益 田 肇 10年後の光景
高台移転のために、山を住宅地に変える。ここで削られた土砂が平野部に運ばれ、かさ上げがなされる。2015年あたりで震災を思いおこさせるモノはほとんど消え、被災地では、かさ上げ、高台移転、防潮堤の復興工事三兄弟が主役になった。災害を撮っているうちに、いつもの日本を撮ることになっていた。
(稲宮康人『大震災に始まる風景──東北の10年を撮り続けて、思うこと』編集グループSURE)
そのニュースを目にしたのは2011年3月11日午前2時前ごろのことだったと思う。当時、コーネル大学の大学院生だった私は、たいてい深夜12時ごろまで図書館にいたから、あの瞬間といえば、ちょうど自宅に帰って、そろそろ寝ようかとしている頃だった。もちろん最初の速報だけで詳しいことは何も分からない。ただ、巨大な地震が東北沖で起きたらしい、というぐらいだった。
翌朝のニュースに呆然とした。目を疑う、というか、まるで爆撃を受けたあとの光景を見るかのようだった。それから数日間、何をしても手につかず、ニュースばかりみていた。何度もニュースサイトを閉じようとした。本を開いてみた。集めた史料を整理しようとしてみた。論文の続きを書こうとしてみた。実際、その論文の締め切りは翌週に迫っていた。すぐにでも書き上げるべきものだった。だから集中しようとした。でも30分も持たなかった。気がつくとすぐにニュースを見たり、googleマップを開いたりしていた。訪れたことのある場所がニュースに出るたびに、胸騒ぎがした。
学生時代に自転車で旅した釜石、大船渡、陸前高田の人たちはどうしているのだろう。陸前高田ユースホステルなどは海辺に面した立地が売りだったのに今ごろどうなったのだろう──。新聞社に勤務していた頃には、青森で3年半を過ごしていた。六ヶ所村の原子力関連施設の取材に行ったこともあれば、2000年10月には単身ドイツに取材に出かけ、15回にわたる「脱原発の最前線」という連載企画記事を書いたこともあった。それだけに、もどかしかった。何か出来ることはないのかと思ったが、ニューヨーク州イサカで出来ることはあまりない。それでも翌週、大学キャンパスで募金活動を始めずにはいられなかった。地球の反対側で起きたこととはいえ、他人事とは思えなかった。
それから10年後の2021年11月。『大震災に始まる風景──東北の10年を撮り続けて、思うこと』という本を手にした。副題が示すように、著者の稲宮康人さんが10年にわたって撮りつづけた被災地の風景が収められている。ここにある写真を見て、再度、呆然とした。「復興」後の写真のほうがなぜか非現実的な光景にみえたからだ。誤解を恐れずにいえば、「復興」にもかかわらず、それはあまり幸せそうな風景にはみえなかった。とりわけショッキングだったのは、そびえ立つコンクリートの防潮堤の写真だ。その写真に添えられた著者の撮影メモには次のよう書かれている。「海が見えるようにと、小さな小窓を開けた防潮堤。窓にはプラスチックがはめこまれ、少しゆがんだ向こう側がみえた。計画通りに復興は進んでいるけれども、これが求めていたものだったのか、というようなものも増えてきた」。
かさ上げ、高台移転、防潮堤──。著者が「復興工事三兄弟」と名付けたこれらの大規模工事に見え隠れするのは、そもそも原子力発電所をこの地にもたらした高度成長期以来の国家主導の開発主義と経済発展という「夢」と同一のものなのではないのか。現地の人びとが望んだものがこれだったのならば、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。ただ、本当にこうしたものが現地の人びとの心から出てきたものなのか。著者の意図ではないのかもしれないが、写真に映し出されているのは、無理やりに大きな「夢」を見させられ続けている現地の今のような気がした。もちろんそうした上から降ってくる「現実」を黙って抱きしめる人も少なくないだろう。数からいえばむしろ多数派かもしれない。震災前からそうであったように。ただ、そうした「開発」「発展」といったお仕着せの「夢」でなく、個々人の夢や、それぞれの物語を大切にしている人びとも、少なからずいるのではないか。そうした人びとの声こそ、もっと聞いてみたい。
10年前に感じたようなもどかしさを、今また感じている。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)