web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

〈リレー連載〉人物から見た世界歴史|『岩波講座 世界歴史』(全24巻)完結!

韓非子 ――時空を超えての対話 冨谷 至

質問者(以下、Qと略称): 二〇二一年のいま、世界はいくつかの困難に遭遇しています。人間の善意、為政者のありかた、幸福とは、そういったことが分からなくなってきました。先生のご意見をお聞きします。まず、何を信じて生きていけばいいのでしょうか?

韓非(紀元前三世紀後半の法家の代表的政治思想家。以下、Kと略称): 信じる? 何を、また誰を? 甘いな。人を信ずることなど、愚かなことだ。親子、兄弟同士も同じだ。すべての悲劇は、人を信ずることから生じる。肝に銘じておくことだな。人を信ずれば、人にいいようにされ、馬鹿をみる、と。

: それはどうしてなのですか? なぜ、信頼できないのでしょう?

: 簡単なこと。人間とは、利己的、打算的な動物だからだ。自分に利があると思えば何でもする。人を信ずるとは、人が自分の為に何かしてくれると思い、人が自分を裏切らないと勘違いすることだ。しかし、さあどうかな? いくつか、例をあげてみよう。

 鰻と蛇は同じような形をした生き物であり、かいこと毛虫もそうだ。しかし、人は蛇を忌み嫌い、毛虫をみれば、身の毛がよだつ。一方で、女性は蚕を平気で摘み上げ、漁師は鰻を素手で捕まえてなんともない。同じ形をしているのに、こう違いが出るのは、なぜだと思う? それは、そこに利益があるか無いかによるのだ。医者が患者の傷口の血を口に含んで治療するのは、肉親の情と同じ慈愛からと思うのか? そうではないだろう。そこに儲けがあるからだ。車作りが車を作ると、誰もが金持ちになってほしいと願う。葬儀屋は一人でも多くの人が死んでくれたらと願う。なにも車作りが仁愛に富んでおり、葬儀屋が悪人なのではなかろう。

 いま、肉親の情といったが、親の子に対する愛情、子の親に対する敬慕、兄弟同士の親愛、これは人が生まれたときから備わっている性情だと孔子は言う。「孝悌こうていなるものは、仁の本たるか」と。しかし、かりにそれが本当なら、なぜ、世の親は、男の子が生まれれば祝福するが、女子が生まれれば間引いてしまうのか。後の便宜を考え、先々の利益を計算するからではないか。得をすると思えば、仲良くなり、損をすると思えば、親子の間にも恨みの気持ちが生ずる。親子関係など所詮他人と同じだ。

: おっしゃる通りかもしれません。今我々が生きている世の中では、どちらかといえば、女の子をほしがる親が少なくありません。娘なら老後の面倒をみてくれるからだと。また児童虐待、親の介護の放棄が起こっています。なぜ人はかくも打算的なのでしょう?

: 人間には持って生まれた欲というものがあり、その欲を自分の中で制御できないからだ。私の師である荀況じゅんきょう先生は、はっきりこういっている。「人は、腹が減ると腹一杯食べたく思い、寒いと思えば暖を求め、疲れたら休みたいと思う。綺麗なものを見たい、心地よい音色を聞きたい、美味しいものを食べたい、豊かになりたい、楽をしたい、このようなことは、すべて人間の生まれつきの性だ。利己的、打算的とは、自分の欲に従う行動である。しかし皆が本性のままに行動すると、当然、欲がぶつかり合って争いがおこり、社会の混乱を招くことになる」。

: たしかに、我々の世でも、自己管理、自己制御ができない人が多いです。体に悪いから禁煙しなければと分かっていても、できない。体重を減らさないといけないのに、飲んだり食ったりしてしまう。そうそう、酒といえば、今世の中では飛沫によるウイルス感染が深刻で、人が集まって酒を飲むと、長時間にわたって、大声でしゃべり、感染予防の警戒が弛緩しかんしてしまうので自粛せよといっても、飲み会の誘惑に勝てず感染が蔓延する事態が起こっています。

: 自粛、我慢? 自分で自分を制御し、理性で欲望をおさえられない凡百ぼんぴゃくにそんなことを期待することが間違っている。

: しかし、荀先生は、生まれた後に教化、礼義にそった指導をおこなって、はじめて、人に譲り合いの精神、自制心が生じ、条理にかなった行動を皆がとり、世の中が治まると言っておられます。中には、自制心をもった人間もいるではないですか。

: 荀況師ご自身は、あまりに聡明・理知的、その考えは他の諸子に抜きん出て論理的であった。それゆえ、ご自分同様、一般の民にも知が備わっていて、その知が外からの教育を受容し、教化できると説かれた。「青は藍より取りて藍より青く」、先生が信じてやまない人間の努力と学習だ。しかし世の中全体がそうなるのは、可能と思うか? 可能ならば、なぜそうならない? 単に学習しないのか、学習を放棄したのか。確かに、自制心があり、自分の欲を制御できる人間は、ゼロではない。だがあまりに自己制御できない人間、「分かっているけど、つい◯◯をしてしまう」という台詞がいつの世、いずれの国にも多いのは、何故か。君の時代までの二千年、何も変わらないではないか。絶対多数は理性的判断ができず、本能的に功利へと向かう。現実がそれを証明しているではないか。我々は、絶対多数の現実を認め、現実にそって考えねばならないのだ。

: 先生の人間の性の分析は、世の中の安定秩序を考えるための道程と思います。では、次にお伺いしますが、社会の安寧と幸福を達成するために為政者のすべきことは、何でしょうか。

: 成文法を制定し、これに従って政治を行うことだ。法はいわば、定規のようなもので、行政、裁判、すべてをこの定規にあわせて粛々と処理していく、そうすれば、出現するかしないか分からない聖人君主による政治など期待せず、凡庸な為政者でも、失敗することなく、簡単に統治できるのだ。しかも、法は身分の高い者に阿らない。法の適用は、知者も言い訳することはできず、勇者も争うことはできない。上に立つ者の過失を矯正し、下の者の邪悪を咎め乱脈を治め、人民の守るべき軌を一にするのは、法をおいて他にはない。

: 法はあっても皆がそれを遵守せねば何にもなりません。どうすればいいのでしょうか。

: 刑罰と褒賞だ。先の人間の性の議論は、ここで重要となる。人は利己的、打算的と言った。利を欲するものは、その裏返しの不利益を本能的に嫌う。不利益の最たるものは、身が毀損され、果ては殺されることである。逆に、名誉と金銭は、欲を満足させるがゆえに、だれしもが望む。法を遵守させる手段は、この刑と賞という二つのハンドルを有効に使い、凡百が無意識に従うようにすることである。

 刑罰については、覚えておかねばならない重要な事が三つある。一つは法を犯した者には、刑罰を確実に執行することだ。必ず誅罰ちゅうばつされるとなれば、誰も罪を犯さない。法律の条文に抑止効果があるという考えもあるようだが、それは全く誤りだ。法律を読んで、この処罰が科せられるので犯行をやめる、これはいわゆる「知」による判断で、凡百にそのような認識を期待することは無理だ。無意識の潜在的性に刑罰忌避を焼き付けるしかない。

 もう一つは、刑罰は重刑を旨とする。「刑罰を重くすると、人民を傷つける。刑罰を軽くしても悪事を予防できるのに、どうして重くする必要が有るのか」という意見があるようだが、良く分かっていないものの言葉だ。そもそも、刑が重いからといって悪事を犯さない輩は、刑が軽い場合に悪事から遠ざかるとは限らない。しかし、軽い刑で悪事を止める者は、重刑が用意されておれば、当然悪事には手を出さない。

 第三点は、法に触れた者を制裁するのは、死人を取り締まるようなもの、刑罰は、犯罪者を咎める為のものではないということだ。一個の犯罪を重く罰して、国中の悪を阻止するのが目的であって、盗賊に重罰を処して、それでもって良民の犯罪を予防するのだ。

: それは苛政ではないでしょうか。

: 国を治めるということは、明確な法律を制定して、厳格な刑罰を施行し、それでもって万民を混乱から救済し、強者が弱者を陵辱せず、多数が数に任せて横暴なことをしない社会、老人が安らかな老後を過ごし、孤児であっても健やかに成長する世の中、君主と臣下、親と子の関係が親密に保たれ、殺されたり、捕えられたりする心配がない関係、こういった状態をつくることだ。これこそ君主としての最高の功績である。しかしながら、愚かな者は、それが分からず、このことを暴政と考えているのだ。

 法に従って刑罰をおこない、君主がその為に涙を流すというのは、仁愛を施したことにはなろうが、政治を行なったとはいえない。可哀想にと思い刑を執行しないこと、なるほど優しさかも知れぬが、どうしても執行しなければならないというのが、法律である。決断というのは、ものごとを切って捨てること、その反対は優柔不断だ。はっきり言おう。優しさだけでは、政治はできない。

【対話を終えて】

 韓非は人の性を考察するうえで善・悪の価値判断を考察の対象におかず、あるがままの現実にのみ立脚し、刑罰による威嚇・予防の理論を積み上げていった。統治の対象たる人間を集団としてとらえることから、個性には極めて冷淡である。個性とは、人間を独立した人格をもつ存在と見て、個別の特性はそこから導き出されるが、韓非にはかかる発想はなかった、否、それは分かっていたのかも知れないが、少なくともそういう方向では考えなかった。人間の共通した本性は、損得に対する本能的打算であり、欲に基づく利己的行いをとる輩が絶対多数を占める。韓非は事柄の分析と政策の遂行において、常に視点をこの絶対多数の凡庸に置いていた。ただ、かかる過程で欠落していったもの、それは個別の人間の固有の独立性、後の時代で言う「人権」であった。

(とみや いたる・中国史)


『図書』2021年12月号に掲載

『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

バックナンバー

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる