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長縄光男 ゲルツェンと福沢諭吉[『図書』2025年12月号より]

ゲルツェンと福沢諭吉

 

完訳と文庫化の間

 2025年5月、ロシアの作家にして思想家、アレクサンドル・ゲルツェン(1812―70)の自伝『過去と思索』(全7冊)が、金子幸彦と私との共訳により岩波文庫において完結した。刊行の始まったのが前年5月であったから、完結までに丸1年かかったことになる。ゲルツェンは岩波書店の出版姿勢に最も適した思想家だと思い、また、『過去と思索』の居場所としては岩波文庫が最もふさわしいと、かねてから考えていた私としては、今やその思いが叶い、感慨もひとしおである。

 早速、毎日新聞に書評が出た(6月14日付け朝刊)。題して「〈幻の名著〉が読まれるべき時代が来た」。評者は東京大学名誉教授、沼野充義氏である。訳者として何よりも嬉しかったのは、氏が『過去と思索』を「『戦争と平和』や『カラマーゾフの兄弟』と並んで書棚に置かれるべき作品」と評して下さったことである。ゲルツェンを二人の文豪に勝るとも劣らぬスケールの大きな作家・思想家と思えばこそ、長く彼の研究に打ち込んできた私としては、実に、本懐が遂げられた思いであった。後は実際に、『過去と思索』が多くの読者家たちの書架に、これら2つの大作と並んで置かれ、そして、広く読まれることを願うばかりである。

 『戦争と平和』のロシア語からの完訳が、昇曙夢と米川正夫の共訳により世に出たのは1915―16年、『カラマーゾフの兄弟』のロシア語からの完訳が、米川の単独訳で出たのは1917―18年(版元はいずれも新潮社)であったのに対して、『過去と思索』の方は、金子と長縄の共訳によりその完訳が筑摩書房から刊行されたのは、戦後も半世紀以上を経た20世紀も末の、1998―99年のことであった。ゲルツェンは随分と後れを取ったものだ。

 文庫化について言えば、『戦争と平和』も『カラマーゾフの兄弟』も新潮社版刊行のほぼ10年後の1927年には、相前後して岩波文庫での刊行が始まり、翌28年10月に完結している(いずれも米川の単独訳)。だが、『過去と思索』の文庫化は筑摩版の完訳刊行から隔たること四半世紀、今年になってやっと実現した。これでゲルツェンは、ようやく二人に追いついたことになる。

 だが、明治以降の日本において、最も早い時期にその名が口にされたのは、トルストイでもドストエフスキーでもなく、ゲルツェンの方であった。

 例えば、トルストイについては、明治19(1886)年、森體によって『戦争と平和』の抄訳が『泣花怨柳 北欧血戦余塵』と題されて、ロシア語からの直接訳として世に出たのが、我が国におけるトルストイ紹介の嚆矢であったし、ドストエフスキーについては、内田魯庵が明治22(1889)年秋、「女学雑誌の小説論」の中で初めて彼を紹介したのが、そもそもの始まりであった。これに対して、ゲルツェンについて語られたのは早くも明治12(1879)年のことで、語っているのは、誰あろう、福沢諭吉(1835―1901)その人に他ならない。ただ、この時はその名が「ゲルツェン」ではなく、英語風に「ヘルズンHerzen」(今日では「ヘルツェン」と記される)となっているのが、残念と言えば、残念ではあったが。

『民情一新』のゲルツェン

 福沢の『民情一新』(初版1879年)は彼の思想の遍歴において大きな転換点をなす著作と位置付けられているが、筆者の関心は、差し当たり、それを論ずることにはない。この評論のもともとの眼目は、「蒸気船車、電信、印刷、郵便」という「近時文明の元素」が、ヨーロッパ全土で「保守と進歩」の激しい対立を招き、大きな社会的・政治的「狼狽」を引き起こしている時、ただイギリスだけが両極に偏することなく、安定した政治と社会を維持しているのは、ひとえに「保守と進歩」を体現する2つの政党が、時に応じて適宜交代するという制度にあると見て、新生日本のあるべき方向を指し示すことにあったのだが、その議論の中で、両極の対立の厳しい「専制国家」として、ロシアが取り上げられているのである(「第4章 此利器を利用して勢力を得るの大なるものは進取の人に在り。魯国及び其他の例を見て知る可し」)。

 福沢がロシアについての知識の拠り所としている「「エカルド氏」所著の魯西亜近世史」とは、ユリウス・エッカート (Julius Eckardt 1836―1908)による『近代ロシア(Modern Russia)』(1870年、ロンドン刊)のことで、その内容は副題にも示されているように、「アレクサンドル二世治下のロシア」や「ロシア共産主義」や「ギリシャ正教会とその諸教派」や「バルト沿岸諸地方」など多岐にわたっているが、この内、福沢が『一新』で言及しているのは、アレクサンドル二世(在位1855―81)に関する部分だけである。

 それによれば、「ペイトル〔ピョートル〕」大帝の時代(18世紀)に始まるロシアの文明化はまだ社会の表層に止まり、その内部にまでは至らなかったので、昔ながらの専制をもって人民を御することも可能であったが、しかし、19世紀に至り、西欧で文明のもたらす「狼狽」がロシアにも及ばんとするや、「ニコラス〔ニコライ〕帝」(在位1825―55)は「文明を視ること敵の如く」、「未曽有の専制」を敷くに至った。

 「ヘルズン」ことゲルツェンが登場するのはこの時である。

 「モスコー」府の学士に「ヘルズン」なる者あり。該府書生党の巨魁にして魯国社会党の元祖なり。此学士嘗て政治の事に付き些細の得失を談じたるが為に、先帝〔ニコライ〕の忌諱に触れ罪を得て禁錮せられたりしが、事に托して伊太里に行き遂に英国龍動府に走て復た帰らず。同府に於て出版の一局を開き、毎週雑誌を発兌して其表題を「コロコル」と名く。「コロコル」は魯語半鐘の義にして、蓋し人民を警しむるの意ならん」。それが主として論ずるところは「奴隷の法〔農奴制〕を即時に廃す可し」ということにあり、「恐れ憚る所もなく公然として魯国専制の治風を攻撃したるものなり。

 ゲルツェンの活動についてのこの記述はおおむね正しい。

 だが、さらに西欧やロシアにおける「コロコル」の勢威については、福沢は以下のように書いている。

 

  此一編の雑誌世に出でてより日ならずして「ヘルズン」の名声は欧羅巴全洲に轟き、貴賤上下の人民争て「コロコル」を購ひ、啻に学者士君子の之を悦ぶのみならず、苟も字を知る者なれば伝へ又伝へて其名を記せざる者なきに至れり。他邦に於て斯の如し、其本国の景況推して知る可し。幾千万の群民始て政治自由の題目を聞き、之に驚き之を悦び、之を称賛し之に心酔して余念あることなし。誌中に記す所は毫も疑を容れず、恰も唯命是従ふ者の如くにして、今日記者の言を以て人心を左右する其有様は、昔年「ニコラス」帝が政権を以て全国を威服したるの勢に異ならず。(『福沢諭吉全集』第5巻、1959年、岩波書店、33―35ページ)

 

 「コロコル」(1857年7月創刊、1867年7月終刊)がヨーロッパ全土で読まれたとか、ロシアの「幾千万の群民」がその説くところに従ったとか、実態を知る者から見ると、福沢の言には誇張がある。しかし原文(39―42ページ)を読むと、これらは決して福沢の誇張ではないことが分かる。ということは、むしろこの時代、西欧ではゲルツェンの為したことがこれほどまでに高い評価を受けていたと考えるべきだろう。

 ゲルツェンは1863年、ポーランドの反ロシア蜂起を支持することにより国内の世論から孤立し、「コロコル」の販売部数を著しく減少させ、65年には失意のうちにロンドンを引き払い、それから5年後の1870年、すなわち、エッカートのこの本が出たまさに同じ年に、パリで57歳の生涯を終えることになるのだが、この頃に至るも西欧のロシア通の間では、ゲルツェンの盛時における活躍の思い出は、いまだに鮮明だったのである。そして、福沢はそんなロシア史家の目を通して、ゲルツェンを知ったのである。ひょっとすると、福沢はゲルツェンの言論活動の成功に、自分の将来のそれを思い描いていたのかもしれない。『時事新報』が発足するのは明治15(1882)年3月、つまり、『民情一新』の書かれた3年後のことなのである。

二人の隔たり

 ゲルツェンと福沢の間には出自や活動した時代や国情など、大きな隔たりがあり過ぎ、到底比較の対象になどなりえないと思われる。確かに、例えば、ゲルツェンが法的には庶子ではありながらも、ロマノフ王家に連なる名門大貴族の家の御曹司であったのに対して、福沢は豊前国(現大分県)中津奥平藩の下級藩士の家の、5人兄弟(2男3女)の末子であった。加えて、ロシアが停滞した専制の国であったのに対して、日本は躍動する維新の国であった。

 二人の間にはこんな大きな隔たりがありはしたが、しかし、共に優れた自伝を著しているという、この一点において、彼らは強く結ばれている。すでに別のところで書いたように(岩波文庫版『過去と思索』第1分冊への解説参照)、自伝が近代人の自己意識の表白であるとすれば、福沢もまたゲルツェンと同様、近代化という点で後れを取った「後進国」に生まれた、先駆的な「近代人」たちの一人だったのである。「独立自尊」をモットーとして、官に拠ることなく在野の経世家に終始した福沢の生き方に、農奴制と専制という不条理の前に首を垂れる知識人たちに向かって「精神的(道徳的)自立」を説き、変革の主体たるべき近代人の形成を促したゲルツェンの生き方に通ずるものを認めるのは、難しいことではない。

 しかし、二人に共通するモットーがそれぞれの国の歴史の中で辿った運命には、おおよそ似て非なるものがあった。

 福沢の生涯は栄光に満ちていた。

 1870年代、新しい政治体制の下で日本に新しい産業が勃興する中で、福沢の「独立自尊」の思想はその担い手たちの倫理的規範として受け入れられ、新しい社会を形成するための一翼を担うことができた。彼の私塾に学んだ青年たちは新しい日本の各界に散り、それぞれに存分の働きをなし、師の盛名をいや増しに高からしめた。彼は晩年「福翁」と称され、1901年、赫々たる人生の幕を閉じたのであった。享年66は当時としては長寿に属する。

 これに対して、ゲルツェンの生涯は悲哀に満ちていた。

 1840年代、厳しい専制体制の下にあって、ゲルツェンの「精神的(道徳的)自立」の思想は、これを社会変革への呼びかけと読み解いた体制によって厳しく処断され、2度の流刑の憂き目を見た。1847年1月に専制の国ロシアを後にしたゲルツェンは、翌年6月、共和制を標榜する臨時政府による民衆の大弾圧という、パリの惨劇を目の当たりにすることになるが、しかしそれでも彼は、「言論の自由」がまだ生きている西欧に留まることを決意し、「人間の自由と尊厳」の旗印の下、ロシアの専制と西欧の資本の横暴を指弾して止まず、遂には異国の土と化したのであった。その最晩年は、野辺送りをする者の中に1人のロシア人もいなかったというほどに、寂しいものだったのである。

(ながなわ みつお・ロシア思想史)


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