ヤースナヤ・ポリャーナの瞿秋白 吉澤誠一郎
芥川竜之介の「山鴫」は、ロシアの二人の文豪トゥルゲーネフとトルストイの交遊に着想を得た作品である。二人はトルストイの領地ヤースナヤ・ポリャーナで鴫撃ちの猟を楽しんでいたが、ふとした行き違いからトルストイの「我執」が発揮されることになる。真実に固執するトルストイは、はたから見れば迷惑な人物だったという洞察を含んでいる。
この「山鴫」は『中央公論』一九二一年新年号に発表された。同じ年の一〇月、ロシア滞在中の二二歳の中国人青年がヤースナヤ・ポリャーナを訪れる機会を得た。その名を瞿秋白といった。秋の美しい風光のなか、瞿秋白はトルストイの生前のままに保存されているという屋敷に着き、そこを管理していたトルストイの娘アレクサンドラに迎えられた。アレクサンドラは次のように語った。「ごらんなさい。この家の様子は三〇年前も贅沢というわけではなかったのに、父の晩年はひっきりなしに不安の気持ちにとらわれ、何度もすべてを捨てて家を去ろうとしました。しかも家庭内の意地悪が多く、父が例えば土地を農民に分け与えるなどの計画を立てると、事毎に母が邪魔をしていました。こうして、懺悔の心がますます募って、どうしても家出をせずにいられなかったのです」。
ヤースナヤ・ポリャーナに住む人々は、ロシア革命に対しては良い感情を持っていなかった。この地区には、トルストイの思想に基づく小さなコミュニティがあり、徴兵に応じず、生産物を共有する生活をしていた。
瞿秋白はヤースナヤ・ポリャーナ訪問に満足しつつも、知識階級の問題や農民の問題は、怒濤のごとき十月革命によって解決の道筋がつけられているとして、現地報告を終えている(『赤都心史』二八)。これより先、六月から七月にかけてモスクワで開催されたコミンテルン第三回大会に出席した張太雷の紹介を得て、瞿秋白は共産主義に接近しつつあった。それゆえ、彼にとってはヤースナヤ・ポリャーナの訪問から大した思想的示唆を得ることなく、公式的な結論づけで済ませることができたのであろう。
瞿秋白は、没落しつつある士大夫の家庭に生まれた。一九一七年夏から北京の外交部ロシア語学校で学ぶことになった。後の回想によれば「当時は、ロシアですでに革命が起こったことを全く知らず、ロシア文学の偉大な意義も知らず、将来の飯を食っていくのに役立てようと思っただけだった」という(「余計な話」)。
瞿秋白は、一九二〇年、北京の日刊紙の記者として、シベリア鉄道経由でモスクワへ向かった。この経緯には、中国の若者を共産主義に誘導しようとするボリシェヴィキ側の意図も作用していたかもしれないが、よくわからない。瞿秋白自身としては、新しい社会主義国家への関心およびロシア文学への興味が動機となっていたと言ってよいだろう。
それに加えて、ロシアに至る旅の紀行文『餓郷紀程』では、まことに陰鬱な心理状態にあったことが彼自身によって吐露されている。つまり、自分は、没落する「士の階級」に属していて、生き方を模索する煩悶の気分にとらわれている。それを突破するために「餓郷」に敢えて赴こうとするという。「餓郷」とは、「俄国」(ロシア)の「俄」と同音の「餓」を用いながら、ロシアの食糧不足という現状を念頭に置いた造語のようである。彼によれば、自らの魂の要求に従って、苦しくとも向かっていく場所が「餓郷」なのである。
ロシアに旅立つ前の瞿秋白は、若者らしく人生行路を模索するとともに、社会の矛盾について強い関心を持っていた。当時の中国では多様な社会思想が参照されていた。瞿秋白によれば、当時の中国において若者の心が落ち着かないのは、社会生活が安定していないからであり、古い思想を攻撃した後には次第に新しい思想どうしの対立が生じた。新思想の一つはデモクラシーである。もう一つは「社会主義」で、トルストイ派などの無政府主義の色彩を帯びた思想のほか、はっきりと無政府主義を主張する者もいた(『餓郷紀程』五)。実は、瞿秋白自身も、ロシアに行く前からトルストイに関心を持ち、いくつかの文章を中国語に翻訳して紹介している。とすれば、ヤースナヤ・ポリャーナの訪問とそれに関するやや冷淡な総括は、彼自身の思想的な変化を確認する過程に他ならなかったということもできる。
後世の瞿秋白にどう思われようと、トルストイにとっては、地主としての立場に由来する自己の罪悪に向き合うことは真剣な営みであった。『アンナ・カレーニナ』でリョービンが新しい農業経営方式を導入して農民の主体性を発揮させようとしたり、『復活』でネフリュードフがスペンサーやヘンリ・ジョージの著作から土地所有の不正義という主張を受け取ったりしていたのは、トルストイ自身の模索をある程度反映したものと見てよいだろう。
瞿秋白によれば、ロシアの無政府主義は一八世紀末に自由主義と同時に生じ、一八七〇年代にはトルストイの無政府主義が盛んになった。ロシアの社会と文化の特徴によってロシアの知識人は「空談の」無政府主義を好み、バクーニンやクロポトキンの「科学的」無政府主義はむしろ国際的に広まったという(『赤都心史』二)。
近年、米国の東南アジア史家ベネディクト・アンダーソンは、『三つの旗のもとに』という著作の中で、一九世紀末に政治的な活路をめざす人々の行動のグローバルな連鎖を、フィリピンに注目しながら描き出した。アンダーソンは、これをアナーキズムと呼んでいるが、人間性を抑圧する社会構造を打ち破って人々の真の連帯に基づく理想の世を作り出そうとする広義の社会主義と言っても良いだろう。
第一次世界大戦がはじまった頃の中国も、無政府主義をはじめとして、そのような多様な社会構想が関心を集めていて、瞿秋白もそれらに触れていたのである。彼の経歴の特殊な点は、たまたまロシア語を学んだことを機縁として、ソヴィエト・ロシアを訪れ、共産党員になったことである。
しかし、革命運動への邁進を経たのち、一九三一年に中国共産党内で失脚すると、瞿秋白は強い挫折感を抱いたようである。一九三四年、国民党側にとらわれて処刑を間近にしつつ記した「余計な話」では、まことに悲壮な調子で自らの人生を振り返っている。このテキストには国民党当局によって改変が加えられているという指摘もあるが、理想に敗れた人物の述懐として、これほど深い感銘を与える文章を私は他に知らない(彼は銃殺されたとき、満三六歳だった)。
この辞世の文のなかで、彼は繰り返し自分は「文人」だと言う。ここでいう「文人」とは、「読書する高等遊民」である。「何でも少しは知っているが、本当の知識は何も持たない」。そして、所詮はプロレタリアートとしての意識を持つことができなかったという自己否定でもある。
一九世紀のロシアでは「懺悔する貴族」「人民の中へ行く青年」が労働人民に有益な仕事をしたし、ロシア共産党の優れた指導者の中にもかつては貴族だった者が少なくないと、若い頃の瞿秋白は指摘していた(『赤都心史』一六)。これは、瞿秋白が革命家への道を歩み出そうとする頃の分析なので、中国の士大夫の流れをくむ知識分子の果たすべき役割をも暗黙裡に示唆した見方であろう。
ここには、二〇世紀の政治運動において知識分子と大衆との関係をどのように考えるのかという問いかけが鋭くなされている。そして大衆の願望は本当に自分たち革命家の目標と一致しているのかという恐るべき疑問に耐えられるのかということにもなる。孫文や毛沢東は、自らの革命的指導の正しさを心から信じることができたという点で、革命家としての高い資質を持っていたと言えるかもしれない。
これに対し、瞿秋白は確かに「文人」風の逡巡にとらわれていた。一九二一年、彼がモスクワで病床にあったとき、生まれながら自分は浪漫派でもあり現実派でもあり、その間に引き裂かれた状態にあると自己分析している(『赤都心史』三五)。このような瞿秋白が、過酷な革命闘争を指導していく立場に置かれた悲劇性ゆえに、遺書にあたる「余計な話」が読者に深い感銘を与えるのであろう。
そして、良識ある貴族が悪い状況を改善するため何とかしなければならないと思いつつ、現実にはそれに踏み出せず、仮にやろうとしても必ずしも大衆がそれについて来ないという無為と迷走は、トルストイを始めとする一九世紀ロシア文学によくみられる主題である。ヤースナヤ・ポリャーナを訪れた瞿秋白は、もっとトルストイに共鳴すべきだったのではないか。あるいは、もし共鳴するところがあれば、それを表明しても良かったのではないか。残念ながら、瞿秋白にとっては当該時点ではその選択肢は失われていたらしい。ロシア十月革命の成功は、「成功」であるがゆえに、他の多様な社会構想に無効を宣告していったからである。
(よしざわ せいいちろう・中国近代史)
『図書』2022年10月号に掲載