農村から近代に至る道──バリントン・ムーア著 『独裁と民主政治の社会的起源』
【連載】前田健太郎「政治学を読み、日本を知る」(3)
政治体制の比較歴史分析
今回は、リプセットの近代化論に対する最大の挑戦を取り上げよう。それが、バリントン・ムーアの一九六六年の著作『独裁と民主政治の社会的起源』(宮崎隆次・森山茂徳・高橋直樹訳、岩波文庫、二〇一九年)である。本書は、経済発展が民主主義をもたらすどころか、独裁体制を生み出す場合もあると論じた。
それによれば、近代に至る道は大きく分けて三つある。第一は、民主主義に至る「ブルジョワ革命」の道である。イギリス、フランス、アメリカの三カ国では、ブルジョワジーが権力を握って代議制を打ち立てた。これは一見、近代化論のシナリオに似ているが、政治勢力としての地主の消滅が決定的な条件となる。
第二は、ファシズムに至る「上からの革命」の道である。日本では、地主が政治勢力として近代まで残存し、ブルジョワジーに対して優位に立った。地主たちは、農民を抑圧するべく、民主主義を拒絶して暴力的な政治体制を樹立した。
第三は、共産主義に至る「農民革命」の道である。中国では、ブルジョワジーが弱く、地主も農民を支配できずに大規模な農民反乱に直面した。この混乱に乗じて、共産党が権力を握った。
ムーアの政治体制の分類は、リプセットと同じく戦間期の欧米諸国で出現した選択肢を念頭に置いているが、それは長い歴史の最終局面にすぎない。鍵を握るのは、そこに至る数百年間の地主と農民の対立なのである。それを反映するのは、ムーアの研究手法であろう。本書の大部分は上記の国々にインドを加えた六カ国の比較歴史分析から成り立っており、統計分析は全く登場しない。
この手法の差異は、マルクス主義への態度の違いに由来する。リプセットは、階級対立の行方についてはマルクス主義を批判しつつ、社会現象の普遍的な法則性を信じる点では史的唯物論の思考を継承した。これに対して、ムーアは歴史の法則性を疑い、そこからの逸脱が生じる論理を探る。この考え方は、今日では歴史的制度論と呼ばれており、各国固有の歴史的文脈に敏感な立場だとされる。
だが、日本の読者は、本書における日本の事例の扱いが気になるだろう。ファシズムが、地主が農民を抑圧する体制だと聞いて、それが戦前の日本に当てはまると感じる人は多くはあるまい。確かに大正デモクラシー期には地主と小作人の対立が深刻化したが、その後に政党内閣を打倒したのは軍人であって、地主ではない。むしろ軍人たちは、五・一五事件を起こした青年将校たちのように、農民の側に立つ存在として描かれてきた。
では、なぜムーアはファシズムの事例として日本を選んだのか。このような齟齬感が生じる理由は、ムーアが西洋社会の歴史に着想を得ていることにある。
農村の階級闘争と政治体制の選択
ムーアによれば、もともと『独裁と民主政治の社会的起源』の草稿には、英米仏三カ国の比較対象としてドイツとロシアを扱う章が含まれていた。日本と中国の章は、それらの事例の知見をアジアに当てはめて書かれたのだという。従って、そこには西洋社会の歴史的な経験が投影されざるを得ない。
その出発点には、マルクスがいる。ムーアの描く民主主義への道は、『資本論』(一八六七年)におけるイギリスの分析を想起させるだろう。一六世紀以降、経済的利益を求める地主は、羊毛生産のために囲い込みを実施した。この「商業的農業」で土地を追われた農民は都市へ流入して労働者となり、地主はブルジョワジーに衣替えして代議制の主役となった。
だが、これはヨーロッパ全体から見れば一つの事例にすぎない。後にウォーラーステインの世界システム論が描いたように、同じ時期には、経済的な国際分業を反映して各地で様々な土地制度が出現する。ドイツは穀物輸出のために再販農奴制の時代となり、ロシアでも農奴制が長く残存した。農民は、土地を追われるどころか、土地に縛り付けられた。
そこに、ムーアはマルクスとは異なる歴史の力学を見出す。商工業の発展に晒された地主には、ブルジョワジーに転じるのではなく、むしろ農民に対する搾取を強化する「労働抑圧的な農業」を選択する道があった。その場合、階級闘争は地主と農民の間で展開することになる。
ここでの前提は、地主が軍事力の担い手だということである。中世以来、ヨーロッパの封建制の下では、世襲の貴族が君主から土地の領有を認められ、それと引き換えに兵力を提供した。「労働抑圧的な農業」には、この軍事力が欠かせない。賃金に依存する労働者とは異なり、自らの生活の糧を生産する農民を搾取するには強制力が必要だからである。絶対王政の下で常備軍が整備されると、貴族たちはその将官を占める。
だからこそ、近代化が進行して没落の脅威に晒された地主は、議会政治の時代になると、農民を搾取し続けるべく、暴力的なファシズム体制の成立を支持した。地主の利害関心を、ムーアはヒトラーが政権を奪取する直前のドイツ国会選挙における農村部でのナチスの得票率の高さに読み取る。
これに対して、ドイツと真逆の形で農村部の階級対立が決着したのが、ロシアの事例だった。その特徴を、ムーアは地主と農民の絆の弱さに見る。地主が搾取を強化すると、それを不正義だと感じる農民の怒りが燃え広がり、第一次世界大戦で農民革命に至ったのである。
東アジアの農村と大日本帝国
しかし、同じような分析を東アジアで行うのは難しいだろう。それは、地主が軍事力を担うという前提が成り立ちにくいためである。近代への入口において、清国と朝鮮では科挙制度で官僚を選抜しており、文官に比べて武官の地位は低かった。一九世紀に欧米列強の脅威に直面した際に軍事力の強化が遅れたのも、こうした伝統を反映している。 これに対して、徳川時代の日本は封建制であり、一見するとムーアの分析と相性が良い。だが、世襲の武士が軍事力を用いて農民を支配する制度だったとはいえ、水谷三公『江戸は夢か』(ちくま学芸文庫、二〇〇四年)が指摘するように、武士は城下町に集住して官僚として生活し、天下泰平の世の中では軍事的な性格も和らいだ。さらに、明治維新で武士身分そのものが消滅してしまう。
この明治期に登場した地主層の利害関心は、農民の抑圧ではなく、地租の軽減だった。地主たちは、一八九〇年に開設された帝国議会では明治政府と対峙する民党を支持し、やがては政党内閣の支持基盤となる。一方、武士に代わる軍事力の担い手として設立された陸軍と海軍は、軍部として独自の勢力を築いた。
ここで、日本の事例はムーアの議論から決定的に逸脱する。北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会、一九七八年)が示すように、軍部の出現は単に地主の利害と独立に生じただけでなく、帝国の拡大を伴ったのである。それによって、東アジアにおける地主と農民の対立の行方は大きく左右された。
その影響が最も明白に現れたのは朝鮮半島である。一九世紀の朝鮮では農民反乱が繰り返し起きたが、最終的に王朝を滅亡させたのは一九一〇年の韓国併合だった。日本の支配に協力した両班層は地主の座に留まる一方、日本人が進出して新たな地主となり、多くの農民が土地を追われた。ここで農民を抑圧したのは、ファシズム体制ではなく、植民地帝国である。この植民統治時代の地主と農民の対立は、一九四五年の解放後の朝鮮半島における政治的対立にも反映された。日本の統治下で支配に協力した地主層は、保守勢力の政治的基盤として、大韓民国政府の成立を支持することになる。
中国の事例も、日本の軍事的な台頭と切り離しては理解できない。ムーアは、辛亥革命後に北伐で全国統一を成し遂げた蔣介石の国民党を、地主の勢力を背景とするファシズム勢力だと見る。そして、その搾取が農民の不満を招いた結果、毛沢東の共産党が勝利したと論じた。だが、この分析は日本の軍事力を過小評価している。一九三七年に始まる日中戦争で国民党政権が日本軍の侵攻の大部分を受け止めたことが、戦後の国共内戦での共産党の勝利の直接的な原因となった。
大日本帝国の拡大は、日本の農村にも影響を及ぼした。植民地の獲得は、とりわけ一九一八年の米騒動以後に食料価格の安定のために植民地産米が流入したことで、内地の農民を価格競争に晒すことになる。世界恐慌と共に農村の窮乏が深刻化すると、植民地への農業移民が活性化した。それは、地主と農民の対立を、帝国主義によって解決する道だった。
戦後への遺産
今日の政治学において、『独裁と民主政治の社会的起源』の一つの意義は、農民の存在に光を当てたことにあると言われる。民主主義が、農民が土地を追われることで初めて可能となったと考えるムーアの視線に、読者は近代化の犠牲を払った人々に対する共感を見出すだろう。
だが、この議論はおそらく、日本では別の意味を持つ。ムーアの想定とは異なり、戦前の地主と農民の対立は、大正デモクラシーの不安定化の原動力ではなかった。その理由を考えると、東アジアの植民地化という事実に突き当たる。加藤聖文『海外引揚の研究』(岩波書店、二〇二〇年)が論じるように、こうした歴史は戦後に植民者が日本列島へと引き揚げる中で忘却された。
今日、戦前の民主化の試みは、挫折したとはいえ、戦後の民主主義の基礎となったとされることも多い。だが、それは西洋社会において農民が強いられた犠牲が植民地に転嫁される過程でもあったのではないか。そこに、戦後の中国大陸や朝鮮半島における独裁体制の起源があったのではないか。東アジアの歴史を踏まえてムーアを読み直すことは、このように日本の民主主義の来歴を捉える視野を広げてくれるのである。
(まえだ けんたろう・政治学)
[『図書』2023年8月号より]