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〈リレー連載〉人物から見た世界歴史|『岩波講座 世界歴史』(全24巻)完結!

モハマッド・ハッタの夢 ――インドネシア初代副大統領の回想録から 弘末雅士

 国民的同一性を標榜する国民国家は、しばしば周辺地域を侵略した。東南アジアでも、インドネシアの東ティモール侵攻や、ベトナムによるカンボジア占領などがこれにあたる。これらの出来事をめぐっては、長期にわたり紛争解決のための協議がなされた。他方、建国のための厳しい闘争を経験したこれらの国々が、なぜ他地域住民の意向を軽視し、そこに侵攻したのか、その疑問の検討はまだ十分ではないように思われる。ここではインドネシアの事例から、民族意識の形成のなかに、すでにそうした侵略性が内包されることを見てみたい。

 東南アジアは、タイを除き全ての地域が欧米の植民地支配に服し、第二次世界大戦後に新生独立国家を形成した。インドネシアも一九四五年八月一七日に独立を宣言し、オランダとの抗争を経て、一九四九年に同国から主権を委譲された。ここで紹介するモハマッド・ハッタ(一九〇二―一九八〇)は、スマトラ島ミナンカバウ地域の出身で、独立後に初代副大統領(初代大統領はスカルノ)となった人物である。彼は、スマトラ島で初等・中等教育、そしてバタヴィア(現在のジャカルタ)で高等教育を受け、一九二一年よりオランダに留学した。同時にハッタは、一九二〇年代からインドネシア民族主義運動に積極的に関わった。一九三二年にインドネシアに帰国したが、一九三四年にオランダに逮捕され、以降一九四二年に日本軍が侵攻するまで、軟禁状態に置かれた。ハッタの思想をみていくと、一人のムスリムが社会主義思想の影響を受け、オランダ植民地支配への対抗原理を形成し、さらに上で指摘した可能性を孕むインドネシア民族意識を構築していく、興味深い事例を提供してくれる。

モハマッド・ハッタ(1950年) Leiden University Library, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons
モハマッド・ハッタ(1950年)
Leiden University Library, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

イスラムと社会主義

 ハッタは、敬虔なムスリムであった祖父や伯父のもとで、オランダ語による初等・中等教育を受けながら、イスラム塾にも通っていた。バタヴィアに移るハッタに、伯父はアッラーへの信仰を深め、自らを律することを諭したという。

 その頃、オランダ領東インド(のちのインドネシア)の状況は、大きく動いていた。一九一一年の末、東インドでは辛亥革命の成功に高揚する華人系住民に対抗して、原住民ムスリムが物心両面の向上を目指して、イスラム同盟(サレカット・イスラム)を結成した。同盟は、華人への反発や米の不作と米価上昇、疫病の流行などの社会不安を背景に、またたく間にジャワ島各地に広がった。一九一三年には三〇万人の会員を獲得し、さらにジャワ以外の島々にも支部が形成され始めた。

 そうしたなかで一九一四年、鉄道と海路を結ぶ中部ジャワの港湾都市スマランで、オランダ人社会主義者スネーフリートが労働組合運動の指導をとおして、社会主義運動を始めた。スネーフリートは、イスラム同盟への接近をこころみ、社会主義に関心を抱く原住民ムスリムを、同盟に加入させた。同盟は勢いを増した。とりわけ一九一七年にロシア革命が起こり、世界で初の社会主義政権が成立すると、イスラム同盟の社会主義者の活動は活性化し、同盟のリーダーたちにも影響を与えた。イスラム同盟の議長チョクロアミノートは、宗教を否定するマルクス主義と距離を置くが、イスラムの歴史にこそ真の社会主義の主旨があるとし、ムハンマドは社会主義の理論を体現した人物と考えていた。

 このイスラム同盟のリーダーの一人で、ハッタと同じミナンカバウ出身のハジ・アグス・サリムは、一九二〇年にバタヴィアにいたハッタら青年たちに対して、社会主義とイスラムは矛盾せず、親和的な関係にあることを説いた。彼は、貧困から解放され一体感と平等に基づく社会に到達しようとする社会主義の理念は、ムハンマドが人類にもたらした宗教であるイスラムでは古くから語られてきたことであり、ムスリムたちはイスラムの社会主義的な要素をもっと想起するべきであると語った。この話を聞いたハッタは、「いつの日かイスラムの教義から社会主義の根幹を究めてみたい、と心の底から思った」と述懐している(モハマッド・ハッタ『ハッタ回想録』大谷正彦訳、めこん、一九九三年、九六頁)

 他方、社会主義者の活動にオランダは厳しく臨み、オランダ人社会主義者を東インドから国外追放した。このため運動の主役は、原住民に移り、一九二〇年に彼らは東インド共産主義者同盟を結成し、オランダへの対抗意識を強めた。その後二重党籍を禁じたイスラム同盟から脱退した共産主義者同盟員たちは、一九二四年にインドネシア共産党を結成した。インドネシア共産党は、帝国主義勢力との闘争を唱え、インドネシアの独立を掲げた。

インドネシア民族主義運動と実力行使

 一方ハッタは、一九二一年よりオランダのロッテルダム商科大学に留学した。オランダに着いた彼は、東インドがインドネシア、その地の原住民がインドネシア人と呼ばれていることを聞かされた。当時のオランダには、大学関係者のなかにもインドネシア独立に好意的な姿勢を示す人々がいた。ハッタは、留学生とともに政治運動に邁進した。フランス、ベルギー、ドイツなど周辺諸国を訪れ、反帝国主義を唱える集会に参加し、またコミンテルンを拠点に活動する社会主義者とも交流し、インドネシア独立のための構想を練った。

 オランダのインドネシア人留学生の間で、当初親睦団体として結成された東インド協会も、一九二三年にインドネシア協会と改称し、インドネシア独立を標榜した。ハッタは、一九二六年にこのインドネシア協会の会長となり、その会合で以下のように述べている(『ハッタ回想録』二一〇頁)

ヨーロッパ帝国主義は人類の利益のために終結させなければならないし、植民されている各民族は、植民化から自らを解放する義務がある。したがって、インドネシアは人道主義と文明化の原則により、独立を達成しなければならない。そして、これを実行する唯一の手段は、今まで見てきたように、力をもってする以外にないのではないかと私は考えている。

 インドネシアの独立は、人道主義と文明化の原則により達成せねばならないが、植民地宗主国がそうさせないので、力を行使せざるをえないという、ハッタの主張である。当時の反帝国主義闘争のなかで、彼の主張は特に突出したものではない。ただし、それを独立達成後にあてはめると、人道主義と文明化の原則で保障されているインドネシアの国民統合を、他勢力が乱すおそれのある場合には、力を行使しても正当化されるという帰結になる。

 一九二〇年代・三〇年代のインドネシア民族主義運動の展開は、平坦ではなかった。勢力を拡大したインドネシア共産党は、一九二六年末から二七年にかけて、ジャワ島の中部や西部、スマトラ島のミナンカバウ地域で武装蜂起を試みた。しかし、蜂起は鎮圧され、一万三〇〇〇名の逮捕者を出し、共産党は解党させられた。インドネシア民族主義運動は、その後スカルノを指導者とするインドネシア国民党(一九二八―三一年)に引き継がれた。スカルノは、インドネシア独立のための大衆運動を展開しようとしたが、オランダは国民党に蜂起の計画があるとみなし、党首スカルノを逮捕した。

 インドネシア国民党は、一九三一年に自ら解党してインドネシア党を組織し、三一年末釈放されたスカルノを党首に迎えた。他方、一九三二年にハッタはオランダから帰国した。スカルノの大衆運動が烏合の衆の活動となることを危惧したハッタは、運動のためのリーダー養成の重要性を説いた。二人は盛んに論争したが、民族主義運動に大衆運動とリーダーの存在、両方が必要であることは言うまでもない。

国民統合と侵略

 こうしたなか一九三三年三月にハッタは、企業視察のため日本を訪問している。そこでの対応は、インドネシア民族主義運動の展開と日本の満洲侵略を考えるための、興味深い材料を提示する。「ジャワのガンジー」と日本の新聞で評されていた彼は、東京へ向かう列車の中で、インドネシアでの運動は最終的にオランダに対し、人民を反乱させようとするものかと尋ねられた。それに対し彼は、目覚めた民族がずっと踏みつけられているわけにはいかないと答え、その可能性を否定しなかった(『ハッタ回想録』三一九頁)

 この日本訪問は、満洲国樹立の翌年であった。ハッタは東京で、帝国議会の副議長に食事に招待された。副議長から彼は、日本の満洲侵略の理由について聞かされた。副議長は、この地域がソヴィエト・ロシアに占領されると、日本には胸元に突きつけられたピストルになると述べた。自国を脅かす存在に対処するため、満洲に侵攻したという彼の主張である。副議長はハッタに、満洲訪問を勧めた。日本の満洲侵略を帝国主義的行動とみなしていたハッタは、副議長の主張に共感できず、それを断った。ただし、まさかその四二年後に、インドネシアが同様な理由から東ティモールに侵攻するとは、当時の彼は夢にも思わなかったであろう。

 インドネシアは独立後、多様な地域や諸勢力を抱え国民統合に着手した。国内の諸問題に対処しつつスカルノは、独立革命の達成を唱え、西イリアン解放闘争やマレーシア独立構想に反対してコンフロンタシー(対決)を掲げ、武力行使した。一方ハッタは、大統領権限を強めるスカルノと対立し、一九五六年に政治の表舞台から退いた。

 その後東ティモールが一九七五年に独立を宣言すると、インドネシアは、この地域に社会主義勢力が介入し、自らの国民統合を攪乱することを危惧して同地に侵攻した。インドネシア国内から、それへの反論はほとんど出なかった。一九九九年までインドネシアによる占領は続いた。

 同様なことは、ベトナム戦争後の一九七八年に、国境住民の帰属をめぐりカンボジアと抗争し、その地に侵攻したベトナムについてもいえる。ベトナムのカンボジア占領は、一九八九年まで続いた。インドネシアにせよベトナムにせよ、当事国にすれば、人類の普遍的原理に基づき苦労して形成した国民国家を揺さぶる存在に、しかるべく対処し、関係者を指導したということになろう。今日のロシアのウクライナ侵攻の理念も同様である。

 自国中心的な発想であるが、こうした衝突をさけるのは容易ではない。まず関係諸国の多角的な協議が必要となろう。それとともに、国民的同一性に固執しない、領域や住民に複数の帰属を容認する国家枠組や国際秩序が、そろそろ議論されてもいいのではないだろうか。

(ひろすえ まさし・東南アジア史)


『図書』2022年6月号に掲載

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