信頼を生み出す市民社会──ロバート・パットナム著『哲学する民主主義』
【連載】前田健太郎「政治学を読み、日本を知る」(9)
ソーシャル・キャピタルと統治の質
民主主義体制において、良い政治が行われる条件は何か。前回は経済格差への対応を取り上げたが、今回は統治の質を考える。一九九三年に出版されたロバート・D・パットナムの『哲学する民主主義』(河田潤一訳、NTT出版、二〇〇一年)は、この問題を論じる上で欠かせない。
本書は、市民団体の活動が民主主義を改善するという命題で有名となった。そのメカニズムとして、本書は市民社会の人的な絆、すなわちソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の働きに注目する。市民が互いを信頼し、協力し合うことでソーシャル・キャピタルが蓄積すれば、政治制度のパフォーマンスが向上し、それが経済の発展につながる。このメカニズムの鍵を握る要因である信頼は、地位の上下を伴う垂直的な人間関係の下では生じにくい。この点、自発的に結成された市民団体は、構成員による水平的なコミュニケーションを通じて信頼を育むのである。
この論理に基づき、本書はイタリアの州政府のパフォーマンスを統計データで比較した。その結果、市民団体が活発に活動する「市民共同体」に恵まれた北部の州では、南部の州に比べて円滑な政策決定が行われ、市民のニーズに即した行政活動が展開されていることが示された。金銭的な資本ではなく、市民社会の人間関係が生み出す「資本」の蓄積こそが民主主義の質を向上させるという主張は、マルクス主義に由来する経済決定論の没落した冷戦後の雰囲気にも合致しており、大きな反響を呼んだ。
ところが、ソーシャル・キャピタル論は日本政治の分析には大きな影響を及ぼしていない。この問題に正面から挑んだ坂本治也『ソーシャル・キャピタルと活動する市民』(有斐閣、二〇一〇年)は、日本では市民団体の活動は統治の質とは明確に相関しておらず、むしろ行政を監視する「シビック・パワー」の方が重要だと述べる。
パットナムがイタリアで見出した傾向が、なぜ日本では観察されないのか。今回は、この問題を検討してみよう。
市民社会の成り立ち
イタリアの北部について、市民団体の活動が盛んな土地だというイメージを持つ人は、決して多くはあるまい。『哲学する民主主義』の成功の理由の一つは、この意外な事実を指摘したことだった。
実は、ここには単純な統計分析の仕掛けがある。その仕掛けとは、教会が市民団体から除外されていることである。その理由として、パットナムは教会という組織が権威主義的な人間関係を生み出すことを挙げ、市民共同体の質が高い地域ほど教会の行事への参加頻度が低いというデータを示した。一見すると穏当な見解だが、これはイタリア南部がカトリック教会の影響力の強い土地だという、よく知られた事実を言い換えているにすぎない。市民団体の活動に南北で差が出るのは、北部の住民が積極的に市民団体に参加するからではなく、南部の住民が熱心に教会に通うからなのである。
この「市民的」な北部と「宗教的」な南部の対比は、ルネサンスを契機にヨーロッパの中世から近代への移行が始まったという、やや古風な歴史図式に則っている。この図式によれば、北イタリアの都市国家では古典古代のギリシャ・ローマ哲学が再発見され、政治に積極的に参加する市民の徳が称揚された結果、共和制が成立し、教会が没落した。これに対して、イタリア南部は教会の権威が残り、君主制が続く。
では、なぜこの歴史的な背景が、現代イタリアの南部と北部における政策のパフォーマンスの違いを生むのか。パットナムは、その原因がソーシャル・キャピタルの性質にあると考える。金銭的な資本とは異なり、ソーシャル・キャピタルは使えば使うほど蓄積される。このため、一一世紀以降、自治的な「コムーネ共和制」の成立した北部では、水平的な人間関係の下でソーシャル・キャピタルが持続的に蓄積される好循環に入ったのに対して、ノルマン王朝の成立と共に専制支配が確立した南部では、垂直的な人間関係の下で人々の相互不信が連鎖する悪循環が続いたとパットナムは論じる。
だが、今日の南部と北部の差異は、中世以来の伝統から生じただけではあるまい。パットナムは触れていないが、一九世紀のイタリア統一による近代国家建設に際しても、二つの地域は対照的な運命を辿った。第7回で取り上げたアレンド・レイプハルトがモデルとしたオランダのような、複数の宗教的な集団が共存を図った国とは異なり、イタリアは、北部が南部を征服する形で成立する。この過程で、南部エリートの支持を調達するために北部からの利益誘導を行う政治慣行が成立した。マフィアの親分=子分関係をはじめ、南部社会の垂直的な人間関係は、おそらくイタリアの近代国家における従属的な地位を反映している。
東アジアの近代国家と市民社会
このように人間関係が水平的な地域と垂直的な地域を比較する発想は、東アジアの歴史からは出てこない。それは一つには、東アジアにおける「古典古代」の再発見がヨーロッパのルネサンスとは全く異なる形で生じたからである。それが、宋代において仏教や道教の影響力に対抗する形で生じた儒学の復興、とりわけ一二世紀の南宋における朱子学の成立だった。儒学は、古代の伝説上の聖王である堯・舜・禹の三代の統治を理想として掲げ、皇帝が臣民のための政治を行うことを目指す政治イデオロギーである。東アジアでは、明朝と清朝だけでなく、朝鮮でも体制を正当化する思想となった。西洋のような市民社会の伝統が東アジアには欠けているというステレオタイプも、この儒学の伝統に由来する。
だが、儒学は決して既存の権力を無批判に擁護する思想だったわけではない。渡辺浩が『近世日本社会と宋学』(東京大学出版会、増補新版二〇一〇年)をはじめとする一連の著作で示したように、朱子学を外来思想として摂取した江戸時代の日本において、徳を身につけた君主による支配を説く儒学は、武力に由来する「御威光」に立脚した徳川政権の支配に疑問を投げかけ、最終的には明治維新によって体制を瓦解させる一因となった。この革命を契機に、東アジアの王権は次々と断絶し、近代国家建設が始まる。
問題は、こうして生まれた政治的なダイナミズムが、市民の間の信頼を育むような水平的な人間関係ではなく、むしろ支配と服従に基づく垂直的な人間関係を新たな形で生み出したことだった。
その中でも特に東アジアに重要な影響を及ぼしたのが、日本の帝国主義である。明治政府は、琉球処分によって沖縄を編入し、アイヌの暮らす北海道の開拓を進めた。そして、日清戦争での勝利を契機に、台湾、樺太、朝鮮半島を次々と植民地化し、辛亥革命後の中国大陸にも軍事的に深入りする。国内では大正デモクラシーの進展と共に多くの自発的結社が組織され、都市の一般民衆の政治参加も進んだが、そのスローガンは「内には立憲主義、外には帝国主義」だった。
今日、東アジア各国の社会に残る垂直的な人間関係は、儒教の伝統だとされることも多いが、この植民地統治の負の遺産は決して無視できない。浅野豊美の『帝国日本の植民地法制』(名古屋大学出版会、二〇〇八年)が包括的に論じるように、日本列島(内地)と植民地(外地)は法的に区別され、外地は従属的な地位に置かれた。この植民地支配の時代には、住民が自発的な結社のような市民社会の組織において活動する余地は限られていた。
そして、東アジアでは「市民共同体」の形成に最も適した条件を備えていたはずの日本でも、やがて軍部が台頭し、民主化が挫折する。その結果、戦前の民主化の試みは敗戦と共に忘却され、日本は市民社会の伝統を欠いた国だという認識が長く主流となった。
日本の市民社会を見直す
以上のような歴史的な背景から、戦後日本では地域間の格差は市民社会における共同体の強さの反映としては語られてこなかった。むしろ、産業化に伴って生じた都市と農村の経済格差に注目するのが一般的である。そして、その格差を公共事業や農業補助金などの利益分配を通じて抑制したのが、高度経済成長期以後の自民党政治の特徴だとされてきた。
だが、たとえ政治学者たちが市民社会という言葉を用いなかったとしても、そこにはソーシャル・キャピタル論に通じる問題意識がある。高畠通敏の『地方の王国』(講談社学術文庫、二〇一三年)が描いたように、農村部の自民党支配は、濃密な親分=子分関係に立脚していた。それは、市民同士の信頼を醸成するような水平的な人間関係とは対極にある。
この視点は、沖縄の事例において一層重要な意味を持つだろう。近年、上間陽子の『裸足で逃げる』(太田出版、二〇一七年)や打越正行の『ヤンキーと地元』(筑摩書房、二〇一九年)のような、沖縄社会に関する優れた社会調査が注目を集めているが、これらの著作は、まさにソーシャル・キャピタルの蓄積しにくい垂直的な人間関係の下、暴力と抑圧の中で生きる人々の姿を描く。そのような状況を生んだ背景として、琉球処分から戦後の米軍統治を経て、返還後も米軍基地が依然として集中する今日まで、日本列島の周辺において従属的な地位に置かれ続けた歴史を無視することはできない。
市民団体の活動が民主主義を改善するという命題が、そのままでは日本に当てはまらないのは確かだろう。だが、『哲学する民主主義』が提起したのは、市民同士の、そして政府と市民の間の信頼を育む条件は何なのかという問題である。その角度から本書を読み直すことは、日本だけでなく東アジアを、単に市民社会の伝統を欠いた土地と見なすのではなく、近代以降、様々な変化の可能性が生まれては消えた地域として、改めて見直す態度にも繋がるのではないだろうか。
(まえだ けんたろう・政治学)
[『図書』2024年2月号より]