少数派と共存する政党政治 ──レイプハルト著『民主主義対民主主義』
【連載】前田健太郎「政治学を読み、日本を知る」(7)
コンセンサス型民主主義の価値
政党システム論において、多党制が民主主義を不安定化させることに警鐘を鳴らしたのがジョヴァンニ・サルトーリだったとすれば、その価値を積極的に肯定したのが、オランダ出身の政治学者アレンド・レイプハルトである。その一九九九年の主著『民主主義対民主主義──多数決型とコンセンサス型の三六カ国比較研究』(粕谷祐子・菊池啓一訳、勁草書房、第二版二〇一四年)は、多党制によって成り立つ民主主義を、一つの規範的なモデルとして提示した。
一般的に、民主主義といえば、イギリスのような二大政党制の下で定期的に政権交代を行う体制がイメージされることが多い。その前提となるのは、多数派と少数派の勝敗を明確に決した上で、多数派の手に権力を集中する政治制度である。このモデルを、レイプハルトは「多数決型民主主義」と呼ぶ。
これに対して、スイスのように、全ての主要政党が連立政権に参加し、明確な政権交代の起きない国もある。それが民主主義の機能不全かといえば、決してそうではない。むしろ、こうした体制は可能な限り多くの人々が統治に参画するべく、多数の政党に権力を分散する政治制度を採用している。この「コンセンサス型民主主義」のモデルは、宗教や言語で分断された「多元社会」に適した民主主義の形だとレイプハルトは述べる。
本書は、この主張を政治制度に関するデータの体系的な収集によって裏付けた。ヨーロッパを中心とする三六ヵ国について、政党システムや選挙制度に加えて、利益集団、地方制度、憲法など全部で一〇種類の政治制度に関するデータを収集し、各制度による権力を集中と分散を数値化したのである。その結果、これらの政治制度は別々に選択されるのではなく、民主主義の二つの型に即した形で、一つのパッケージとして採用される傾向が明らかとなった。さらに、コンセンサス型民主主義の方が多元社会において採用されやすいだけでなく、多数決型民主主義に比べて全般的にパフォーマンスに優れ、特に女性の代表や福祉政策などの点で弱者に優しい体制だということも示唆されている。
以上のようなレイプハルトの議論は、本書以前の一連の著作も含め、日本でも広く注目されてきた。だが、日本で有力となったのは、コンセンサス型民主主義ではなく、多数決型民主主義の発想である。一九九〇年代以降の政治改革は、政権交代可能な二大政党制の下、強力なリーダーが意思決定を行うという、イギリス流のモデルを目指した。
なぜ、レイプハルトの議論は、日本では受け入れられなかったのだろうか。以下では、その議論の背後にある歴史的な前提に分け入ることにしたい。
国家の存続のための政治制度
『民主主義対民主主義』には、コンセンサス型民主主義が多元社会に適した制度だという主張と、それが一般的に望ましい制度だという主張が混在している。そのどちらが議論の核なのかといえば、学説史的には前者だろう。レイプハルトはもともと、一九六〇年代以降、オランダやベルギーの研究に基づいて「多極共存型民主主義」というモデルを提起したことで知られていた。多元社会では、言語や宗教に基づく下位文化(サブカルチャー)の集団ごとに政党や学校を始めとする社会制度が整備され、人々の生活はそれぞれの集団の内部で完結する。多極共存型民主主義とは、そのような分断された社会で民主主義を成り立たせるべく、各集団を代表する政党のエリートたちが協調して政権を運営する手法だった。コンセンサス型民主主義は、このモデルを修正し、一般化したものである。
その問題関心は一見、戦間期ヨーロッパにおける民主主義の危機から生じている。イタリアやドイツでは政党間対立からファシズム体制が成立した一方、オランダとベルギーは多党制の下でも民主主義が維持された。
だが、コンセンサス型民主主義の機能は、必ずしもファシズム体制の成立を防ぐことにあるわけではない。多元社会で多数決型民主主義を実施することの孕む最も大きな危険は、敗れた側が体制に不満を抱き、内戦が勃発することだとレイプハルトは述べる。つまり、コンセンサス型民主主義は、何よりも国家の存続のために必要なのである。
この国家の存続という問題関心を理解するには、ヨーロッパにおける国家建設の経緯を踏まえなければならない。というのも、オランダやベルギーの政党システムを規定する最も重要な社会的亀裂とは、カトリックとプロテスタントの対立だからである。一六世紀の宗教改革によってヨーロッパを分断した宗教戦争は一七世紀までに概ね終息し、その結果として主権国家体制が成立したとされることも多いが、オランダやベルギーでは二つの勢力が国内で拮抗し続けた。宗教に基づいて組織された政党の支持者は特定の地域に固まるため、その対立は国家を引き裂く可能性を孕む。
従って、コンセンサス型民主主義は、決して弱者への配慮自体を目的に設計されたわけではない。むしろ、そうしなければ国家が存続し得ないからこそ、多数派が少数派と共存するべく、権力を分散する政治制度が採用されたのである。
東アジアにおける権力の集中と分散
これに対して、東アジアでは大きく異なる国家建設の経緯があった。そこには超国家的な宗教的権威は存在せず、中華帝国を中心に冊封体制と呼ばれる秩序が形成されてきた。東アジアの近代国家は、平野聡『大清帝国と中華の混迷』(講談社学術文庫、二〇一八年)が描くように、この冊封体制が一九世紀の欧米列強の進出を契機に動揺したことで誕生した。
その発端となったのが、朝鮮半島の動乱である。長らく清国の朝貢国だった朝鮮は、帝国主義に乗り出した日本が清国と衝突する場となった。日清戦争で日本が勝利すると、それを機に朝鮮は清国から独立して大韓帝国となるものの、まもなく日本に植民地化される。そして解放後は、米ソ冷戦下で半島が分断された結果、多民族の共存ではなく、民族の統一が課題となった。
中国大陸では、日清戦争で敗れた清国が近代化を試みる中で、冊封体制下にあった地域が軍事的に編入されてゆく。第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国の下では、漢族が人口の九割を占め、チベット自治区や新疆ウイグル自治区などの自治区域を設け、五五に区分された少数民族を支配した。
冊封体制の外に置かれていた日本は、明治維新後、清国の朝貢国だった琉球王国を併合し、北海道開拓使を設置してアイヌの土地を征服する。日清戦争後の日本は本格的に多民族帝国となったが、一九四五年の敗戦で植民地を失った結果、「単一民族国家」となった。
以上のような過程を経て近代国家が誕生した東アジアでは、多元社会は生じず、多民族の共存のためにコンセンサス型民主主義の制度が必要だという発想も出てこない。むしろ、国共内戦の続いた中国や、解放後に分断された朝鮮半島では、分裂の克服を名目に自らの手に権力を集中する政治指導者の下、一党支配体制が出現することになる。
その中で、相対的に分権的な体制だったのが、日本である。辻清明が『日本官僚制の研究』(東京大学出版会、新版一九六九年)で論じたように、明治日本では、政党の力を封じるべく、官僚制や軍部に内閣からの自律性を持たせる制度が採用された。この体制の性格は、文化的な集団を代表する政党が権力を分け合うというコンセンサス型民主主義の発想とは全く異なっており、最終的には政党内閣の崩壊と軍部の政権掌握に至った。
日本の政治学における分権的な政治制度への負の評価は、この歴史的経験に由来する。戦後に軍部が解体されても、自民党内の派閥対立や官僚制のセクショナリズムは批判の対象となり続けた。
少数派への配慮の条件
その日本でも、一九九〇年代になると政治権力の集中を目指した制度改革が始まる。待鳥聡史『政治改革再考』(新潮社、二〇二〇年)は、それを自律的な個人を重んじる「近代主義右派」による改革だと論じているが、改革の直接的な契機は日米貿易摩擦と湾岸戦争という国際問題であり、求められたのは危機に対応する首相のリーダーシップだった。
この改革は主にイギリスの多数決型民主主義を模したものとして理解されてきたが、モデルの参照元ではなく改革の動機を見れば、安全保障という、まさに国家の存続の観点が存在している。歴史的に見れば、それはむしろ近代の東アジアに典型的な発想に近い。
問題は、中国が台頭する今日の東アジアでは、こうした戦略だけでは十分な安全保障につながらないことだろう。そのことを物語るのが、台湾の事例である。民主化後の台湾は二大政党制という多数決型の政党システムを持ちながら、少数民族の代表にも議席が割り当てられ、ジェンダー・クオータの導入によって女性が立法委員の四割を占めるに至った。こうした政策には様々な背景があるが、その独特の安全保障環境は無視できない。中国の圧力によって国際社会での孤立が進む中、台湾はソフト・パワーの点からも民主的で寛容な政治体制をアピールする必要に迫られてきたといえよう。
ここにあるのは、レイプハルトの想定とは違う形で、国家の存続のために多様性への配慮が行われるというシナリオである。このような変化は、同じ東アジアに位置する日本とも無縁ではあるまい。今後、人口と経済規模が縮小していけば、ただ軍事力に頼るだけでは安全保障は難しいからである。その時には、少数派との共存というコンセンサス型民主主義の理念の重要性が、国際社会における日本という国の価値を示す上で改めて重要となるだろう。
(まえだ けんたろう・政治学)
[『図書』2023年12月号より]