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前田健太郎 政治学を読み、日本を知る

宗教からナショナリズムへ ──ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』

【連載】前田健太郎「政治学を読み、日本を知る」(12)

国民の起源

 なぜ、戦争は起きるのか。この国際政治の根本問題に取り組む上で、ナショナリズムについての考察は欠かせない。ナショナリズムは、自国のために力を尽くし、命を投げ出すことを人々に求める。その起源を説明する上で決定的に重要な位置を占めてきたのが、ベネディクト・アンダーソンの一九八三年の著作『想像の共同体』(白石隆・白石さや訳、書籍工房早山、二〇〇七年)である。

ベネディクト・アンダーソンの一九八三年の著作『想像の共同体』(白石隆・白石さや訳、書籍工房早山、二〇〇七年)
ベネディクト・アンダーソン 著, 白石隆・白石さや訳『想像の共同体』(書籍工房早山)

 この本を有名にしたのは、国民(ネーション)という共同体が近代になってから人々に想像されることで初めて出現したという主張だろう。ナショナリストたちは、しばしば「イギリス人」や「ドイツ人」が太古の昔から存在したかのように語る。だが、本書によれば国民の歴史は比較的浅い。もちろん、国民が誕生する条件は近代以前に整い始めるものの、それも大昔の出来事ではない。中世以降、キリスト教のような「宗教共同体」の一員としての意識が後退し、特定の国民の一員としての意識を持つ条件が初めて生まれた。そして、王族同士の血縁関係で結ばれた「王国」が一七世紀以降の革命で次々と崩壊した結果、今日のような国民国家が政治的な単位として浮上したのである。

 そのメカニズムとして、本書は「出版資本主義」に着目した。とりわけ一六世紀以降のヨーロッパでは、ラテン語で書かれていた聖書を俗語に翻訳する動きなどが契機となって印刷技術が普及し、出版市場が急激に拡大した。すると、それまで無数に存在していた俗語が少数の出版語に整理された。この出版語がラテン語を没落させ、国民の核としての言語となった。

 この基礎的な条件の下、まずアメリカ大陸の植民地でナショナリズムが生まれ、そのモデルがヨーロッパに伝播でんぱした後、さらにアジアやアフリカにも輸出されたとアンダーソンは述べる。日本は、政治エリートの主導で国民が創られた「公定ナショナリズム」の事例として登場する。本書のこの視野の広さと、世界各地から収集された絢爛けんらんたる事例の数々には、目を見張るほかはない。

 ところが、これまで日本では、自国のナショナリズムの起源を考える際にアンダーソンの議論はあまり参照されてこなかった。最近出版された渡辺浩『日本思想史と現在』(筑摩書房、二〇二四年)でも、日本では江戸時代以前から既に中国人唐人からびととは区別された日本人としての意識が存在したと指摘されている。

 なぜ、アンダーソンの学説は、日本では説得力を持たないのだろうか。その根底には、西洋社会におけるナショナリズムの歴史的な経験がある。

キリスト教圏の解体

 実は、ナショナリズムが宗教共同体の解体によって生まれたという指摘自体は、西洋史の考え方としては特段新しいものではない。例えばE・H・カーの一九四五年の著作『ナショナリズムの発展』(大窪愿二訳、みすず書房、二〇〇六年)には、ナショナリズムの起源は宗教改革によるキリスト教圏の解体と主権国家の登場にあると論じられている。そして、王国の没落についても、フランス革命後の民主化によって市民がナショナリズムの主体となったと述べられている。

 アンダーソンが強調した印刷技術の働きに注目する論者も既にいた。マーシャル・マクルーハンの一九六二年の著作『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房、一九八六年)は、活版印刷の登場でナショナリズムを含む近代社会の様々な構成要素が出現したと論じる。

 そうだとすれば、『想像の共同体』は何が新しかったのか。それはおそらく、ナショナリズムと宗教の類似性を正面から論じたことにある。ナショナリズムは、人の生と死に意味を与えるという点において、現世の秩序を論じる自由主義やマルクス主義といった政治思想よりも、死後の世界をつかさどる宗教と近い。だからこそ、アンダーソンはナショナリズムの起源を論じるにあたって、戦死者を顕彰する「無名戦士の墓」から説き起こす。

 だが、ナショナリズムは宗教とは時間観念が異なる。すなわち、中世までのキリスト教世界の「メシア的時間」の下では、世界の終わりと神による救済という終着点が予め設定されており、現世のあらゆる出来事は、それがいつ、どこで生じたのであれ、決められた筋書きの予兆に過ぎない。これに対して、出版資本主義の時代には、時間は時計やこよみで測られるものへと変わる。その例として、アンダーソンは小説という文学のジャンルの出現に注目し、見ず知らずの登場人物が、互いの存在を認識していないにもかかわらず、読み手は時間の流れを把握できることを挙げる。この「空虚で均質な時間」の下で初めて、歴史の流れを共有し、新たな未来を創り出す国民という共同体を想像することが可能になったのだとアンダーソンはいう。

東アジアのナショナリズム

 このような議論の組み立て方は、キリスト教圏以外には馴染みにくい。『想像の共同体』は確かに世界各地でのナショナリズムの出現を描いた作品だが、その理論の根底にあるのは、キリスト教社会の解体と近代社会の誕生という、実に典型的な西洋社会の問題関心なのである。

 これに対して、東アジアにはキリスト教のような意味での宗教共同体は成立しなかった。そのため、宗教に代わってナショナリズムが出現したという論理構成は取り得ない。また、「王国」の性質も西洋社会とは異なる。ハプスブルク家やブルボン家が他の王家と政略結婚を繰り返し、王位継承のたびに支配領域が激変して継承戦争が頻発したヨーロッパとは異なり、東アジアでは王朝間の政略結婚は行われず、戦乱の時期を除けば領域も安定していた。

 そう考えると、日本の国民意識が明治維新以後の「公定ナショナリズム」によって植え付けられたとするアンダーソンの見解は支持できない。『想像の共同体』に登場する日本の事例は、丸山眞男の『現代政治の思想と行動〔新装版〕』(未來社、二〇〇六年所収)に収録されている論文「日本におけるナショナリズム」(初出一九五一年)を下敷きにしたものだが、その丸山は日本が欧米列強と遭遇する以前の段階で、既に中国とは異なる独自の文化圏を形成していたと論じている。このような地域では、国民が近代になって初めて出現したと論じるのは難しい。

帝国を思い出す

 しかし、『想像の共同体』の日本論には、実は極めて有用な視点がある。それは、ロシア帝国やオーストリア=ハンガリー帝国といった多民族帝国を日本の比較対象としていることだ。こうした帝国は、近代になって内部の少数民族が活性化する中で、帝国の解体を防ぐべく、言語政策や教育政策を通じて、上から新たに国民意識を植え付けようとした。つまり、公定ナショナリズムは、帝国から生まれる。アンダーソンは、日本の公定ナショナリズムがヨーロッパを模倣した結果、帝国主義に傾いたと見たが、その理論における原因と結果は逆なのである。

 小熊英二が『単一民族神話の起源』(新曜社、一九九五年)で論じるように、戦前の日本は単一民族国家ではなく多民族帝国だった。そして、南塚信吾『「連動」する世界史』(岩波書店、二〇一八年)が指摘するように、二〇世紀初頭に日韓併合を行った大日本帝国と、同時期にバルカン地域に勢力を拡大したオーストリア=ハンガリー帝国の歴史は繋がっている。

 この多民族帝国を不安定化させたのが、第一次世界大戦だった。敗戦国であるオーストリア=ハンガリー帝国は民族自決によって崩壊するが、戦勝国の日本も朝鮮の三・一運動や中国の五・四運動といったナショナリズムの発露に直面する。そして、呉叡人が『フォルモサ・イデオロギー』(梅森直之・山本和行訳、みすず書房、二〇二三年)で示したように、植民地化以前に王朝を持たなかった台湾においても、台湾人意識が強まっていく。こうした条件の下、一九三〇年代の日本は植民地で皇民化教育に取り組み、特に朝鮮では創氏改名を促すなど同化政策を積極的に展開した。公定ナショナリズムの国として日本を見るアンダーソンの視角は、この局面において生きてくる。

 アンダーソンは、必ずしも日本を含む東アジアの歴史を正確に捉えているわけではない。だが、その視点は、今日の東アジアの国際政治を揺るがすナショナリズムが、いかに日本の帝国主義と深く結びついているかを、改めて思い出させてくれるだろう。

西洋中心主義の乗り越え方

 本連載の大きな目的は、日本の政治学における西洋中心主義をいかに脱却するかを考えることだった。この課題についても、『想像の共同体』はヒントを与えてくれる。アンダーソンは、政治学における西洋中心主義を最も痛烈に批判し、非西洋地域にも目を向けることを提言し、それを実践した研究者だった。その理論は西洋由来であるとしても、西洋人の偏りを自覚し、意識的に乗り越えようという態度には学ばされることが多い。馴染みのない地域の言語と文化を学び、そこから新たな論理を探るという、その実に真摯しんしな姿勢こそ、本書が世界中に多くの読者を獲得できた理由だろう。

 では、筆者を含む日本の多くの政治学者にとって馴染みのない地域とは、どこか。それが、東アジアであり、日本だったのではないか。中国や朝鮮半島において、第二次世界大戦以前の日本において、どのような政治が行われ、いかなる思想が展開されてきたのか。それぞれの地域や時代の専門家を除く多くの研究者は、こうした問いを自らの課題としては意識してこなかった。

 この慣行を改めるための道のりは長い。だからこそ、それを始めるのは早ければ早いほど良いだろう。このささやかな連載が、その助けとなることを願っている。(了)

(まえだ けんたろう・政治学)

[『図書』2024年5月号より]

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著者略歴

  1. 前田 健太郎

    (まえだ・けんたろう)
    1980年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科教授。専門は政治学・行政学。2003年、東京大学文学部卒業。2011年、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。首都大学東京(現・東京都立大学)社会科学研究科准教授、東京大学大学院法学政治学研究科准教授を経て、現職。著書に『市民を雇わない国家──日本が公務員の少ない国へと至った道』(東京大学出版会、第37回サントリー学芸賞〔政治・経済部門〕)、『女性のいない民主主義』(岩波書店)などがある。

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