妥協を通じた民主化 ──ロバート・A・ダール著『ポリアーキー』
【連載】前田健太郎「政治学を読み、日本を知る」(4)
二〇世紀における民主化の条件
民主化論の締め括りとして、今回はロバート・A・ダールの一九七一年の著作『ポリアーキー』(高畠通敏・前田脩訳、岩波文庫、二〇一四年)を取り上げる。本書は、二つの点で政治学に絶大な影響を与えた。
第一に、本書は二〇世紀の歴史に根ざした政治体制の分類法を提唱した。民主主義とは、全ての市民に平等に応答する政治体制の理念である。だが、そのような体制は現実には存在しない。そこで、ダールは現存する体制の中で相対的に民主主義に近いものを「ポリアーキー」と呼ぶ。それは、野党による公的異議申し立てを認める「自由化」と、選挙への幅広い参加を認める「包括性」という二つの要素から成り立つ。一九世紀の民主化は、自由化が早くから進んだ欧米諸国における包括性の向上を意味していたのに対して、普通選挙が非西洋地域に広がった二〇世紀の民主化は、包括性の高い体制の自由化が課題となる。今日、民主主義の程度を測定する定量的な指標の多くは、このポリアーキーの概念を参考にして作られている。
第二に、本書は政治体制が自由化する条件を合理的選択理論によって定式化した。支配者は、野党の存在を許容する「寛容コスト」と、それを排除する「抑圧コスト」のバランスを考えて政治体制を選択する。ポリアーキーが成立するには、寛容コストが低下し、抑圧コストが上昇しなければならない。それによって初めて、体制側と反体制側が互いを正当な競争相手として承認し、両者の妥協が成立する。後にアメリカ政治学で隆盛した民主化の数理モデルは、この発想の延長線上に生まれた。
『ポリアーキー』の大部分は、このような妥協を通じた民主化が行われるための様々な条件の検討に割かれている。そこでは世界各国の事例が取り上げられており、その体系的な分析には目を見張るしかない。
その一方で、本書には日本の読者にとって見逃せない指摘が含まれている。それは、戦後日本のポリアーキーが安定した原因が、アメリカ占領軍による天皇制の存続に求められていることである。天皇制の存続が占領を円滑に進める知恵だったという見方は確かにあるが、それが民主化を成功させた中心的な要因だったと主張する人は多くはあるまい。むしろ、軍部の解体や農地改革を重視するのが一般的だろう。
では、なぜダールは、天皇制の存続に注目したのだろうか。その理由は、ダールが西洋社会における民主化の経験に基づいて議論を組み立てていることにある。
君主制の下で発展したポリアーキー
自由化が進む条件としてダールはいくつもの要因を検討している。その中には、経済発展や社会的平等などの近代化論が重視する要因も含まれているが、注目すべきは、その筆頭に位置づけられている「歴史的展開」だろう。
ダールによれば、ポリアーキーが安定するのは、イギリスやスウェーデンのように、自由化が選挙権の拡大よりも先に行われる場合である。その理由は、選挙権の範囲が狭い国では、エリートの同質性の高さが、競争的な政党政治の成立に役立つことにある。
これに対して、包括性が早い段階で実現すると、ポリアーキーは不安定化しやすい。例えば、フランス革命では選挙権の拡大が自由化と同時に進行した。また、帝政ドイツは男子普通選挙を一九世紀から実施しており、包括性が自由化に先行した事例である。前者は、革命と反革命が繰り返される不安定な体制となった。後者は、第一次世界大戦後のドイツ革命でポリアーキーとなったが、政党政治が不安定化し、ナチスが台頭した。
この議論は、前回取り上げたバリントン・ムーアへの応答である。ムーアは、「商業的農業」の成立が資本主義の出現に先行するかどうかを重視したのに対して、ダールは自由化が包括性に先行するかどうかに着目した。
そして何より、ダールはムーアが重視した革命の意義を否定した。新たな勢力が政権を奪取し、旧体制が一掃されたとしても、旧体制の支持者は社会の中に大きな勢力として残存する。その結果、新体制が正統性を獲得できないまま反革命運動が起き、ポリアーキーが崩壊してしまう。
この主張の根拠としてダールが取り上げるのは、ムーアが扱わなかったヨーロッパの小国である。スウェーデン、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェーなどの国々は、いずれも革命を経ることなく、君主制が現代まで存続した。これらの国のように、伝統的な君主制の下で政党政治が発展することが、ポリアーキーへの理想的な道となる。この君主制に対する評価を踏まえれば、ダールが日本の天皇制の存続を重視した理由も理解できよう。
だが、ダールが描いたのは西洋社会の歴史的な見取図である。そこでは、議会をはじめとするポリアーキーに必要な政治制度が、君主制の下で既に存在していた。だからこそ、革命を経ることなく、漸進的な改革を通じてポリアーキーへの道が開かれたのである。
東アジアにおける王権の断絶
このシナリオを、そのまま東アジアに当てはめることはできない。一九世紀以前の東アジアの伝統的な王権は、二〇世紀初頭までに跡形もなく消滅した。その大きな理由は、欧米列強の進出である。その脅威に対して各国において西洋の政治制度の導入が試みられたが、それには従来の王権が革命によって断絶する必要があった。
王権の断絶が東アジアで最も早く生じたのは、日本である。苅部直『「維新革命」への道』(新潮社、二〇一七年)が論じるように、日本では一九世紀半ばに欧米列強の圧力が強まる以前から、政治体制の刷新を求める声が国内で生まれていた。その結果、明治維新によって、徳川家はもちろん、各地の領国を治めていた大名たちも政治の表舞台から一掃され、革命を担った下級武士たちが新たな支配者層となる。それ以後、西洋の立憲制が導入され、藩閥政府と自由民権運動の間で大正デモクラシーに至る政治変動が展開する。それをポリアーキーの成立過程として描いたのが、三谷太一郎『日本政党政治の形成』(東京大学出版会、増補版一九九五年)だった。
こうした改革は、伝統的な王権の下では行き詰まった。清国では、アロー戦争の敗北を機に洋務運動が始まり、軍の近代化が進められたが、日清戦争の敗北で脆弱性が露呈した。光緒帝の下での戊戌の変法は立憲制を目指す試みだったが、保守派を背景とする西太后のクーデタで頓挫する。その後、義和団事件での敗北で欧米列強による中国分割が本格化すると、改めて立憲制への移行と国会開設が検討されるに至ったが、王朝の滅亡を止めることはできなかった。中村元哉『対立と共存の日中関係史』(講談社、二〇一七年)が論じるように、立憲制の試みは辛亥革命後の中華民国で本格化する。
清国の朝貢国だった朝鮮では、日本が日朝修好条規を結んで影響力の強化を試みる中で開化派が登場した。清国の介入が深まる中、開化派は日本の支援を受けてクーデタを試みたものの、失敗に終わる。日清戦争後は国号が大韓帝国に改められ、清国からの独立と近代化のための改革が開始されたが、立憲制への動きは鈍かった。この時期には、独立協会が議会開設を要求する動きもあったが、高宗に弾圧され、むしろ王権が強化される。だからこそ、姜萬吉『韓国近代史』(小川晴久訳、高麗書林、一九八六年)は、日本による植民地化を、専制国家を革命で打倒することに失敗した帰結として描く。
戦後東アジアの民主化への道
君主制の下で自由化と包括性が実現するというダールの描いたポリアーキーへの道は、東アジアでは最終的に閉ざされた。立憲君主制が誕生した日本でも、一九三〇年代には軍部が政党内閣を倒して権力を握る。筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』(ちくま新書、二〇一二年)が述べるように、大正デモクラシー期の政党間対立の激しさは妥協とは程遠かった。
だからこそ、戦後東アジアの民主化に際しては、じっくりと妥協を練り上げることが何より重要な鍵となった。それを象徴するのが、韓国の事例だろう。一九八〇年代の韓国では、民主化勢力が軍事政権に対する要求を大統領の直接選挙に絞り込むことで妥協を引き出した。一九八七年の六月民主抗争で全斗煥政権が退陣を表明すると、それに続いて実施された大統領選挙を制したのは軍事政権側の盧泰愚だった。その後、金泳三が盧泰愚と金鐘泌との三党合同を行い、軍事政権を継承することで文民政権が成立する。この金泳三政権下で軍の改革が進められ、金大中政権の成立に至って初めて完全な政権交代が実現した。
この視点は、日本の事例にも新たな角度から光を当てる。戦後日本のポリアーキーは、決して直ちに安定しなかった。一九五〇年代は占領政策への反動としての「逆コース」の時代であり、自民党と社会党が激しく対決した。局面が変わるのは、日米安保闘争後の一九六〇年代である。自民党は、憲法改正を棚上げして利益分配の体系を築き、社会党とも国対政治を通じて柔軟に取引と妥協を行うようになった。
この自民党政治の展開は、今日ではその腐敗が否定的に捉えられることも多い。だが、それは民主化に必要な妥協を積み上げる過程だったのではないか。このように『ポリアーキー』を読むことは、戦後日本をドイツと並ぶアメリカの占領政策の成功事例としてではなく、むしろ長い時間をかけて、西洋社会とは異なる径路でポリアーキーに到達した東アジアの政治体制の一つとして捉え直す可能性を開くに違いない。
(まえだ けんたろう・政治学)
[『図書』2023年9月号より]