山 﨑 敦 被災地の記者として
記憶を父とし、記録を母として教訓(あるいは知恵)という子を生み、育てて次代に託す
(保阪正康『戦場体験者 沈黙の記録』筑摩書房、2015年)
東日本大震災から11年半。岩手、宮城、福島の被災3県をカバーする河北新報社(本社・仙台市)の記者として「何のために書き続けるのか」と自問する中で、何度も励まされ、指針としてきたのが保阪さんのこの言葉です。
2012年3月下旬、福島県双葉町の志賀一郎さん(75)を取材しました。コメ作りを生業としてきた志賀さんの自宅は東京電力福島第一原発の目と鼻の先にあり、今も人が住める環境は整っていません。東日本大震災の津波で妻さち子さん(当時63)と、子守を頼まれていた生後4カ月の孫・仁美ちゃんを失い、夜明けを待って始めた翌朝の捜索は、原発事故によりわずか30分で断念せざるをえませんでした。今は宮城県名取市の一戸建てに1人で暮らしています。
ここまで話してくれて大丈夫だろうか──と恐縮するくらい胸の内を明かしてくれた志賀さんですが、少し言い淀んだ瞬間がありました。「家族で震災の話はしない」と言った時です。身内で話せば「なぜ救えなかったのか」という、残された家族を苦しめる問いが待ち受けています。
とめどなく溢れ出す言葉を一つも漏らすまいと、「家族にもできなかった話」にひたすら耳を傾けました。全身全霊を傾け全て受け止めようとした姿が心を開かせた、と言えば聞こえはいいのですが、ただ聞いてくれる存在が必要だったのでしょう。志賀さんにとっても、これまで取材した多くの遺族にとっても……。
冒頭の言葉は、保阪さんの著書『戦場体験者 沈黙の記録』で知りました。兵士たちが重い口を開き、言いにくい体験談を淀みなく話している印象を受けますが、「この人なら真実を話しても理解してもらえるのではないか」という信頼がベースにあったことが想像できます。戦争をテーマにしてきた作家が「最終的にたどりついた信念」の賜でしょう。
保阪さんの足元には到底及びませんが、志賀さんや多くの遺族から託された記憶を受け継ぎ、多くの記録と照らし合わせて生まれる教訓、あるいは知恵という「公共財」を大切に守り育て、次代に託す責務を果たしていければと願っています。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)