【文庫解説】ゲルツェン『過去と思索1』
『過去と思索』は、19世紀ロシアの思想家アレクサンドル・ゲルツェンが執筆した自叙伝です。このたび、初めて7冊の文庫で読むことができるようになります。分量も桁違いですが、「自伝文学の白眉」と称されてきた本だけあって、面白さも桁違い。以下は、第1巻に掲載された、長縄光男先生による「訳者解説」からの抜粋です(訳者解説は全巻に付きます)。
遅れて来た近代人、早く来すぎたポスト近代人
「自画像」は近代人の自己意識の表白と言われる。これになぞらえて言えば、「自叙伝」もまた近代人の自己意識の表白と言えるだろう。確かに、「近代社会」は優れた自叙伝を数多く生み出してきた。例えば、フランスではルソーの『告白』(1782年、1788年刊)が、ドイツではゲーテの『詩と真実』(1811―1831年刊)が、そしてイギリスではJ・S・ミルの『自伝』(1873年刊)などがすぐに思い浮かぶ。ロシアでもこれらと並び「自伝文学の白眉」と称されるアレクサンドル・ゲルツェン(1812―1870)の『過去と思索』(1852―1868年執筆)が生み出されたことは、この国が政治や経済の世界でこそ近代に程遠かったとは言え、文学や思想の世界では、「近代人」が確実に育っていたことを雄弁に証明している。「専制」と「農奴制」という後進ロシアの宿痾(しゅくあ)を克服すべく、その変革の主体となる「近代人」を創り出すこと――これこそがゲルツェンの生涯を懸けた思想的課題であった とすれば、彼はこの作品によって、自らへの課題を見事に果たしてみせたと言えるだろう。
だが、ロシアにおける「近代人」の運命は、総じて、孤独にして悲劇的であった。というのも、彼らの数が圧倒的に少なかったということに加えて、西欧の「近代」そのものが早くもそのメダルの裏側を露呈させつつあったからだ。その意味で、彼らは言うなれば「遅れて来た近代人」だったのである。だが、「近代」のメダルの裏側を撃つということは資本主義と市民社会の批判者となるということ、即ち、この時代では、社会主義的視点を持つということでもあった。サン・シモン主義に逸早く関心を抱いたということが、そのことを示している。その点から言えば、彼らは「早く来すぎたポスト近代人」でもあったのである。
ゲルツェンの精神の目覚め――デカブリスト事件
ゲルツェン(アレクサンドル・イワーノヴィチ)は1812年3月25日(西暦4月6日)、父イワン・ヤーコヴレフ(45歳)と母ルイーザ・ハーク(16歳)の間に、ナポレオンの侵攻直前のモスクワに生まれた。
父方のヤーコヴレフ家はロマノフ王家との縁戚関係を誇る名門貴族であったのに対して、母方の父はドイツの下級の役人であった。こうした年齢の差や身分の差の故か、二人は正式に結婚することはなかったため、アレクサンドルは庶子ということになった。
アレクサンドルには母親を異にする兄(エゴール)がいたが、父イワンはこちらも庶子として遇し、二人にはドイツ語の Herz(心)に由来するロシア姓――「ゲルツェン」を創って与えた。だが、庶子とは言え、その生活は名門貴族の御曹司の名に恥じない、恵まれたものであった。とりわけ、父親の収集したフランス思想、中でも百科全書派の著作に読み耽ることによって、アレクサンドル少年は早熟で多感な少年に育った。ドストエフスキーは、後年、『カラマーゾフの兄弟』の中に少年ゲルツェンを擬した「コーリャ・クラソートキン」なる少年を登場させ、彼のことを大人びて小生意気ではあるが、豪胆で知力に溢れた少年として描き、彼に早くも一党の頭目たる風貌を与えている(第10篇「子供たち」)。
少年ゲルツェンを精神的に目覚めさせ、その生涯を貫く赤い糸となった「デカブリスト事件」(露暦1825年12月14日、以下、原則として露暦で示す)は「ナポレオン戦争」の申し子であった。
1812年、ナポレオンはイギリスに対する「大陸封鎖令」に従わないロシアを制裁するために、60万にも上る大陸軍を率いてロシアの征伐に向かった。この遠征がナポレオン軍の惨憺たる敗北に終わったことは周知の通りだが、ナポレオンの敗北について広く言われていることに、ナポレオンは「冬将軍」に敗れたとする説がある。だが、これは正しくない。ロシアはこの時、官も民も、貴族も農民も、国民の全てが文字通り一丸となって祖国の防衛に立ち上がったのである。本分冊冒頭の回想からは、当時の愛国的昂揚の一端を垣間見ることができるだろう。
この出来事の思想史的意義は絶大であった。その意義の最たるものは、この戦争が若い貴族知識人たちと民衆との出会いの場となったことにある。戦場で寝食と苦楽を共にする中で、青年貴族たちはこれまで無知蒙昧にして粗野な存在としか認識していなかった民衆(ナロード)の中に、自分たち以上に強固な愛国心と、それを支える高い道徳性と深い精神性とを見出した。彼らは民衆の中にこそ、ロシアの民族性の真髄を見たのである。この発見は「民衆信仰」として、爾来、ロシアの変革思想と革命運動の根底にあり続けることになる。
だが、この戦争の勝利の真の立役者であった民衆の境遇は、戦後においてもいささかなりとも改善されなかった。このことに青年たちは不満であった。この不満は青年貴族の精華ともいうべき近衛連隊においてとりわけ強かった。かくして、ここに幾つもの秘密結社が生まれた。それらはやがて南部と北部の結社に集約された。その大まかな違いを言えば、南部結社が共和制を、北部結社が立憲君主制を目指していたところにあったが、いずれにしろ、帝政を守護すべき近衛の士官たちの間に、反帝政の秘密結社が形成されるという、由々しい事態が密かに進行していたのである。
まさにこのような時に、皇帝アレクサンドル一世が50歳を前にして亡くなった(1825年11月19日)。その死が余りに突然であったために、帝位の継承を巡って混乱が生じた。本来の継嗣である弟のコンスタンチンはポーランド婦人と結婚していたために、すでに帝位の継承権を放棄していたのだが、この意志は兄帝による了解の次元にとどまり、公的機関によって法的に承認されてはいなかった。しかし、彼の即位辞退の意志は固かった。他方、二人の兄の黙約を聞かされていなかった末弟のニコライは、帝位の継承を躊躇した。こうして、ヨーロッパの一大強国に最高権力者が不在のまま、数週間が空転することになった。この混乱に乗じて、近衛連隊内の秘密結社の動きが顕在化する。その危機を察知したニコライは急遽即位を決意し、12月14日、近衛連隊による新帝に忠誠を誓う宣誓の式に臨んだ。しかし、連隊の内、秘密結社の影響下にある部隊は宣誓を拒否し、「ニコライ万歳」と叫ぶ代わりに「憲法万歳」と叫んだ。式場は混乱し、小さいながらも戦闘状態が生じ、死傷者も出しはしたが、「反乱」はすぐさま鎮圧された。
これが後に「デカブリストの反乱」と呼ばれる事件のあらましである。
この事件に対するニコライの対応は苛烈であった。大方の予想に反して、ニコライは首謀者と目される5名の近衛士官を絞首刑に処し、同じく、100名を超える士官たちをシベリアに追放したのである。以後、ニコライ治下のロシアは帝政下において最も整備された厳格な警察国家と化して行く。ゲルツェンの青年期はこのような時代の中で過ごされ、彼自身二度の逮捕・追放を経験することになる。
この「決起」は準備不足や理念自体が早熟だったこともあって、失敗を余儀なくされた。しかし、むしろ失敗することによってこそ、それは後世に向かって浪漫的な光彩をひときわ強く放つことになった。さらには、流刑された青年たちの受難に殉じて、彼らの妻や姉妹たちが首都での安逸な生活を捨て、酷寒の地シベリアに赴くという麗しいエピソードも続き、青年たちのヒロイズムをいや増しに掻き立てた。以後、デカブリストたちへのオマージュは数限りなく続くことになる。ゲルツェン少年とその生涯の盟友となるオガリョーフ少年による、「雀が丘」での「ハンニバルの誓い」もまた、そのようなヒロイズムの所産であった。
この「誓い」はそれ自体としては、年端も行かない少年の約束事として、あくまでも私的なエピソードの域を出るものではないはずだったが、二人がその盟約を違えることのない生涯を送り、しかも、その活動が「デカブリストの反乱」とそれ以後の革命運動との結節点となることにより、歴史的な意義を持つことになったのであった。
(全体は、本書『過去と思索1』をお読みください)