web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

〈リレー連載〉人物から見た世界歴史|『岩波講座 世界歴史』(全24巻)完結!

カタリーナ・デ・サン・フアン、あるいはチーナ・ポブラーナの軌跡 安村直己

 いまから三〇年以上前、メキシコに留学したときのこと。街でメキシコ人と知り合い、少し親しくなると、「お前はチーナ・ポブラーナについて知っているか」と聞かれては「知らない」と答え、がっかりされた。数回同じ経験をした私は、スペイン留学中に知り合った歴史研究者に彼女について尋ねてみた。すると「チーナ・ポブラーナchina poblanaは一七世紀初頭、中国からマニラ経由でメキシコに連れてこられた一人の女奴隷のことで、プエブラという町で一生を過ごしたのでこの通称――ポブラーナとはプエブラの形容詞である――で呼ばれたのさ。その独特の風貌と衣装で有名になり、そのスタイルを取り入れたプエブラの女性用伝統衣装までチーナ・ポブラーナと呼ばれるようになったんだ」とのこと。そのころの私は、植民地時代の先住民、インディオにしか関心を抱いていなかったので、正体を知ると、「私が中国人――とはメキシコでアジア系の総称として用いられる――に見えるからこんな質問をされるんだな」と納得し、彼女のことはじきに忘れてしまった。

チーナ・ポブラーナ(衣装)を身につけた女性(Karen Apricot, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)
チーナ・ポブラーナ(衣装)を身につけた女性
(Karen Apricot, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

 そんな彼女と再会したのは二一世紀に入ってからのこと。植民地期メキシコの「聖人」信仰に関する研究書でカタリーナ・デ・サン・フアンという数奇な運命を辿った女性に興味をもち、関連文献を読み漁っていると、「なおカタリーナ・デ・サン・フアンはチーナ・ポブラーナとはなんの関係もない」といった記述が目に飛び込んできたのだ。友人の話を簡単に受け流してしまった私は迂闊であった。チーナ・ポブラーナは、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋航路を通じてメキシコに到着する多くのアジア系女性一般について民衆が作り上げたイメージであるにとどまらず、実在した一人の個人と結びつけられて今に伝わっていたのである。

同.カール・ネーベル『ポブラナス』(1836年)掲載のイラスト(Carl Nebel, Public domain, via Wikimedia Commons)
同.カール・ネーベル『ポブラナス』(1836年)掲載のイラスト
(Carl Nebel, Public domain, via Wikimedia Commons)

 ここで気になるのは、歴史家が二人のあいだになんの関係もないと判断した根拠である。民族衣装としてのチーナ・ポブラーナはきわめて派手なものであるのに対し、伝記中のカタリーナには派手なところはみじんもない。夫と若くして死別すると修道院に入り、半世紀以上の長い年月をそこで過ごした。しかも、彼女はきわめて厳格な規律に従い、清く貧しい暮らしを送り、その度合いは彼女にはある種の聖性が備わっていると評判されるほど。若い女性がその美しさを競うためにまとう衣装の創始者とされるチーナ・ポブラーナと、清貧を貫き「聖女」扱いされたカタリーナのあいだに、具体的なつながりがあるとみなすのは非合理だというのが、その根拠である。

 三十数年前の私であれば、おそらくこの「合理的な」判断に与したに違いない。民間伝承のなかで華麗な衣装をまとって男性の視線をくぎ付けにするチーナ・ポブラーナと、修道院で清貧のまま生を全うしたカタリーナとをつなぐ共通性は、見当たらないのだから。しかし、民衆的想像力とは実在の人物に根拠のない尾ひれをつけるものと済ませるとしたら、それは歴史家としての想像力の貧困というものだろう。一八世紀以降のメキシコの民衆が、彼女ら、彼らなりの思考回路を通じ、二人のあいだに共通点を見出した可能性を最初から排除してしまうのだから。

 カタリーナの経歴を、当時、出版された伝記に即して確認しておこう。「聖女」としての評判が高まると、彼女の周囲にはそれを聞きつけた男性聖職者が集まり、彼女から色々と聞き出し、その人生を「聖女伝」に仕立て上げていく。バロック的聖性に満たされた一七世紀メキシコという時空は、この種の「聖人」と伝記作者の組み合わせには事欠かない。彼らがカタリーナに見出した魅力は、彼女の出自と関わっている。なにせ本人によれば、彼女は一六〇六年にムガル朝インドの高貴な家柄に生まれたという。ポルトガル人海賊に誘拐されるなど不幸な出来事が重なりマニラからアカプルコに到着したときは奴隷であった。一六二一年、プエブラの富裕なスペイン人家族に買われ、男性奴隷――彼もまたアジア系だったとされる――との結婚を強いられ、意に反して結婚したものの数年で死別し、自らの意思で修道院での暮らしを選んだという。バロック的心性の持ち主にとり、のちに「聖女」として遇される女性の若き日々として十二分に劇的な滑り出しといえよう。

 そして、カタリーナは、厳しい規律を自らに課して生活するうち、様々な予言を的中させるなど「奇蹟」を起こすようになり、プエブラ市民のあいだで「彼女は聖女に違いない」という評判が広がる。その結果、一六八八年に息を引き取ると、その葬儀にはプエブラ司教区大聖堂の参事会員をはじめとする高位聖職者が立ち会い、その遺骸はイエズス会の教会堂に埋葬されるにおよんだのである。その評判は、生前、彼女の聴罪師を務めた三人の聖職者がそれぞれ一六八八年、八九年、九二年に『聖女カタリーナ伝』を公刊するほどであった。しかし、うち一冊が一六九六年、そこで描き出された「奇蹟」に異端の疑いをかけた異端審問裁判所に禁書扱いされると、うなぎ上りだった彼女の評判にはかげりが見られ始めた。カタリーナの数奇な運命はその死後まで続くのである。

カタリーナ・デ・サン・フアンの肖像(版画)(Joseph Rs. Juene, Public domain, via Wikimedia Commons)
カタリーナ・デ・サン・フアンの肖像(版画)
(Joseph Rs. Juene, Public domain, via Wikimedia Commons)

 この経歴が彼女の個人的事実をどこまで反映していたのかは、いまは問わない。ここで留意すべきは、彼女のこの語りが伝記作者にとり、そしてまたこの伝記がその読者にとり、信憑性をもって受け止められたであろうという点なのである。こうした伝記を購入し、自ら読める読者層がごく少数だったのは事実だが、この種の「聖女伝」の主たる購買者が聖職者であったことを考慮すると、彼らが説教するにあたり、このテクストから当日のミサにふさわしいカタリーナの事績を選び、語りかけたとしても、なんら不思議ではない。民衆はオーラルな回路を通じてカタリーナの事績に触れたのである。

 では、彼女ら、彼らは「聖女」をどうやって魅力的な女性へと仕立て上げたのだろうか。まず、二人の間にはアジアで生まれ、奴隷として太平洋を横断してメキシコに到着したという共通点がある。一七、八世紀のメキシコ民衆は、アジア系女性と接する機会を通じ、世界は太平洋を越えてさらに向こうのアジアにまで広がっているという空間認識を有していた。ムガル宮廷生まれという細部はふるいからこぼれ落ちたが、アジア生まれという出自は「チーナ」、つまりアジア系女性という呼称に刻み込まれる。彼らにとり、アジア生まれの奴隷という社会の最底辺に置かれた女性が、後半生、一転してプエブラの最上層市民たちの崇敬を集め、その葬儀にそうした人々が詰めかけたというストーリーこそが、肝心だったにちがいない。カタリーナはこうして、見かけは地味だけれども社会的成功の階段を駆け上がった「チーナ・ポブラーナ」へと変貌する。

 同時代を生きた者たちであれば、葬儀の様子を目撃したかもしれない。そんな者たちが若い世代に葬儀の様子を語るとき、その盛大さを誇張したとしても不思議ではない。語りが世代間で繰り返されるなか、記憶にはバグが発生する。奴隷であるにもかかわらずエリート男性たちを魅了したからこそ、盛大な葬儀が営まれ、その死を悼む貴顕も臨席したのだという地点まで、カタリーナは辿り着く。『聖女伝』中の「紳士淑女の崇敬を集めた」という記述は、民衆的想像力のなかで、もとは地味だったチーナ・ポブラーナが女性としての魅力によって男性たちを引き付けたというストーリーへと再修正される。

 その背景には、民衆と同じ空間で暮らしていた多数のアジア系女性のなかには、その容姿、衣装、振舞いを通じて小さな成功を遂げる者もいたという事実があったにちがいない。チーナ・ポブラーナはこうして、カタリーナという特定できる個人と不特定多数のアジア女性の経験を統合した、集合的表象として成立したという訳である。

 皮肉なのは、異端審問裁判所の役回りである。彼らは、オーラル・ヒストリーの源泉であった『聖女伝』を禁書とすることで、カタリーナに対する誤った崇敬を排除しようとした。ところが、この措置は、オリジナルとの違いを指摘されることがなくなった民衆に、かえってカタリーナに関する自由な解釈の余地を与えてしまったのだ。

 一八世紀末ともなれば、「聖女」カタリーナはすでに忘れられた存在と化しており、魅力的で、多くの男性を魅了、翻弄する女性の典型としてのチーナ・ポブラーナと、その魅力を引き立てるアイテムの一つとしての独特の衣装とが、結び付けられる。カタリーナの有為転変は一つの終着点に到達し、独立後のメキシコではチーナ・ポブラーナが表舞台に登場する。

 歴史家のなかにはカタリーナとチーナ・ポブラーナを同一視する発想が民衆のあいだで生まれるのは二〇世紀初頭だと指摘する向きもあるが、これは文化の伝播を上から下への一方向でしか捉えない解釈の産物だろう。たしかに、一九世紀に入ると、外国人旅行者がメキシコ女性の一典型としてのチーナ・ポブラーナに言及し、文学者や政治家がナショナル・アイデンティティの一部としてチーナ・ポブラーナを取り上げていく。そうした時代状況下、メキシコにおける近代歴史学の創始者たちも、カタリーナとチーナ・ポブラーナが同一人物かどうかをめぐり、論争を繰り広げた。こうした言論空間の在り方が民衆のオーラルな世界に影響を及ぼしたというわけである。しかしこの発想では、同一人物派の歴史家たちがどこからこの発想をえたのかという問いは、最初から排除されている。彼らが得意とする古文書のなかにはそのヒントが潜んでいないのだから。

 ポルトガルとスペインが先導して開拓したグローバル・ネットワークは、ムガル帝国、ポルトガルの奴隷商人、マニラ、アカプルコ、プエブラをつなぎ、一人の女性を上流階級の「お姫様」から女性奴隷、「聖女」、さらにはメキシコ・ナショナリズムのシンボルあるいは観光パンフレットのモデルとしてのチーナ・ポブラーナへと変貌させる。そしていまも、歴史研究者たちは彼女の放つ磁力に引き寄せられ、新たなストーリーを紡ぐのに忙しいのである。

 もちろん、私もその一人にすぎない。

(やすむら なおき・ラテンアメリカ史)


『図書』2022年2月号に掲載

『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

バックナンバー

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる