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山崎ナオコーラ 家庭科はすべてを変える[『図書』2025年6月号より]

家庭科はすべてを変える

南野忠晴『正しいパンツのたたみ方』

 南野忠晴『正しいパンツのたたみ方』

 書名を聞いて、「洗濯物をたたむ方法の正解を教えてくれるのかな?」なんて、つい思ってしまう。読んでみる。たたむ方法がいくつか提示してはある。でも、正解はなさそうなのだ。

 一緒に暮らす家族のそれぞれがパンツのたたみ方にこだわりを持っている場合がある。そんなとき、どうするのか?

 たたみ方の正解を見つければよいのか。あるいは、たたみ方が下手な自分が悪いとひたすら謝り、相手に合わせて生活するのか。はたまた、コミュニケーションで落としどころを見つけ、互いのやり方を尊重しながら、できるだけ快適に暮らせるように努めるのか……。いや、パンツのたたみ方で揉めたときの解決法は、家族の数だけあるのに違いない。

 国や町の動かし方に正解がないのと同じように、家庭運営のやり方にも正解はない。正しさを求める教科ではないのだ。

 家庭科を学ぶことによって得られるのは、固定観念から解き放たれて家族の形の多様さに思いを馳せられるようになること、自立の足がかりを得て心地良く暮らせるようになること、様々な仕事を尊重しながら社会の中で生きていけるようになること……。決して家事の技術だけを手に入れる教科ではないし、答えのある学問でもない。

 著者の南野忠晴先生は、英語教師として高校で十三年間教えたあと、思うところあって家庭科の教員免許を取り、家庭科の授業を受け持つようになったそうだ。家庭科は一見、受験や就職に関係がなさそうだが、この本を読むと、受験や就職につながっていくことが感じられ、自分の子どもにもしっかり教えたいな、という気持ちになる。そして、自分自身、高校のときにちゃんと家庭科を勉強すればよかったな、そうしたら今の人生がもっと素敵に変わっていたかもしれない、と悔しさも湧き上がる。

 いや、今からだって遅くはない。高校に入り直すのは大変だが、本がある。本書を読めば、家庭科という教科の輪郭が見えてくる。

 大人だって、家庭科について、学び直せば良いことが起こるに違いない。誰だって生活をしている。あるいは家事を外注しているとしても、家事とは何かを知っているのと知らないのでは、自立の度合いが異なってくる。一人暮らしでも、自分自身が家族だ。日本では仕事をするだけで「社会人」と呼ばれるが、経済的自立だけが自立ではない。どうすれば生活が心地良くなるのかを理解し、一緒に暮らす人たちとコミュニケーションを取り、地域社会に溶け込むことで、自立が進んでいく。

 人間は社会的動物で、すべてを一人だけでこなすことはほぼない。生活上のことをなんでもできることを目指すのではなく、適度に周囲に頼り、コミュニケーションを取ることが、自立になる。これがなかなか複雑で、ときに失敗する。

 南野先生の家庭科の授業には、DVや「支配」「依存」の話も出てくる。家族や親子や恋人同士の関係は、ときに「支配」や「依存」で成り立ってしまう。高校生のカップルでも、「支配」や「依存」の雰囲気が漂うことがあるようだ。家庭科を勉強したところでそうならないようにするのはきっと難しく、関係を変えるのは容易ではなさそうだ。ただ、「こういうのが「支配」なんだ」「ああいうのを「依存」と呼ぶのか」というほんの少しの知識が、その関係から抜け出すきっかけになるかもしれない。

 冒頭のパンツのたたみ方の話だって、そうだ。もしも、「性役割があるのだから、やってもらって当然」とか、「僕は家事が下手な性別なのだから、相手から怒られても仕方ない」などと考えた場合、「支配」や「依存」の関係に流れてしまうかもしれない。けれども、それぞれが自立していて、自分で洗濯物をたためて、その上で相手のやり方を尊重しながら暮らすのならば、どうだろう。良い関係が作れるのではないだろうか。あるいは、病気や、「障害」や、別の仕事の忙しさなど、事情があって家事ができないときだってある。できるようになることが自立ではない。できないことがあっても、自立はできる。誰にだって、得意・不得意がある。やりたくてもできないときだってあるのだ。互いに理解し、支え合えば、自立ができる。

 経済面でもそうだ。働きたくても働けない人がいることについて、南野先生は次のように書いている。

 「でも、当事者だけが悪いなどということは絶対にありません。「労働が社会に対する義務」なのであれば、「個人個人に合った仕事を用意するのは社会の側の責任」なのです」

 仕事も家事も、個人の問題ではなく、社会の問題だ。一人で責任を感じて抱え込むのではなく、みんなで考えていくことが大事なようだ。

 授業シーンがたびたび描写されるが、南野先生が生徒に向かって上から何かを教えることはほとんどない。南野先生が質問や考えるきっかけを投げると、生徒たちが各々考え、発言する。答えや思考回路は生徒によってまちまちで、授業はどこに着地するのか、事前にはわからない。教育とは、こういうものなんだなあ。一方通行ではなく、双方向のコミュニケーションで、みんなで進めていく。家庭科は「暮らし方」という小さな世界に関する身近な勉強だが、これを各々が勉強すると、社会全体が変わっていく。

(やまざき なおこーら・小説家)


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