ある平和主義者の二〇世紀 木畑洋一
今から半世紀近く前、一九七五年の春に、雑誌『ニュー・ステイツマン』掲載のある広告が、ロンドンで在外研究をしていた私の眼を引いた。それは、国際連合協会の一支部の例会広告で、講演者としてフィリップ・ノエル=ベーカーという名前が記されていた。ノーベル平和賞受賞者(一九五九年に受賞)のこの人については、前から関心をもっており、当時の私の研究テーマ(一九三〇年代におけるイギリスの対日政策)にも関わりがあったので、例会に出かけてみた。
一八八九年生れのノエル=ベーカー氏(以下NBと略記)は、その時八五歳で、足と眼が若干不自由そうではあったものの、軍備が現代世界に及ぼす害毒について、きわめて精力的な講演をした。講演の後で議長から、例会に日本人が来るのははじめてだから何か一言と促されて、核兵器問題をめぐる日本の状況について少し話したところ、NBはそれを受けて、自分の一つの希望は、広島でハーマン・カーンと対決することだ、と述べた。ハーマン・カーンというのは、核問題にからんで当時よく耳にした名前で、限定核戦争を肯定し、日本にも核兵器をもたせたがった米国の軍事理論家である。
それから数か月後、私の研究テーマに関わるインタビューをするために、NBの自宅を訪ねた。彼は、三〇年代のイギリス政府の外交姿勢に対する厳しい批判者の一人であり、対日政策についても議会その他で発言をしていたからである。彼は多忙で、私の前にも後にも客があり、書斎でしばらく待たされたが、その書斎が質素なのには驚いた。そこで眼についたのは、読書に使っていると思われた大きな虫眼鏡とならんで、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の詩が、紫地に白く染め抜かれた一枚の壁掛けであった。
インタビューでは、それまでに私が読んできた三〇年代の文章や発言に見られた彼の姿勢と精神が、四〇年後にもそのままに脈打っていることを、強く感じた。
ウクライナ戦争をはじめとして、戦争と平和の問題が改めていろいろな形で突き付けられている現在、戦争の世紀であった二〇世紀に戦争批判の生き様を貫いたNBが生きていれば何を発言するだろうか、という思いもわいてくる。そうした思いを抱きつつ、彼の生涯を簡単に追ってみることにしたい。
若き日のNBは、将来を嘱望された国際法の研究者と陸上競技に卓越したスポーツ選手という二つの顔をもち、平和の追求者としての歩みを早くから始めていた。米国への短期間の留学を経てケンブリッジ大学で学んだ彼は、そこへの入学以前の一九〇七年に、クエーカー教徒の父(当時は下院議員)に連れられて、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に参加している。クエーカー教徒は、戦争を強く拒否する人々として知られているが、NBはその雰囲気のなかで育ったのである。また一八九九年と一九〇七年の二度にわたってハーグで開かれた万国平和会議は、軍備の縮小という中心目的こそ果たせなかったものの、戦争を国際的に規制していこうとする動きが示された場であった。こうした経験を積みながら、NBは、大学で優秀な成績を収めるとともに、一二年のストックホルム・オリンピックに陸上一五〇〇メートルのイギリス代表として参加し、六位に入賞した。
このようなNBの青春時代に一四年から始まった第一次世界大戦が影を投げかけることになる。大戦期におけるイギリスのクエーカー教徒というと、一六年から実施された徴兵制を拒んで良心的兵役拒否者となった人々が頭に浮かんでくるが、NBの場合はそれと異なり、開戦当初から、戦場での傷病者輸送隊を作った父に協力して、フランスやイタリアの前線に赴いて活動した。柔軟な平和主義者としての様相を見てとることができるであろう。
大戦後、NBの多面的才能は大きく開花し始めた。国際法・国際関係の研究者としての評価は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に創設された国際関係論講座の初代教授に二四年、三五歳の時に就任したことに示されている。国際関係論は、第一次世界大戦による惨禍を背景として、平和をめざす学問領域として姿をあらわしたもので、NBはその歩みを牽引する存在となったのである。彼はこれに先立って、一九年のパリ講和会議に参加して国際連盟規約の起草に関わり、さらに連盟が二〇年に発足するとドラモンド事務総長の補佐役をつとめている。連盟がめざした軍縮と、侵略戦争を始めた国への制裁実施という集団的安全保障の仕組みへのNBの思い入れは強いものがあり、彼の政治姿勢を大きく規定していくことになる。NBと連盟の関係には、日本でも、後藤春美『国際主義との格闘――日本、国際連盟、イギリス帝国』(中公叢書、二〇一六)が注目している。
この間、スポーツマンとしてのNBは、二〇年のアントワープ・オリンピックでイギリスの陸上トラックチームの主将をつとめつつ、一五〇〇メートルで銀メダルを獲得した。本稿が多くを負っている彼の伝記のなかで、著者フゥイッティカーは、主将として、一位になった同僚のペースメーカーになる必要がなかったら優勝しただろう、と想像している(D. J. Whittaker, Fighter for Peace, 1989)。次の二四年のパリ・オリンピックにも選ばれたが、故障のために試合には出なかった。ちなみにパリ大会は、陸上競技をめぐるイギリスのエリートたちを描いた映画『炎のランナー』(一九八一年公開)の対象となった大会である。
こうして順風満帆のキャリアに乗りだしたNBは、『軍縮』(一九二六)などの著書を刊行したが、さらに広い活動の機会を求めて、LSEでの教授職の任期が切れた二九年に労働党選出の下院議員となった。この選挙で勝利した労働党は、初めて単独内閣を形成したが(二四年にも労働党は政権を握ったが、その時は自由党との連立内閣であった)、それを支える政治家の一人となったのである。その後議席を一時失うことはあったものの、彼は労働党の外交政策の推進者として積極的な活動を行っていった。
彼が力を入れたのは、平和のための軍縮と集団的安全保障である。NBの軍縮についての考え方は、粘り強い国際的交渉によるその実現を重視しつつも、軍備を全面的に否定するというものではなかった。平和主義は、完全な非暴力を貫こうとする「絶対的平和主義」(パシフィズム)と、非暴力に傾斜しつつもさまざまな政治的選択の可能性を考慮に入れる「平和優先主義」(パシフィシズム)とに大きく分けることができるが、NBは後者であった。しかし、軍縮にかけた彼の期待は裏切られ、彼が密接に関わった三二年からのジュネーヴ軍縮会議も、何ら成果を生まなかった。
三〇年代になって、日本、イタリア、ドイツの対外侵略活動が活発化するなかで、NBは国際連盟のもとでの集団的安全保障による平和の確保に熱意を注いだ。しかし、満洲事変に直面した連盟の姿勢は、彼の期待に全く応えなかったし、イタリアによるエチオピア侵略に対して連盟が行った経済制裁をより効果的なものにすることを求めた彼の努力も実を結ばなかった。さらに、ドイツの領土拡大をめぐる三八年のミュンヒェン会談に際して連盟が動くことはなく、ドイツに譲歩せぬことをチェンバレン首相に求めるNBの声も空しかった。
このような国際状況のなかでスポーツマンと国際関係の専門家というNBの二つの側面が結びついた行動として特筆できるのが、三六年のベルリン・オリンピックへの反対運動である。これについては、青沼裕之『ベルリン・オリンピック反対運動――フィリップ・ノエル=ベーカーの闘いをたどる』(青弓社、二〇二〇)が詳しい。その結論を紹介しておけば、NBは、「すべての人種とすべての国民の無条件の平等という根本原則を謳ったオリンピック憲章に違反するものと判断して」反対したのである。ただ、開催地の移転は考えても、対抗する「人民オリンピック」案への協力はしないという、現実的姿勢を彼は貫いた。
NBは、第二次世界大戦期のチャーチル首相のもとでの連立内閣で戦時運輸省の政務次官をつとめた後、戦後のアトリー労働党内閣ではコモンウェルス関係相などに就任した。そして、創成期の国際連合でも、イギリス代表として活躍した。下院での議席は七〇年まで長きにわたって保持している。
その間に、五八年には主著と呼べる『軍備競争――世界軍縮のプログラム』(邦訳、岩波書店、一九六三)を出している。これは、第二次世界大戦後の世界における軍備競争に関する包括的で鋭い批判の書であった。そのなかで特に力をこめて詳論されたのは、核競争の危険性であり、全面的な核兵器禁止の協定と国連職員の国際的なチームによる世界的な規模の査察制度の設立という核軍縮の提案がなされていた。
こうした議論をするNBの関心が、原爆投下を経験した日本に向かったのは不思議でなく、六〇年代初めからたびたび広島や長崎を訪れている。その最後の訪問は、私がハーマン・カーンとの対決希望を聞いた時からさらに六年後の一九八一年に行われた。実にNB九一歳の時である。『朝日新聞』の報道によると、この時、彼は東京での集まりで、「大国の軍備拡大競争は狂気のきわみに達している」と述べ、戦争に奉仕する科学者のあり方を批判した。また長崎では高校生との交流会で平和を求める若者の叫びに感激し、「戦争と軍備のない世界は、あなたたち若者の努力がなければ実現しない」と、激励の言葉を発したという。NBが逝去したのは、その翌年の八二年のことであった。
「全面軍縮は夢物語ではない」というのも、この訪日時の彼の言葉であった。カネまみれの様相が明らかになった東京オリンピックが終わったと思えば、核兵器禁止条約への参加を拒む一方でウクライナ戦争を奇貨とする軍備拡大の流れに乗っている日本の現在の姿をNBが見たとしたら、一体どのような感懐をいだくであろうか。
きばた よういち・イギリス帝国史、国際関係史
『図書』2023年10月号に掲載