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ロレッタ・ナポリオーニ『編むことは力』訳者あとがき

 この本の翻訳の話をいただいた時、最初に「編み物のことは何も知らないんです」と言った覚えがある。「編み物の本ではありますが、どちらかといえば社会史の本なのです」と言われて読んでみたら、自分の人生を変える本になった。

 この本は、イタリア出身のエコノミストであるロレッタ・ナポリオーニさんが、長年のパートナーである夫に起因する金銭的な苦境に直面した時に、編み物という手芸に救いを求め、その存在に支えられたことをきっかけに執筆を決めたノンフィクションである。私たちの世界に当たり前に存在する手芸を軸に、歴史的エピソードや人々の言葉を紡ぐことで、編み物が私たちの生きる世界の歴史の形成に影響を及ぼし、どのように利用・活用されたり、矮小化されたりしながら、爪痕を残してきたかを探求しつつ、私たちの暮らす不完全で綻びのある社会を編み直す可能性を提案する。

 翻訳の話が最初に立ち上がった時、確かに私はまったく編み物のことを知らないと思っていた。ところが翻訳の契約が進む間に、ふとしたことから編み人との縁ができた。私が発行するニュースレターの読者の人たちと始めたコレクティブSakumag にやってきたある人に、「何ができますか?」と聞いたら、「編み物を教えられます」との答えが返ってきたのである。そのうち彼女を通じ、廃棄される繊維素材を活用できないか相談があり、それをきっかけにマクラメ編みでキーチェーンを作ったり、かぎ針でカゴやバッグを編むワークショップを開催した。捨てられる予定だった資材を材料に、ゆるい編み物の会にきてくれる人と社会の話をしたり、モヤモヤをシェアしたりしながら手を動かすことが、自分の体内のテンションを溶かし、心に安定したリズムと温かみをもたらしてくれた。

 その後、わが編み物の先生、渡辺みなみさんが開催するワークショップで、初めて自分で糸を購入した。棒針編みの基本の動作を教わったら、手に感覚が戻ってきた。未経験だと思っていたのは勘違いで、どこで、誰に教わったか、まったく覚えていないけれど、手は動きを覚えているのだった。マフラーでも編もうとほくほくと毛糸を持ち帰ったが、春にはすっかり忘れてしまった。フランスで紡がれたというカラフルな毛玉は、バッグごと棚の取手に引っ掛けられたまましばらく放置された。

 そうこうするうちに、契約が進み、ついに翻訳の作業を始める段になった。根詰めなくても良いように、毎朝三ページを翻訳しようと決めた。朝起きてコーヒーを淹れ、ニュースを見たり、SNSのプラットフォームを開く前に、ナポリオーニさんの言葉に向き合う。それは、安全なコクーンの中に身を横たえ、文字を紡いで吐き出すのと引き換えに、エネルギーやパワーを得るような体験だった。

 本書は、祖母から編み物を教わった幼少時代の回想から始まる。ナポリオーニさんの祖母は、ジェンダーという名の檻に閉じ込められ、与えられた役割を演じ続けたけれど、ナポリオーニさんに、メインストリームが語るナラティブや刷り込まれた固定観念を疑うことを教える。そして、人生というものを、編み物というレンズを通して考える眼差しを与える。

 ジェンダーを軸に与えられた役割をまっとうした母と祖母に育てられたナポリオーニさんの経歴は目覚ましい。エコノミストとして武器を捨てた元テロリストにヒアリングをしたり、調査のために中東の砂漠を旅したり、バリバリのキャリアを築く傍ら、女性たちのリプロダクティブ・ライツを守る活動をしたり、ヒッピーやラスタマンと編み物をしたり、子どもを育てたりしてきた。長年のパートナーに裏切られ、それまでの裕福だった暮らしを失う局面に立たされた時に編み物に立ち返り、それがきっかけで編みもののパワーを探る旅に出るのだった。

 この本では、革命に参加しながら蔑ろにされたフランスの女性たち、新天地にたどりついてもなお税を課す大英帝国に反抗したアメリカの女性たち、編み物によって経済的自立を得た女性や先住民、人生の最終チャプターを編み物に捧げる老人、社会を変えるために、政治の暴走を止めるために糸と針を武器に戦うコレクティブなど、たくさんの人々の物語が展開する。また、メンタルヘルスや脳神経のケアや治療、数学や物理学の研究や技術の革新において編み物が持つポテンシャルや、気候変動時代に、環境を傷つけず、抑圧されてきた人たちの自立に可能性を与え、経済格差を縮めることのできる編み物のあり方を探求する。

 編み物が、文化の中で特別な場所を与えられてこなかったのは、庶民の手芸だからだ。だからどこで誰が最初に考案したのか、私たちにはわからない。編み物の技術は、必要性から生まれたのだろうということは推測できる。世界のいろいろなところで自然に発生し、人々に暖を与え、金品に交換され、コミュニケーションのツールになったり、表現の手段になってきた。編み物が認知の能力の維持やヒーリングに役立つということは自明だが、数学の理論や物理の模型に使われることは意外に知られていない。数学的神秘を解き明かし、暗号を運び、心や神経を落ち着けることができ、革命の手段でもあり、愛の表現である。そんな存在、他にあるだろうか?

 この本を訳しながら、私の心はたくさんの感情の旅をした。フランスの王政を倒す革命に一役買いながら国民議会で席を与えられなかった女性や、たまたま女性に生まれたことで自立や自由を与えられなかった人たちの無念を思って腹を立て、ヤクやクラインのボトルが課題を解決する可能性に心をときめかせ、編み物のまわりに集まる人々が、オルタナティブの世界のあり方を提示できるのではないかと希望を持った。そして、本を書きながら、自分の身に起きたことを整理し、自分の行動を分析し、自分が何者なのかを問い続けるナポリオーニさんの旅に自分の心を添わせた。

 奇しくも最初のドラフトに取り掛かったのは、私自身、心から愛していた場所に少しずつお別れを言おうとしている時だった。ニューヨーク州から北に一時間半ほど行った林の中に、友人夫婦が所有する小さな家と小屋の中間のような建物を、過去一〇年以上にわたり借りていた。旅ばかりをしてニューヨークにあまりいなかった頃、退去を考えたこともあったけれど、「あと一年」と思ったところでパンデミックが起き、一年半はフルタイムで暮らした場所だ。隣には、ニューヨーク州が所有する広大な雑木林や湖からなる森林がある。死んだら、ここに骨を撒いてほしいと思ったこともあった。パートナーが親の介護をするために他州に引っ越すことを決め、私も後で追いかけることになり、この家のリースを手放すしかないのだという結論を、少しずつ受け入れるところだった。この場所に身を置かせてもらった間に、自分の人生にたくさんのことが起きた。たくさん手を動かし、たくさんの人と過ごし、たくさんの時間を孤独と向き合い、何度となく自然の猛威に慄きこうべを垂れた場所だ。人生のひとつのチャプターを終了し、次のチャプターに足を踏み出そうとする中、一年の終わりに向けて木々が葉の色を少しずつ変えるのを横目に、この本を翻訳する作業は、お別れの儀式にはとても相応しいことのように思えた。ナポリオーニさんの言葉は、喪失につきものの悲しみや葛藤にも満ちていたが、過去の過ちや苦しみを土台に、未来に羽ばたこうとする人の希望や可能性を感じさせてくれた。自分の決断が正しいものなのかに自信が持てない時、見えない未来に不安になる時、この先、何が訪れても大丈夫である、という気持ちにさせてくれた。

 翻訳作業の終わりが見えかけ、「この後、自分は何にエネルギーを傾ければいいのだろう?」と不安になりかけた頃、友人から、パートナーががんを患ったという連絡があった。見つかったがんは、知った人に息を吞ませる程度に進行していた。その夫婦は、アメリカ大陸への移転の真っ最中で、私の友人である妻は、急に始めることになった夫の治療の前に、二匹の飼い猫を車に乗せて移送するのだと言った。アメリカ大陸横断の旅は私も何度かやったことがあるが、それを一人でやることの退屈さと過酷さは容易に想像できた。たまたま休みを取っていたから、一緒に乗ろうか? と提案し、モンタナにいるパートナーを訪れる予定を遅らせ、ラスベガスまで彼女と猫たちの旅に参加することを決めた。複数の気候を通過する旅に必要な衣類をパッキングし、家を出ようとしたところで、半年以上、玄関の棚の取手にかかっていた毛糸と針のバッグを掴んだのは咄嗟の判断だった。

 その友とは、私が二〇代前半、彼女が後半の時に知り合い、互いの人生の山あり谷ありを目撃しながら、長いこと家族の延長のような付き合いをしてきた。あれから三〇年、それぞれ熟年と言われる年齢に入ったけれど、私たちの中身が大きく変わったような気はしない。ただ、加齢とともに、少しずついろんなことに不具合が出てきただけだ。今、彼女の人生のパートナーが、健康上のピンチにある。この先、辛い治療や難しい決断が待っているかもしれない。精神的に苦しい局面もやってくるだろう。その共通認識を持ちながら、私たちは四日間、二匹の猫を乗せたミニバンという空間を共有し、若かりし日々のこと(ブルースリーのTシャツを着てオーバーサイズの軍パンを履いていた私が昼食にアイスクリームを食べていたこととか)、利益のために武器や戦闘機を製造したり、環境やコミュニティを破壊するウルトラ富裕層をこき下ろしたり、私たちがどう生きるべきか、これから待ち受けるかもしれない人生の試練について話し合ったりした。編み物用バッグを掴むという判断は、正しかったなんてもんじゃなかった。自分が運転したほうが快適だという友と二人の車の旅に、自分ができることは、助手席に座っていることだけだったし、揺れる乗り物の中でおしゃべりをしながらする作業として、編み物は最適だった。車内の檻の中というシチュエーションに対する不満の鳴き声に耐えかねて猫たちを解放した時は、猫が編み物をする私の膝を横切り、糸を道連れにして私が編まれかけるというコミカルな状況に大笑いもした。前にこんな風に笑ったのはいつだったろうか。止まらない笑いとともに、私は確実に泣いてもいた。今、彼女の前に横たわる辛い事態がなかったら起きなかったはずの初めての二人旅から、たくさんの予想外のギフトを受け取ったような気持ちになった。

 旅の終わり、私の手の中にモヘアのスカーフがあった。旅が終わってからも、私は手を止めることができなかった。パートナーと合流した街で毛糸ショップを訪ね、パッケージの傷を理由に割引された針を買い求めながら、針はどれだけの時間をそこで過ごしただろうかと考えた。中毒というやつになったかもしれないと思ったのは、ホリデーの最中に編もうと思った毛糸が届かなかった時に、ほどいてもいいニットを探し求めてクローゼットをあさる自分を発見した時だ。友達のストゥープセール(玄関の前で不用品を売るイベント)で、肌触りに惚れて連れ帰ったけれど、うまく着こなせずに持ち腐れていた白いベストが、レッグウォーマーになった。極端なことを言えば、最終的に何ができるかは、大した問題ではなかった。日々、世界のそこここで起きている醜い殺戮行為、人々が搾取され、踏みつけられるさま、女性や弱者への暴力、悪政や汚職を凝視し続けることによって受ける負荷を軽減して余るほどの安らぎと温かい気持ちを、針を動かす時間や作業が与えてくれていた。また夏が来た時に針を置かないように、シルクや大豆でできた夏糸を入手し、どこかの古着屋で手に入れた夏用のバッグに入れておき、春の終わりの旅に連れて出た。移動を繰り返すうちに絡まった、ライトブルーの糸を、切らずにほどこうと決めた。すべすべと指に気持ちのよいシルクの糸をほどく作業は、自分を世界とは別の時間軸の中においてくれた。ある夕方、三軒茶屋の駅周りの喧騒の中、なかなか来ないバスを待ちながら糸を解いていた。「私なら切るわよ」と声をかけられた先を見たら、シルバーグレイの髪をしたかっこいい年上の女性が座っていた。「ほどくのが好きなんですよね」と答えながら、その理由を考えた。人生に解決しなければいけない課題がない時は少ない。その時の自分は、最終的に「切る」という選択肢があると知りつつ、解決しない課題はないと感じたかったのだと思う。

 この本の校正作業をしながら、出版後には編み物のイベントをやろうと考え始めた頃、私の胸にがんになろうとする小さな腫瘍が見つかった。当初はさっと切除することのできる処理の簡単なものだと説明されたが、その後、生涯に複数回のがんを体験する確率の高い遺伝子が見つかったことで、両胸を全摘出することを決断して手術をするなど、人生の一大事になった。少し先に、乳がんを体験していた友人は、「入りたくなかったクラブに入会したんだよ」と言ったが、そのクラブにはたくさんの天使たちがいた。私は天使たちから引き継いだ英知や、勇気を与えてくれたサバイバルのストーリーを携えてこの一大事に立ち向かったけれど、バッグにはいつも毛糸と針が入っていた。そして、もし編み物というものがなかったら、自分はどう心を鎮めたり、不安な材料を受け止めたりしていただろうかとたびたび考えた。気がつけば、編み物は自分の人生においても生き残るツール、生き方のメタファーになっていた。

 当然、私はひとりではない。これまで、世界中のいろいろな場所で、想像を絶するような苦境や抑圧の最中に、編み物は、きっとこうやって多くの人たちの人生に心の平和や勇気を与えてきたのだろう。長い人類の、そして世の中のたくさんの人の個人史の中に、編み物というものは、暖かく、平和な場所を持っていて、編み人たちはそれぞれのストーリーとそれぞれの人生へのアプローチを持っているのだった。

 この本には、今、私たちが生きる時代がしんどいものだという前提がある。世界は小さくなり、常に「接続された」私たちの生活は格段に便利になった。ところが、こうした社会を実現するために開発された技術革新は、人々を幸せにしなかった。飢餓や貧困、暴力や衝突といった問題を解決してもいない。より多く、より豊かにと経済の拡大を求めるドライブと、飽くなき人間の欲望は環境を破壊し、たくさんの災害を引き起こしている。広がる不安に、孤独やデプレッションに、人々はヒーリングを求めている。ナポリオーニさんは、こんな時代だからこそ、針を動かし続けることを、現状に異議を唱え続けることを提案する。そこに編み物を通じて取ることのできる集団的アクションが、得ることのできる集合的ヒーリングが存在するのだから。

 編み物をしたことのない人を、このパワーに気がつかせることはできるのだろうか。糸と針が何かを成し遂げることができるなんて、編み手でなければ信じないだろう。それどころか、この手芸が持つポテンシャルに気がついていない編み手だっているだろう。編み物は生き様であり、表現と交信の方法であり、癒しの泉であり、人生の同志である。この本が私の人生を変えたように、この本が旅をして、たくさんの心と繋がり、編み物のパワーを伝播してくれることを願ってやまない。

二〇二四年秋 佐久間裕美子

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