玄奘 ――大唐帝国の創成期を彩る求法僧 荒川正晴
魏晋南北朝から隋唐時代にわたり、中国から仏教の本場インドに向けて旅立った「渡天竺僧」と呼ばれる数多くの僧侶(梁啓超によれば存在が知られるものだけでも一六九名)が出現した。その旅の記録を現在に伝えている僧侶はほんの僅かしかいないが、ここに取り上げる玄奘(六〇二―六六四)はそうした僧侶の一人である。たとえ玄奘の名を知らなくとも、『西遊記』という名の小説や劇・テレビドラマ・映画などを通じ、三蔵法師としてその存在は世間に知れ渡っている。そのため彼の旅の様子や人物像については、それら創作物によって作られたイメージが強く纏わりついている。ただ彼が残した著作物を見ると、一般に理解されている旅の雰囲気とはかなり異なる側面も認められる。そこで今回は玄奘の旅の実際の姿を紹介してみたい。そこから、東アジアを越えてパミール以西のトルキスタンやアフガニスタン・インドまでも包含する広域空間を、当時の僧侶や商人らがいかに移動していたのか、その一端をうかがうことができるはずである。また玄奘といえば、インドとの往還を通じて持ち帰った多くの仏教原典を漢訳したことで名高いが、その前提には従来の漢訳経典などでは理解の及ばない仏法の真意、とりわけ唯識の思想をインドで究めようとする熱い思いがあった。ユーラシア東部を舞台に展開していた、この求法という行為についても改めて考えてみたい。
インド行の現実
中国から天竺(インド)への旅といえば、生死を左右するかなり困難な状況をともなうものであったことは容易に想像できる。そのため、彼の旅が事前の入念な準備のもとに行われていたことを忘れることはできない。とくに注目されるのは、彼の旅の記録である『大慈恩寺三蔵法師伝』(以下、『慈恩伝』と略称)を見ると、彼が唐領内を出てまず目指したのが、天山山脈東部の北麓にある「可汗浮図城」(現在の新疆ウイグル自治区ジムサ付近)であったことである。「可汗浮図城」は、当時の遊牧国家である西突厥の領域東端の拠点であり、玄奘が当初より西突厥の領域を経由してインドへ赴こうとしていたことは明らかである。というのも、当時、中央アジアを旅行するのは西突厥の交通システムを利用するのが最も安全であったからである。具体的に言えば、西突厥では遊牧国家としてウラクと呼ばれる交通システムを設けており、このシステムを利用できた者にはトップリーダー(可汗)の命令のもとに馬や人が付けられて護送され、領内を安全に移動することができた。当然、滞在するオアシスごとに宿食の便宜が図られていたことは言うまでもない。遊牧国家の支配秩序に依ることが、如何にシルクロードの安全な旅につながるか、玄奘は熟知していたのである。少なくとも彼の旅は西突厥の支配領域内(現在のアフガニスタンのカーピシー辺りまで)では顎足付き、護衛付きのきわめて安全な旅行であったに相違ない。
玄奘が、この旅に関する重要な情報をどのように入手したかは、いろいろな可能性が考えられる。桑山正進氏は、西突厥の統葉護可汗の宮廷(オルド)に滞在していたインド出身の僧、プラバーカラミトラ(明知識)が武徳九年(六二六)末に長安に来住しており、玄奘はその彼からインドの仏教事情とともに当地への安全な交通方法について情報を入手していた、という(『人物 中国の仏教 玄奘』大蔵出版、一九九一年〈新訂版〉、五五頁)。武徳九年といえば、あの有名な玄武門の変が起こり、李世民が皇帝(太宗)に即位した年である。大変に魅力的な説であるが、『慈恩伝』その他の史料などには玄奘とプラバーカラミトラの邂逅はまったく伝えられていない。むしろインドへの出立を決意した日に、玄奘は「天竺行」の成功如何を都の長安で占ってもらっており、その占者が何弘達(何はイラン系オアシス民のソグド人が、中国で名乗っていた姓の一つ)であったことに注目すべきではなかろうか。この時、何弘達は呪文を誦えて占っているが、そもそも移住ソグド人コロニーの中核施設となる祆祠(祆教〈ゾロアスター教のソグド的変種〉の神殿)を主る祆主(祭司)が、幻術や占術などを駆使したりしていたことは有名であった。この何弘達もそうしたソグド人コロニーに関わる人物であった可能性は高い。遥かな旅路に就こうとする者が、祆祠で祈りを捧げていたことを敦煌文書などにうかがうことができるが、玄奘も彼の旅の安全を祈願して祆祠を構える近くのソグド人コロニーを訪ねていても不思議ではない。とすれば、玄奘はソグド人たちからインドまでの旅の情報を入手していたことは十分にあり得る。
玄奘は出発後においても、ソグド人交易ネットワークの重要都市であった河西の涼州で、ソグド商人らから多額の金銭・銀銭や奴婢・馬の布施を獲得したりしている。また玄奘の旅では苦難の多い道程となった瓜州から伊吾(ハミ)への沙漠行も、瓜州で授戒したソグド商人を介して買った馬で出発し、結果として何とか無事に乗り切っている。そして唐領内を出て最初に到着した伊吾には当時、ソグド人の植民集落が形成され、そのオアシスを支配した王(首領)もソグド人であった。玄奘は、もともと伊吾から先述した「可汗浮図城」へ出る予定であったが、それを変更させたのは隣国のオアシス国家・高昌国の王であり、その命を受けた伊吾のソグド人首領であった。結局、玄奘は回り道したトゥルファンの麴氏高昌国で歓待を受けたうえ、高昌王と西突厥の可汗とが親戚関係にあったこともあり、王の紹介状によって西突厥の交通システムを容易に利用することができている。また高昌国から可汗庭までの旅についても、膨大な金品と人員が麴氏王より玄奘に供与され、そのなかには王の側近であるソグド人もいた。西突厥の可汗もソグド人を通訳として彼の旅に同行させている。要するに玄奘は、唐領内を出るとソグド人らのサポートと西突厥の交通システムに乗り、金銭の苦労も身の安全もかなり保障された状態で旅を続けられたのである。なお一般的に玄奘はインドから中国にはない仏教経典の原典をもたらしたことがよく語られるが、実はこのインドで入手した経典はほとんど帰路において失ってしまった。紛失した多くの経典はコータンからクチャやカシュガルに人を派遣して補充したのである。翻訳経典の原典を取得するだけであれば、タリム盆地周縁にあるオアシス国家で十分に事足りたわけである。
仏教文化圏としてのユーラシア東部とサンスクリットの流布
ところで玄奘が旅に出る準備の一つとして、当然、仏教経典の原語であるサンスクリット(梵語)の習得に励んでいたことは言うまでもない。またサンスクリットは聖典の原語ということだけでなく、玄奘をはじめとする渡天竺僧らがインドに向かうにあたり、重要な意思疎通のための旅の言語としても機能していたと見られる。というのも、僧侶たちは行く先々の寺院に投宿して旅をするのが一般的であり、そうしたインド行の途上に置かれた中央アジアや東南アジアの諸寺院ではサンスクリットを用いて会話することができたと思われるからである。この点に関連して、はるばるコータンのオアシスから中国の五台山に巡礼に出るにあたり、コータン語を母国語とする僧侶が頼りにしていた日常会話練習帳が敦煌で発見されているが、そこで媒介言語として取り上げられているのがサンスクリットであった(吉田豊「オアシスの道――玄奘は何語で旅をしたか」『言語』第二九巻第六号、二〇〇〇年六月号、三九―四三頁)。このことは、当時のユーラシア東部の僧侶たちは中国内にあってもサンスクリットを媒介言語にして比較的容易に旅行ができたことを示唆している。四世紀以来、ユーラシア東部に仏教が次第に浸透・定着していったが、それとともにサンスクリットはユーラシア東部の国際語となっていったのである。玄奘にとって、サンスクリットは経典の言語であるとともに、実用的な意味でも重要な意思疎通のためのツールであった。
求法という行為
玄奘の旅は、確かに比較的安全なものであったが、その彼でさえ瓜州から伊吾への沙漠行ではほとんど死にかけている。「渡天竺僧」で生還できたのは一握りの僧侶であったことを考えれば、求法という宗教的行為は、自らの命を捧げる覚悟で行うものであった。また白須淨眞氏が指摘するように、この求法なる行為は、魏晋南北朝~隋唐期の古代東アジア世界にしか見られない現象であった(『大谷探検隊とその時代』勉誠出版、二〇〇二年、一〇七―一一一頁)。実は求法という行為自体は、宋代においても継続しており、敦煌には玄奘の『大唐西域記』を書写した僧侶の写本が残され、既に一〇世紀の段階で玄奘が「渡天竺僧」の先達として信奉されていたことが知られる。ただこの時期になってくると、交易目的でインド方面へ旅立つような僧侶も多くいたようだ。
この単なる聖地巡礼を超えた求法という行為が、古代東アジア世界つまり漢訳経典により仏教が広まっていた地域の一時期に限定されて起こっていたのである。その背景としては中国への仏教の伝来が当初、大乗・上座部系仏教が混在したかたちで伝播していたことがあり、仏典を漢訳しても仏教教理を伝えるという面ではとても不十分な内容にとどまっていたことがあろう。四、五世紀以降、多くのガンダーラ僧やインド僧が翻訳に従事してゆくが、それでもなお仏教教理の真なる理解を求めて多くの中国僧および新羅・日本の僧侶が遠くインドに向けて旅立ったのである。
そもそも仏教は、世界に広く流布する宗教としての性格が、神からの啓示を受けた預言者が創始したキリスト教やイスラームなどとは根本的に異なる面をもつ。とりわけ求法僧が求めた仏法の真意、なかでも玄奘が求めて止まなかった唯識の思想には、現代の心理学を凌駕する「こころ」の解明に重要な示唆を与える部分がある。仏教哲理には宗教という枠を大きく越えて、これからの時代を切り拓く重要な鍵があるように言われるのも頷ける。偉人と称えられる玄奘も名も知られず没した数多くの求法僧とともに、当時の時代が生んだ存在であった。今という時代も、彼らが伝え深めようとした仏法の真意を現代に生かす人々の登場を強く求めているように思えてならない。
(あらかわ まさはる・中央アジア史)
『図書』2022年4月号に掲載