分極化する政党システム ──ジョヴァンニ・サルトーリ著『現代政党学』
【連載】前田健太郎「政治学を読み、日本を知る」(6)
政党システムの類型論
前回取り上げたモーリス・デュヴェルジェが政党システム論に先鞭を付けたとすれば、それを体系化したのがイタリアの政治学者ジョヴァンニ・サルトーリの一九七六年の著作『現代政党学』(岡沢憲芙・川野秀之訳、早稲田大学出版部、普及版二〇〇〇年)だろう。
本書は、何よりも政党システムの類型論で知られている。民主国家の政党システムを分類する上で、デュヴェルジェが二党制と多党制を論じたのに対して、サルトーリは分極的多党制と一党優位政党制という二つの型を加えた。その非民主的な政党システムをも射程に含む詳細な分類は、現在まで参照され続けている。
この政党システムの類型の中で、サルトーリが最も重視したのが分極的多党制だった。デュヴェルジェが二大政党制こそ最も自然な政党システムだと見たのに対して、サルトーリは多党制の下で政党システムが両極化していく力学を重視した。これは、ポピュリズム現象によって左右対立の激化する近年の欧米諸国の状況を見通していたかのような、先見性のある視点である。
だが、日本で注目を集めたのは、分極的多党制ではなく、一党優位政党制の方だった。その大きな理由は、この概念を使えばスウェーデンのような欧米の国と日本の共通点を見出せることにある。例えば、佐藤誠三郎・松崎哲久『自民党政権』(中央公論社、一九八六年)は、日本の政党システムを先進国で最も安定した一党優位政党制として肯定的に描く。
このような議論の仕方は、サルトーリの意図を反映したものではあるまい。この問題について考える上では、前回までと同様、歴史的な背景を押さえる必要があるだろう。
分極的多党制の原理
サルトーリの政党システム論には、明確な目的があった。それは、ファシズム体制の成立の原因を突き止めることである。この問題に関して、デュヴェルジェは一党独裁体制が二大政党制から生まれると論じていた。それは、全体主義政党が二大政党の一方を占めて政権を獲得し、野党を弾圧することで、一党独裁体制が成立するという論理である。だが、サルトーリはそこに根本的な疑問を提起する。デュヴェルジェが念頭に置くフランス第四共和政はもちろん、戦間期にファシズムが台頭したイタリアやドイツの政党システムも、二大政党制に向かうどころか、むしろ著しい多党化が進行していた。そうだとすれば、多党制から一党独裁体制に至るメカニズムを考える必要がある。
その力学をモデル化したのが、分極的多党制の概念だった。その条件とは、「有意な政党」が五つから六つ存在することである。有意な政党とは、連立政権を構成するのに必要であるか、政権与党の脅威となるような勢力を持つ政党を指す。これらの政党のうち、左右両端には、共産党やナチ党のような民主主義の破壊を目指す「反システム政党」が配置され、中央には社会民主主義政党や自由主義政党のような穏健な勢力が布陣する。反システム政党は政権に参画できる見込みがないため、中道政党の支持層を切り崩すべく無責任な公約を乱発する。この「せり上げの政治」の結果、イデオロギー対立が先鋭化し、民主主義の崩壊への道が開かれるのである。サルトーリが同時代的に懸念していたのが、戦後イタリアの政党システムの分極化だった。
サルトーリの議論において、民主主義の安定の鍵を握るのは、政党の数ではなく、その競争する方向である。有意な政党が五つ以下の穏健多党制の場合には、二大政党制と同じように、中道の有権者の支持を巡って求心的な競争が行われるのに対して、分極的多党制の下では、政党が遠心的な競争を行う。従って、最も重要な境界線は二大政党制と多党制の間ではなく、分極的多党制と穏健多党制の間に引かれることになる。
以上の議論は、西洋社会の政党政治に関する独自の歴史認識に基づいている。デュヴェルジェは、産業化によって普通選挙の導入への圧力が生じ、それを通じて大衆政党が幹部政党を退けたと考えた。これに対して、サルトーリはイギリスの事例を念頭に、議会における政党の競争そのものが生み出す力学に光を当てる。すなわち、一八世紀には内閣が議会に責任を負う「責任政府」が成立したのに対して、一九世紀には議会に政党が登場し、自らの勢力拡大を目指して競争するようになる。この「せり上げ競争」で政党が自ら選挙権を拡大すると、議会が有権者に応答する「対応政府」が出現した。その下で政党の競争が先鋭化したことにより、戦間期には民主主義が危機に直面したのである。
東アジアの政党システム
以上のようなサルトーリの議論は、日本には当てはめにくい。川人貞史『日本の政党政治』(東京大学出版会、一九九二年)が示すように、戦前の日本では一九二〇年代までに選挙区のレベルでも二大政党化が進行しており、分極的多党制とは対極にある国だった。無産政党は抑圧され、共産党は禁止されていたが、それゆえにファシズム政党も登場しなかった。
それにもかかわらず、大正デモクラシーは長続きしなかった。その背景には、西洋社会とは異なる東アジアの議会制の歴史がある。日本を含む東アジア諸国の政党は、いずれも「責任政府」が成立する以前に登場したため、議会の枠を越えた激しい権力闘争に晒された。その帰結も、ファシズム体制の成立とは大きく異なるものになった。
明治憲法下の日本は、首相が議会ではなく天皇に責任を負う国だった。軍部に対する内閣の統制力は、統帥権の独立によって制約されていた。日清・日露戦争を通じて民主化が進行し、政党内閣制が成立する一方、帝国が拡大したことで軍部は植民地に進出する。そして、一九二〇年代以降、朝鮮の独立運動と中国のナショナリズムに直面した軍部は、国際協調と軍縮を進める政党内閣との対立を深める。一九三一年、関東軍が満州事変を起こし、翌年の五・一五事件によって政党内閣の時代が終焉した。村井良太『政党内閣制の展開と崩壊』(有斐閣、二〇一四年)が示すように、天皇と重臣による首相選定が行き詰まった原因は、政党の対立ではなく軍部の挑戦だった。
辛亥革命後の中国では政党が創設され、一九一二年の国会議員選挙では宋教仁の国民党が第一党となったものの、すぐに袁世凱に弾圧され、その死後は軍閥割拠の時代が到来した。一九一九年に結成された孫文の中国国民党は、ソ連共産党に倣って独自の軍事力を持つ方針を選択する。その結果、一九二五年には国民革命軍が創設され、その中で蔣介石が台頭した。その蔣介石による上海クーデタで国民政府を追われた中国共産党は、自前の軍事組織を整備して武力闘争を開始する。この「二大政党」による国共内戦は日本の侵略を挟んで続き、一度も選挙で対決しないまま台湾海峡を挟んだ国家の分断に至った。
解放後に米ソの分割占領下に入った朝鮮半島では、南北で対照的な政党システムが形成された。米軍占領下の南部では、共産主義者の浸透を警戒する米軍政によって左派勢力が早い段階で弾圧され、一九四八年には保守勢力主導の単独選挙で大韓民国政府が成立する。済州島四・三事件のような虐殺事件を経て、朝鮮戦争で左派政党の排除が決定的になった後、韓国では支配政党に保守系野党が選挙で対峙する構図が一般的となる。一方、ソ連占領地域で成立した北朝鮮では北朝鮮労働党が政権党となったが、そこに韓国で弾圧を受けた南朝鮮労働党が越北して合流し、朝鮮労働党が成立する。その意味で、朝鮮半島では、国家の分断によって政党システムも左右に分断されたと言えよう。
一党優位政党制の終わり方
戦後日本は、東アジアでは例外的に政党が自由化され、社会党と共産党が参入して多党化が進んだ。この中で自民党が台頭したのは、大嶽秀夫『日本政治の対立軸』(中公新書、一九九九年)が論じたように、戦前の二大政党の流れを汲む保守勢力が朝鮮戦争を契機に結集したためである。その後、民社党や公明党が登場して野党が細分化し、一党優位政党制が確立した。
これに対して、一九九〇年代以降の日本で目標として掲げられたのが、二大政党制の実現である。その手段は、「デュヴェルジェの法則」を念頭に、多党化した野党を小選挙区制によって一本化することだった。
だが、一九七〇年代の保革伯仲期に書かれた『現代政党学』には、全く異なるシナリオが示されている。それは、自民党の退潮によって分極的多党制が出現する道である。多数の野党が分立する条件の下で優位政党が退潮すれば、向かう先は二大政党制ではなく多党制だろう。この条件は、今日まで変わっていない。
歴史的に見れば、東アジアの二大政党制は、戦前の日本を含めて、常に左派政党の排除の上に成り立ってきた。戦後に独裁体制の成立した台湾と韓国では民主化後に二大政党制が成立したが、左派政党の姿は見えにくい。台湾の民主進歩党は、大陸出身の外省人の政党である国民党に対抗するべく結成された、台湾出身の本省人の政党だった。韓国の民主化を担った金大中と金泳三は、いずれも経済政策の面では保守的な立場を取っていた。
そうだとすれば、日本の政党システムの進むべき道として、二大政党制にこだわる必然性はない。むしろ、比例代表制を導入し、多党制を目指す道があってもよいのではないか。その際に重要なのは、サルトーリが懸念したような分極的多党制ではなく、穏健多党制を目指すことである。それこそが、多様な政党の存在を認めた戦後日本の民主主義の遺産を生かす道なのかもしれない。
(まえだ けんたろう・政治学)
[『図書』2023年11月号より]