、苦しんできた。
ジャーナリストや研究者たちは「復興政策の欺瞞」を暴いたり、「復興は住民の意思を尊重していない」と批判したり、そういうことを言ってきた。僕も大きなくくりでは、その一人だろう。チェルノブイリ原発事故で運命を狂わされたロシアやウクライナの被災地の人々は「復興」という言葉を使わない。かの地には「復興」という言葉自体がない。「回復できっこない」被害があることを認め合い、無理に前向きな「立ち直り」を求めない人々の言葉には、今の日本にはない「ゆるやかさ」や「やさしさ」があるようにも思えた。そして問うてきた。なんで僕たちはこれだけのことがあったのに「復興」を語ってきたのだろう……と。
「けれども、あぁ、私たちの村には復興っていうのはないだろうなって」
そこにあるはずの腕がずっと昔にもがれていることを、触れて確認したように。
「けれども、あぁ」に、思い知らされる。
「復興政策」を批判しても、復興ということばに漠然と託してきたものがある。
それを託すのをやめること。それにはそれぞれの時間が必要で、その人にしかわからない痛みがある。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)