【文庫解説】ルクレティウス著/瀬口昌久訳『事物の本性について』(上・下)
森羅万象を原子と空虚で説明したローマ共和政末期の長篇詩。合理的精神と詩の想像力をもって、人間の感覚や恋愛から、天体の運行、生命の起源、文明の興亡、雷・地震・噴火までもが説明されていきます。エピクロスの哲学を後世に伝え、近代科学に絶大な影響を及ぼした無二の古典です。訳者の瀬口昌久先生による「解説」(下巻に収録)の冒頭部を掲載します。
ティトゥス・ルクレティウス・カルス(Titus Lucretius Carus, 前99/94年頃―前55/50年頃)について、知られうることはかぎられている。確実に知られることは、他のどのラテン詩人よりも少ない。暴力や殺人が横行し、権力闘争が激化したローマ共和政末期に、『事物の本性について』(De Rerum Natura)の一作品だけを残して、40代の若さで死んだこと以外に確かなことはわからない。ギリシア哲学や文学に深い知識と教養をもっていたので、幼い頃からギリシア語を学ぶことができた経済的余裕のある家庭、おそらくは富裕な騎士階級(エクィテス)の出身であったことがうかがわれるが、その正確な生地も出自も不明である。
生没年にも諸説がある。キケロが前54年2月に書いた『弟クイントゥス宛書簡集』14・3(Shakleton Bailey)に、「ルクレティウスの詩については、君が書いているとおり、多くの才能の光に満ちていて、また技巧にも大いに富んでいる」と述べている言及が、ルクレティウスに関して年代が確実な唯一の証言である。『事物の本性について』は未完成の部分があり、ルクレティウスの死後まもなくして世に出たと思われるので、キケロのこの証言から、ルクレティウスの死は前55年以前と推定される。また、コルネリウス・ネポス(前110年頃―前24年頃)の『英雄伝』の『アッティクス』12には、「ルクレティウスとカトゥッルスの死後」という記述があり、カトゥッルスは一般に前54年頃に死んだとされているので、ルクレティウスの死が前55年以前である可能性を高める。
後代の証言では、4世紀のローマの文法学者アエリウス・ドナトゥスが、『ウェルギリウス伝』6に、ウェルギリウス(前70年―前19年)について、「彼は生涯の初めをクレモナで過ごし、17歳の誕生日に成人のトガを身に着けた。それは彼が生まれた年の2人の執政官が、ふたたび執政官の任にあたった年であり、偶然にもまさにその同じ日に詩人ルクレティウスが亡くなった」と書き記した。そこで言及された執政官がポンペイウスとクラッススだとされ、彼らが執政官に選ばれたのが前70年、再任されたのが前55年なので、ルクレティウスは彼らが再任された前55年10月15日に死んだことになるが、ウェルギリウスが17歳の誕生日を迎えた年ならば前53年になり、そのままでは記述のつじつまが合わない。
ところが、ドナトゥスに教えを受けたヒエロニュムス(347年頃―420年)は、エウセビオスの『年代記』の前94年の項に、「(この年)詩人ティトゥス・ルクレティウス生まれる。後年、媚薬によって狂気に陥り、狂気の合間に数巻の書を著わし、キケロが後日これを校訂した。44歳の時にみずからの手で命を絶った」と、後世の「ルクレティウス狂気の伝説」をつくり上げる有名な記述を書き加えた。それによるとルクレティウスは前94年に生まれ、前51/50年に死んだことになる。
さらに、ローマの文学者の記事を集めた古写本(Codex Monacensis Lat.18059)に含まれ、10世紀頃に成立したとされる「レゲンスブルク語彙集(Glossarium Ratisponense)」には、ルクレティウスがウェルギリウスよりも27年前に生まれた(すなわち、前97年)とする書きこみがある。それらのことから、ルクレティウスの生年には前99年から前94年、没年には前55年から前50年の幅があることになる。
『事物の本性について』は、キケロの先の証言などをもとに、前55年頃に作成されたものと一般に考えられている。しかし、G. O. ハッチンソンは、第1巻1-43の「ウェヌスへの祈り」の内容を根拠に、本作品が前49年よりも遅い時期に書かれたと主張した。ルクレティウスが、戦争をしずめてローマに平和をもたらすようウェヌスに祈り、メンミウスが重大な政治的危機に直面していると語っているため、カエサルとポンペイウスの内戦(前49年―前48年)の時期に作品が仕上げられたとしたのである。たしかにハッチンソンが言うように、キケロが言及したルクレティウスの詩が必ずしも、完成された本作品を指すとはかぎらない。しかし、K. ヴォルクが反論したように、もしも、ハッチンソンが主張するような内戦の時期であれば、「平静な心で/おのが仕事を成し遂げることはできず」(第1巻41-42)、本作品を仕上げることもできなかっただろう。
このような異説が近年になっても出てくるのは、ルクレティウスの生没年すら決定できないほど確かな情報が少ないからである。後代に大きな影響を及ぼしたヒエロニュムスの記述は当てにならない。ルクレティウスの時代にも、エピクロス派を批判する人々は大勢いたのに、ルクレティウスが媚薬によって発狂して自殺したことを取り上げている者は誰ひとりいないからである。そもそも媚薬によって性的快楽を過度に高めるということ自体が、エピクロス主義に反している。
ルクレティウスの死後400年以上を経てから、新たにルクレティウスに加えられたスキャンダルには歴史的背景がある。キリスト教護教の立場から、エピクロス哲学を標的とする組織的な攻撃が本格化したのは、ローマ帝国によるキリスト教公認(313年)以降である。キリスト教徒の最初のローマ皇帝となったコンスタンティヌス一世(在位306年―337年)は、神学者ラクタンティウス(240/250年頃―320/330年頃)を自身の宗教政策の助言者とした。ラテン語でキリスト教神学を初めて体系化したラクタンティウスは、異教徒への批判を展開し、エピクロス派を厳しく断罪する一連の著作を書いた。それによって4世紀半ば以降、ルクレティウスを読む者は、無神論で不道徳な快楽主義者の烙印を押されることを覚悟しなければならなくなった。ルクレティウスが媚薬を飲用し発狂して自殺したと、ヒエロニュムスが書いた(380年頃)のは、まさにエピクロス哲学の終焉を告知する警鐘だった。本作品の第4巻1037以下の性愛の記述が、「ルクレティウス狂気の伝説」をまことしやかにひろめる根拠にもされたのだろう。ちなみに、17世紀に初めてルクレティウスの全巻を英訳したL. ハッチンソンは、ピューリタンであったこともあってか、第4巻の性愛の部分を翻訳していない。
(全文は、本書『事物の本性について』(下)をお読みください)




