トゥルハン后の墓所に眠る人々 林佳世子
オスマン帝国は、一つの王朝が中世から近代まで続いたという点で、非常に長命な帝国だった。その間に三六人の君主が在位した。有名なスレイマン一世は第一〇代である。スレイマン一世は有名なだけでなく、オスマン帝国の長い歴史の画期になったことでも重要である。それ以前の君主は、自らのアイデアで国家の舵を取り、戦争を率い、戦時国家体制の中核を体現した。しかし、彼以後の時代は、いわば近世官僚国家となり、君主は体制の歯車の一つとなった。スレイマン一世までの九人に指導者として有能な人物が続いたこと、そしてスレイマン一世以後の時代に「歯車」に甘んじ、無用にリーダーシップを取ろうとしない従順な人物が続いたことが、幸運にも長命なオスマン帝国を現出させた。
そのことはこの三六人の墓所にも表れている。スレイマン一世以前の君主は、伝説的な創生期を除けば、自らモスクを建て、そこに自らの墓所を造り、単独で葬られた。しかし、スレイマン一世以後の君主は、一人(アフメト一世)を除けば、既存のモスクなどに独立した墓所を建てられれば御の字(独立した墓所を建てたのは、ダマスクスに眠る最後の君主を含め一一人)、その他は誰かの墓廟に合葬された(一五人)。自身の墓所をもつことは君主の夢だったに違いないが、その夢の実現は、血で血を洗う継承争いの結果に左右された。
合葬先の墓廟は多くは歴代君主の墓廟だが、一七世紀から一八世紀の五人の君主は、トゥルハン后(Hatice Turhan Sultan)と呼ばれるメフメト四世の母后の墓廟に合葬された。トゥルハン后のわずか一五メートル四方の墓廟は、この五人の君主を含め、その娘や夭折した息子ら八二人の墓でごった返している。
トゥルハン后の出身はロシア方面といわれる。今でいえばウクライナだろう。クリミア・ハーン国の騎士らによる遠征で捕虜となり、オスマン宮廷に奴隷として献上された。ムラド四世の母后として宮廷内で権勢をほこっていたキョセム后の目にとまり、ムラド四世の弟のイブラヒムの側室となり、一六四〇年のイブラヒムの即位ののち、一六四二年に一五歳前後でその子を産んだとされる。精神に異常のあったイブラヒムが廃位され(のち、殺害)、彼女の生んだメフメトが一六四八年にメフメト四世として七歳で即位したのちもキョセム后が宮廷内を「大母后」としてしきっていたが、やがて、常備軍の司令官らを巻き込んだ勢力争いが激しくなり、一六五一年にキョセム后の殺害にいたる。そして、トゥルハン后がメフメト四世の母后として大きな影響力を持つようになる。
オスマン帝国の年代記作者らが、彼女の功績として最も強調する点は、宮廷の政治への介入などで長く続いた混乱を抑えるため、経歴としてはかなり傍流を歩いてきた実力者キョプリュリュ・メフメト・パシャに全権をゆだねたことである。こうした記述には、男性中心の社会観が垣間見える。しかし、その後もキョプリュリュ・メフメト・パシャやその一族は、トゥルハン后に政治の相談をし、ダーダネルス海峡への軍事城塞の建設を委ねるなど、彼女の財力を頼みにした。
財力は、宮廷の高位の女性たち(母后、王妃、君主の娘である皇女ら)に共通するものである。彼女らには日給で多額の給金が支払われていたほか、農村や遊牧部族などの徴税権が国庫から提供されたことにより、大きな財力を形成していた。これは、即位した君主が兄弟を殺す「兄弟殺しの法」が実施されなくなったのち、君主の兄弟は宮廷内に幽閉され、財力を持たなかったことによる。このため、王家の財力を使った公共支出は、高位の女性を頼って行われた。
財産を割り当てられた女性たちは、多くの場合、自らの財産を宗教寄進にあて、王家による公共事業を演出した。歴代の母后や妃のなかでもトゥルハン后の宗教寄進は突出している。重要なものは、先に挙げた軍事要塞の他、イスタンブルの金角湾の港に建つイェニモスクを中心とした施設群、そして多数の蔵書である。イェニモスク施設群は、学校や市場、泉亭などからなり、そこには冒頭にあげた彼女の墓廟が含まれている。一七世紀の港湾地区の再開発の核となった建築事業であった。
このモスクは、もともとは一六世紀末に、メフメト三世の母后サーフィエ后により建設が開始されたものだった。しかしメフメト三世の死により母后の座を奪われたサーフィエ后の失脚により頓挫し、数十年に渡って放置されていた。市の最も重要な場所に残された建設途中の建物の建設を再開したのは、トゥルハン后のイスタンブルへの愛情の現れかもしれないが、一つの説明としては、宗教的意識の高まった一七世紀において、「エディルネ出身ユダヤ教徒地区」として知られていた建設対象地域からユダヤ教徒を追い、イスラム教の興隆をアピールする狙いがあったともいわれる。最初の工事の時に立ち退きを約束していたユダヤ教徒商人らが、この中断の間、再びこの地区に戻っていたとみられるからである。テイス・シェンオジャクの研究によれば、モスクの入り口の一つに掲げられたのは、預言者ムハンマドがユダヤ教徒のナーディル族を破ったことを語ったコーランの章からの一節である。教養のある人々には、この章句が選ばれたわけが分かっただろう。
トゥルハン后のモスクは、今はエジプト・バザールの名で知られる市場で囲まれている。L字型の建造物に含まれる店舗はモスクへの寄進財とされ、そこでは香辛料やコーヒーなど、エジプト方面からもたらされる産品が取引された。コーヒーの焙煎工場もトゥルハン后の寄進物件に含まれていた。
政治的には、トゥルハン后はわずか七歳で即位したメフメト四世の後見人だった。前述のとおり、メフメト四世即位後もしばらくはキョセム后の影響力が大きかったが、その殺害後はトゥルハン后が宮廷を牛耳った。メフメト四世が成人すると、両者の間に軋轢もあったとみられるが、トゥルハン后が政治的な舞台から消えることはなく、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト一世とその妻のマルガリータ・テレサへ宛てた書簡に見られるように、外交的な活動を引き続き行った。
一方、その子メフメト四世は全く指導力のないスルタンだった。幼児期に君主の座につき、十分な教育を与えられなかったためともいわれる。君主としての自覚が乏しく、多くの時間を趣味の狩りに費やした。そのために首都を離れて狩場に囲まれた旧都エディルネに滞在し、イスタンブルにはよほどのことがない限り戻って来なかった。自ら参加した一六七三年のポーランド遠征でも、狩場で長い休息をしている。遠征には宮廷に集う娯楽の取巻きたちだけでなく、愛妻のギュルヌシュ・エメトゥッラー妃も同行し、遠征途中で王子アフメド(のちの、アフメド三世)を生んでいる。
メフメト四世のエディルネ滞在に伴い、トゥルハン后はエディルネとイスタンブルを行き来した。港湾地区の再開発は、イスタンブルに姿を見せない君主に代わり、オスマン家の存在感を知らしめることも目的だったとみられる。首都に不在の君主に代わり、権力の可視化が意識されていたことは疑いない。
トゥルハン后が任命したキョプリュリュ家の歴代大宰相の功績で、クレタ島を征服するなど、一七世紀後半のオスマン帝国の国勢は回復傾向にあった。しかし、トゥルハン后が亡くなる一六八三年に事態は暗転する。反対していたトゥルハン后を説得し、オーストリア方面への拡大に挑んだ新大宰相が、トゥルハン后の死の直後にウィーン包囲に失敗し、その後、有力軍人らの権力闘争が激化する。そして、ロシアやオーストリアの攻勢の前に、オスマン帝国の中央ヨーロッパからの退潮が顕著になる。それでもメフメト四世は狩りに興じることをやめなかった。事態打開のため、軍人らの間で君主の交代が画策され、母の死で後ろ盾を失ったメフメト四世は退位に追い込まれた。年代記作者のスィラフタールは、トゥルハン后の死を「国家の柱が逝った」と述べている。彼女の死は、オスマン帝国にとっても一つの転機となった。
そして、トゥルハン后は、前述のように、イェニモスクの複合施設の一角に建てた自身の墓廟の中心に葬られた。その横には、退位後の幽閉ののち一六九三年に亡くなった息子のメフメト四世、さらにメフメト四世の子のムフタファ二世、アフメト三世、ムフタファ二世の子のマフムド一世、オスマン三世が埋葬された。彼らは、王家の慣例に従い長い期間、宮廷の一角に幽閉され、前君主の死により即位の報がもたらされるか、あるいは、権力闘争のなかで処刑されるかの恐怖の中で過ごした。その期間は、マフムド一世の場合は二七年、オスマン三世の場合には五三年にも及んだ。猜疑心の塊となったオスマン三世は、自身に世継ぎがいないにもかかわらず、後継候補の毒殺を企てたといわれる。オスマン三世は、本来自身が完成させた新たな墓所に華やかに埋葬される予定であったが、従弟で、後継者となったムフタファ三世がそれを阻み、その遺体をトゥルハン后の墓所に詰め込んだ。トゥルハン后は、その死後も、母・祖母・曽祖母として、不幸な生涯を送ったオスマン帝国の君主らに、永遠の眠りの場を提供することになったのである。
(はやし かよこ・西アジア史)
『図書』2023年2月号に掲載