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前田健太郎 政治学を読み、日本を知る

近代化論の発想──S・M・リプセット著『政治のなかの人間』

【連載】前田健太郎「政治学を読み、日本を知る」(2)

民主主義と近代化論

 民主主義が繁栄するための条件は何か。この問題について論じる際、政治学では経済的な要因を重視する。中でも重要なのは、近代化論という学説である。それによれば、経済発展が進むほど民主主義は安定する。アメリカの社会学者S・M・リプセットの一九六〇年の著作『政治のなかの人間』(内山秀夫訳、東京創元新社、一九六三年)は、この近代化論の出発点であった。

S・M・リプセット 著, 内山秀夫 訳『政治のなかの人間』(東京創元新社)

 本書の学説史上の意義は、まず何よりも、定量的な手法を用いたことにある。具体的には、世界五〇カ国の民主国家と独裁体制について統計データを収集し、前者の方が経済的な豊かさや産業化の水準が高いことを示したのである。この手法は、政治現象の普遍的な法則性を探求するという観点から、以後の民主化研究で広く用いられることになった。

 同時に本書は、中産階級の役割を指摘したことでも知られる。貧しい社会では、経済的な格差が大きいため、貧困層が過激化して共産主義革命が起きるか、それを恐れる富裕層が独裁体制を樹立するしかない。経済発展が進むほど民主主義が安定するのは、中産階級が勢力を拡大し、貧困層が穏健化するためである。これは、資本主義の発展と共に階級対立が激化すると考えたマルクス主義に対抗する論理だった。

 これまで、近代化論には様々な反論が提起されてきたものの、それを上回るインパクトを持つ学説は現れていない。だからこそ、リプセットの名前は今日まで政治学の教科書に登場し続けてきた。

 だが、日本の読者にとって、貧困層の過激化が民主主義を不安定化し、中産階級の拡大が民主主義を支えるという論理は、決して自明ではあるまい。むしろ、日本では民主主義を脅かすのは軍部のような権力主体だというイメージが強いのではないか。近代化論を踏まえた日本政治の分析は、蒲島郁夫・境家史郎『政治参加論』(東京大学出版会、二〇二〇年)など、少数に限られる。

 そうだとすると、この近代化論の発想は、どこから来たのか。前回述べたように、欧米の社会科学の理論は多くの場合、西洋社会の分析の中から生まれてきた。今回は、この視点からリプセットの著作を読み直すことにしたい。

戦間期の危機

 『政治のなかの人間』を読むと気づくのは、そこに登場する国の大部分が欧米諸国だということである。中でも、アメリカとドイツの二カ国への言及は極めて多い。多国間の統計分析を行う際には中東欧や中南米の国々もサンプルに含まれるが、それ以外の箇所ではほとんど登場しない。これは、今日の民主化論の大部分が非欧米地域を対象としているのとは明確に異なる。

 分析対象とする時代も、意外に短い。民主主義と独裁体制を区別する基準は、第一次世界大戦後に、競争的な選挙が持続的に行われてきたかどうかである。したがって、一九世紀のイギリスにおける選挙権の拡大は分析の対象に含まれない。民主主義の先発国とされることの多いフランスは、一九五八年に第四共和政が崩壊したことから、アメリカのような安定した民主国家とは区別され、ドイツやイタリアと共に独裁体制に近い不安定な民主国家として分類されている。

 さらに興味深いことに、本書の大部分を占めるのは民主国家における選挙の分析である。そこでは、アメリカやヨーロッパにおける労働者階級の権威主義的な性格や、中産階級のファシズム政党に対する支持、そして所得階層と支持政党の相関関係などが示されている。逆に、軍事クーデタや市民の抵抗運動は、本書では扱われない。

 つまり、リプセットが実質的に分析しているのは、戦間期の欧米諸国における民主主義の危機なのである。この時代、ドイツやイタリアでは第一次世界大戦とロシア革命を契機に共産党が議会に進出し、それに対する反動としてファシズム政党が台頭して権力を奪取した。これに対して、アメリカでは共産党が全く選挙で議席を確保できなかった。その理由を、リプセットはアメリカの貧困層が経済発展によって穏健化したことに求める。

 この分析に、冷戦期の思考を読み取らないわけにはいかない。エリック・ホブズボーム『20世紀の歴史』(大井由紀訳、筑摩書房、二〇一八年)やマーク・マゾワー『暗黒の大陸』(中田瑞穂・網谷龍介訳、未來社、二〇一五年)のようなヨーロッパの通史から見れば、リプセットの言うような共産主義の脅威は明らかに誇張されている。

 だが、この連載の視点から見て重要なのは、そのような議論の組み立て方自体が、西洋社会の歴史的経験を前提としていることである。中世以降、ヨーロッパでは議会が国王に対抗する貴族の拠点となり、それを基盤として一九世紀には政党政治が発展する。さらに、産業革命の進展によって男性労働者が組織化され、選挙権を獲得すると、議会は階級対立の舞台となった。本書は、こうして二〇世紀初頭に民主主義の舞台装置が整った欧米諸国において、第一次世界大戦後の一時的な平和の訪れの中で、有権者の選択がいかにして民主主義の浮沈を左右したかを描いているのである。

 このことを踏まえれば、近代化論の発想が日本では不思議に感じられる理由も分かってくる。

東アジアにおける政治体制の選択

 戦間期が欧米諸国における政治体制の分岐点だったとすれば、そのような歴史的な時期区分は日本を含む東アジアには当てはまらない。この地域に西洋の政治制度がでん))したのは一九世紀後半であり、議会が階級対立の舞台となる前に長い戦乱の時代が始まったからである。一八九四年に勃発した日清戦争で大日本帝国の拡大が始まると、そこから一九五三年の朝鮮戦争の休戦まで、半世紀以上にわたって各地で戦争や内戦が続いた。

 その結果、東アジアにおける政治体制は、国際的な軍事対立を反映した政治的な分断によって強く規定されることになる。それが鮮明に現れるのは、日本の事例であろう。一九二〇年代に頂点に達した大正デモクラシーは、共産主義政党の進出も、ファシズム政党の台頭も伴わなかった。政党政治を崩壊させたのは、富の再分配を求める貧困層ではなく、植民地帝国の拡大を目指す軍部だった。

 第二次世界大戦で大日本帝国が崩壊すると、今度は冷戦構造と連動した政治的な分断によって、各地で権威主義体制が成立した。中国では、日本の降伏と共に再開された国共内戦の結果、勝利した共産党が中華人民共和国を樹立し、敗れた国民党は台湾に逃れて一党支配を敷いた。朝鮮半島では、北緯三八度線を境に米ソの分割占領が行われ、南部では一九四八年の単独選挙で大韓民国政府が左派勢力を排除する形で成立すると、北部のソ連占領地域では朝鮮民主主義人民共和国が成立し、一九五〇年の朝鮮戦争の勃発で半島の分断が決定的になる。

 この中で例外的に冷戦の圧力を免れたのが、日本である。アメリカの単独占領下に入った日本では、戦前の大正デモクラシーを掘り崩した軍部が解体され、政党が復活した。朝鮮戦争は再軍備の契機となったが、日本列島は戦場ではなく後方基地であり、「朝鮮とく)じゅ)」によって経済が戦前の水準まで回復した。その後の日本は、高度経済成長を通じて「一億総中流」となり、民主主義が定着する。

 以上の歴史からは、近代化論のような発想は浮かんでこない。東アジアでは、議会選挙における有権者の選択が政治体制を左右するということ自体が決して当たり前ではないからである。むしろ、そこには国際的な軍事対立の影響が色濃く浮かび上がる。

民主主義のゆくえ

 今日、近代化論にかつての勢いはない。それは、リプセットの予想に反して、資本主義の発展が中産階級を成長させるどころか、格差を拡大させたからである。特に近年の欧米諸国では、格差の拡大が左右対立を激化させ、民主主義を不安定化しているという論調が目立つ。

 これに対して、日本で民主主義の危機を論じる場合は、戦前の軍国主義の歴史を呼び起こし、「右傾化」への警鐘を鳴らすことが多い。特に、二〇一二年以降の第二次安倍晋三政権下において、集団的自衛権の行使容認など保守色の強い政策決定が行われたことが批判の対象となってきた。二〇二〇年に始まる新型コロナ禍で安倍政権が退陣し、短期間で菅義偉から岸田文雄へと政権が移行したことで、議論は下火になったが、軍事力の拡大への警戒は今後も続くだろう。

 この「右傾化」論の特徴は、貧困層の政治的な動向とは無関係に生じてきたことである。安倍政権が経済格差を拡大させたという批判は数多く行われてきたが、自民党政権の脅威となるような急進的な左派勢力が生まれたわけではない。むしろ「右傾化」の背景は、中国との領土問題、北朝鮮との核問題・拉致問題、韓国との歴史認識問題など、国際的な政治対立である。

 そのことは同時に、民主主義に独特の意味を付与する。リプセットにとって、民主主義とは、「民主的な階級闘争」としての選挙を通じて、経済格差を縮小する政治体制であった。これに対して、日本では民主主義を守るということと、国内・国外における軍事力の行使を抑制するということが、強く結びついている。

 西洋社会において民主主義の成立と崩壊が経済的な現象として論じられてきたことを踏まえれば、こうした日本における民主主義の論じ方は奇妙に映るだろう。だが、日本を東アジアの国として見れば、不自然なことは何もない。それは、東アジアの政治体制が帝国主義や戦争といった国際政治の力学によって規定されてきたという歴史的な経験を反映しているのである。

(まえだ けんたろう・政治学)

[『図書』2023年7月号より]


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著者略歴

  1. 前田 健太郎

    (まえだ・けんたろう)
    1980年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科教授。専門は政治学・行政学。2003年、東京大学文学部卒業。2011年、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。首都大学東京(現・東京都立大学)社会科学研究科准教授、東京大学大学院法学政治学研究科准教授を経て、現職。著書に『市民を雇わない国家──日本が公務員の少ない国へと至った道』(東京大学出版会、第37回サントリー学芸賞〔政治・経済部門〕)、『女性のいない民主主義』(岩波書店)などがある。

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