榎本 空 揺れのあと
そちらは揺れたろうか 揺れたろうか
交わる事のない道なりに
地平を破いた風景が 通り過ぎてく
彼の地のあなたと呼び合い
歌うは夢だろうか 夢だろうか
そちらは揺れたろうか 揺れたろうか
(折坂悠太『揺れる』)
12年前の3月11日、私は関西にいた。その時刻、天井から吊るしてあったダイニングの電球が、わずかにゆらゆらと長く揺れた。それを見た母親は、とうとうこの古い家に幽霊が出たのだと騒ぎ出し、私たちはそんな母を笑っていた。
あの時は、その小さな揺れが遠く三陸海岸では海を呼び起こし、途方もない数の命を攫っていくことも、原子力がもたらすはずだった明るい未来が霧散し、放射能が私たちの時間感覚をほとんど永久に変えてしまうことも、そしてわずか数年後には、全てが、つまり死者も原発も風景も、それらを背負う生者の思いも全てがアンダーコントロールとされ、現在から切り離された記憶が「忘れない」という言葉そのものによって忘却におかれることも、想像できないでいた。
何かせずにはいられなかった。被災地を訪れたのは、同じ年の夏。まだ津波の傷跡がありありと残っていた岩手県久慈市でボランティアをし、そこから海岸沿いを車で下った。再稼働に揺れる大飯原発前で、官邸前で反原発デモにも参加した。かつて民俗学者が書いたように、この惨事にあってついに平地人は戦慄し、灰をかぶり、喪に服し、決定的な方向転換を遂げるのだと思った。もはや人間を無味な数字に置き換えて操作することも、自然を都合よく搾取することも、資本の蓄積に心を奪われることも、この惨事のあとでは不可能だろうと思った。現在からあの時を振り返るという特権を行使するなら、それがあまりにも楽観的な推測だったことがわかる。震災から2年後、私はまるで錘を失ったブイのように、台湾やアメリカを漂流した。
10年ぶりに日本に帰ってきた。沖縄で暮らすのはほとんど20年ぶりとなる。関係のための新しい言葉が欲しいと切に願う。絆という言葉の空虚にも、「がんばろう日本」という標語の白々しさにも収斂されない、あの震災の後を生きる私たちをその複雑さのままに私たちたらしめる言葉。そちらは揺れたろうか。それは死者からの問いだろうか。あの時の私たちからの問いだろうか。小さな揺れを、再び、心に刻む。そちらは揺れたろうか。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)