《対談》今、編み物をするということ──山崎明子 × 佐久間裕美子[『図書』2024年12月号より]
2024年12月小社刊行『編むことは力──ひび割れた世界のなかで、私たちの生をつなぎあわせる』(ロレッタ・ナポリオーニ著、佐久間裕美子訳)は、生活だけでなく、社会運動をも支えてきた編み物の力を描いたエッセイです。刊行を記念して、手芸と社会のありようをめぐり、本書の訳者でニューヨーク在住のライター、アクティビストの佐久間裕美子さん、美術史研究者の山崎明子さんにオンラインでご対談いただきました。
佐久間 実は私は手先が不器用で、家庭科の課題を友達に頼んでこっそりやってもらうようなタイプでした。大人になってから気づいたのは、自分がミソジニーを内面化して、手芸は家庭的な女性がやるもんだ、と避けてきたことです。若い頃は生活よりも労働を優先していましたが、年を重ねて、ジェンダー観念や商業社会による刷り込みと、自分のあり方を意識的に解体しているところです。
その柱の一つが、『編むことは力』(以下『編むこと』)の翻訳です。山崎さんのご著書『「ものづくり」のジェンダー格差──フェミナイズされた手仕事の言説をめぐって』(人文書院、2023年、以下『「ものづくり」』)も、自分は社会にいいように操られてきたんだな、と思いながら拝見しました。
山崎 お読みくださり嬉しいです。私が小さい頃に祖母の家にあった絵画は、ほぼ全て女性画家によるものでしたが、大学で美術史を学び始めたら、教科書に一人も女性が出てこない。作品中に出てきたと思ったら裸の姿。違和感がありました。
しかし、女性は何も作ってこなかったかというと、手芸には熱心に取り組んでいて、その作品は生活を豊かにしている。これはおかしいと思い、美術の制度とジェンダーについて研究しています。同時に、手芸がどう女性たちを支えてきたかも重要だと考えています。
『編むこと』では、「もうこんなにも!」というくらい、手芸が女性たちのアクションの力になってきたのだなと思い、反芻するように読みました。訳もすばらしく、編み手のエネルギーを伝える言葉がすごく豊かでした。
絹を着ない人々のためのウール
佐久間 ありがとうございます。編み物が手芸の中でもそこまで研究されてこなかったのは、『編むこと』にあるように、おそらくプロレタリアートのものだということが大きいのかなと思っています。美術におけるジェンダーの問題と、手仕事や手芸が低く見られることには、社会構造も関係しているのでしょうか。
山崎 今では手芸的な技法を使ったアーティストはたくさんいますが、美術教育の中では、作品を批判する際、「それじゃあ手芸じゃない」と言われるのだそうです。これは美術ではない、という否定的なものとして手芸が存在している。愕然としました。
手芸はどこか低く見られているけれど、その中でも刺繍やレースは、作り手が庶民でも、使い手は貴族やお金持ち。対して編み物は、使う側もおそらく庶民です。絹を着ない人々のためのウール、ということですね。編み物の歴史がプロレタリアートのものだったというのは、本当におっしゃる通りだと思いました。
佐久間 『編むこと』では、男性も女性も取り組んでいたともありましたね。
回り回って抵抗になる
佐久間 『「ものづくり」』では、男性の言葉によって、何度も女性の家事のあり方や家庭内労働のあり方が規定され、批評されてきたと書かれていますよね。
山崎 『編むこと』には、第一次世界大戦下で編み物が草の根的なパワーをもつようになった時、それを軍が統制しようとする話が出てきました。まさに私が追ってきた「手芸を統御する力」だと、ちょっと感動したんですよね。
手芸とは、自分の手から何かが生まれてくる純粋な喜びや、淡々と手を動かす楽しみに突き動かされて行うことなんだろうと思います。でもそのエネルギーが、男性社会の中では統御不能だとみなされ、もっと役に立つものを作れ、と要請される。
佐久間 『編むこと』にある、革命の立役者なのに会議に入れてもらえなかったフランスの女性たちは、編みながら怒りを押し殺してたのかな、悔しかっただろうなあと思います。
山崎 そうですよね。一方で、無言で編み続けること、その抵抗の力、すごくないですか? 権力のためにならない何かを編み続けるとか、自分たちのものを編み続けるとか、それが回り回ってものすごい抵抗になる。いいなって思います。
佐久間 何かを編むこと自体も一つの抵抗の形であり、運動への参加になるのだ、ということですね。
日本における手芸と社会運動
佐久間 ヨーロッパと日本では、文化的にずいぶん違うはずなのに、ジェンダー構造や、手芸が商材になっていく過程など、重なる部分がたくさんあると思います。それと同時に、とくに日本は家父長制の根っこがどっしりしているな、とも思うんですけれども。
山崎 日本では、西洋から手芸が入ってきた時、女性たちは割とすんなり受け入れました。本当に普及が早い。例えば明治の中頃には、近所のおばあさんが西洋編み物をしていたという話などが記録に残っています。ただ、平塚らいてうを中心とした「青鞜」のような婦人解放の動きがあった時、手芸は良き女の象徴のように捉えられていたのか、むしろ切り離されていました。
佐久間 手芸をしていたのは、女性の社会進出というアイデアとは距離のある方たちだったということでしょうか。
山崎 そうですね。手芸はある層には圧倒的に普及するけれど、彼女たちは社会運動の担い手にはならなかったということかなと思います。
佐久間 他ならぬ女性こそが、手芸を抑圧される側の女性のものとして見てしまうその眼差しには、私自身も心当たりがあります……。ジェンダーを理由に、与えられた抗うべき役割を甘んじて受け入れているように見えたのかもしれません。
ファストファッションとジェンダー
佐久間 今、アメリカでは編み物ブームが起きています。大量生産が進み、服が安くなり、自分で作る人も減り、編み物はイケてないと思われていった──そうしたなかで離れていった人たちが、楽しかったからとまた始めたり、新しい切り口の作り手や毛糸メーカーが登場したり、いろいろ要因はあるんですけれども。
ここで私がハードルを感じてしまうのは、編み物を始めようとすると、結構お金がかかる。入り口が狭いような気がして、もったいないなと思います。
山崎 作ることが難しくなっている時代ですよね。でも、道具一式でいくらかかるかを知ることは、すごく価値があるとも思います。2000円以下のセーターが売られていますが、考えてみるとおかしいわけです。搾取の上に成り立っている、と言うときついかもしれないけれど、一度自分の手で作ってみない限り、そうした構造にはなかなか気付けない。
佐久間 今、言葉がきついかも、とおっしゃったけれども、現実として目を逸らしてほしくないとも思います。特にファストファッションの衣類を作っている現場は、南北問題でいう南のほうの劣悪な労働環境に寄りかかっている。そしてそこには、主に女性を中心とした「労働力」と呼ばれる人たちがいる。西洋のフェミニストがそうしたことに目をつむってきてしまったことが、フェミニズムが格差にまつわる矛盾を抱え続けていることの理由かなとも思います。
山崎 私は「服飾とジェンダー」という授業の半分を使ってファストファッションの問題を扱っています。そこでは、今着ている服の縫い目の一つでさえも、絶対に人の手で作られていると思えば、簡単には捨てられないよね、という話をします。せめて想像してみようと。
佐久間 実際、ものがどうやって作られているか、ほとんどの人は想像せずに生きています。ハンドメイド=高い、というのも固定観念ですよね。私は仕事で縫製や製織の工場を訪ねることもあるんですけれども、メイドイン○○と書かれた時にあまり価値を見出されないような国の工場では、人の手を介してないのかというと、そうではない。
山崎 私たちには伝わらないように、社会の中でものを作っている人たちがいる。消費を促すために、企業が伝えないことがたくさんあるのかなと思います。
男性と手仕事
佐久間 『編むこと』の中では、男性が手仕事することの価値や、ジェンダーの固定観念をひっくり返すポテンシャルについて書かれています。日本ではこうした動きはありますか?
山崎 少ないですよね。ただ、男性が何かを作ること自体はネガティブなことではなく、木工や金属加工や陶芸をする人はいる一方、手芸をされる例は少ないと思います。
佐久間 男性でも、手芸の先生や作家さんは多くいらっしゃいますね。ただ、またそこに見えない境界線があるように感じます。誰でも入れるプロレタリアート的な手芸のありようとして、そうした構造はいかがなものか? と。
山崎 手芸は上手くても下手でもいいんだと思うんです。楽しさを共有できればいい。先生の言う正しいことを覚えなきゃいけないの? とはいつも思います。
お教室で手芸を習うようなあり方は、もしかして日本的な文化なんでしょうか?
佐久間 おそらくそうなんだろうと感じます。私がアメリカに来てびっくりしたことのひとつが、自己流で良いというDIYの姿勢です。例えば大学で批評されるような時はそれなりに厳しく言われるんですけれども、創作やクラフトに関しては「間違いっていうものはないから」という心の広さみたいなものがあるし、それがまた社会のいろんなところにあるなあと感じています。
この時代の手芸
佐久間 『編むこと』の前提には、現代がとても難しい時代だということがあります。また、明確に「編み物がジェンダー問題の解決策になる!」と書かれてはいないけれど、著者のそうした気持ちが滲み出ている。この時代に、手芸はどういう存在になりうるでしょうか。
山崎 例えば、名古屋で「港まち手芸部」という活動をされている宮田明日鹿さんという作家がいます。ご存知でしょうか?
佐久間 はい! 港まちの女性たちにお目にかかったことがあって、宮田さんにもお会いしたいんです。
山崎 すばらしいです! 宮田さんがされていることは、まず場を作るということ。「港まち手芸部」の女性たちが毎週集まって、一定の時間そこにいて、若い人も入ってきて、ご高齢の女性たちは先生じゃないけど、先生で。こういう場が多分、とても必要になっている──編み物をすることで落ち着いたり、一日を振り返れる人たちがたくさんいて、その手段を共有し合っていくような。
宮田さんは、最近は能登に行かれていました。東日本大震災の後は、たくさんの手芸家が被災地に行ってワークショップを開いていました。なぜこんな目に遭うのか分からない怒りと辛さの中、自分の感情を違う形にして少しずつみんなと共有できる。こうしたことも、手芸が果たせる役割のひとつかなと思います。
存在を確かなものにするために
佐久間 手仕事や家庭内労働、ケア労働など、女性たちが担ってきたものですら男性たちに規定されてきた歴史は、まだ社会に根強く残っています。多分、私たちが死ぬ頃にジェンダー平等ができあがっているかっていうと、おそらくそうではない。そうした中で、今のお話は、何を取り戻そうとすれば良いのかのヒントなのかなと思いました。
山崎 「港まち手芸部」の女性たちは何でも作れて、技術もすごい。さらに編み物を楽しんでいる。でも、みんなすごく謙虚なんだそうです。謙遜は人から攻撃されないための手段でもあるんだけれど、でもこれも、女はこうあれ、という家父長制の統御だとも思うんです。そんな時、宮田さんは、「めちゃくちゃ褒めるの!」と。
佐久間 『編むこと』の著者のナポリオーニさんのおばあさんも、慎ましい女性であったという描写がありました。与えられた役割をこなすなかで、たくさんの女性たちが黙って耐え忍んだり、のみこんだりしてきたんだろうなと思います。彼女たちの物語を発見し、世の中にシェアすることが、後からやってきた私たちにできることなのかなって思いました。
山崎 例えばちっちゃな帽子一つでも、編み方や糸、形と褒めるところがいっぱいあるのに、女性が作るものは褒められてこなかったし、意味のあるものだと言われてこなかった。
私は手作りのものを見たらめっちゃ褒めるようにしてます(笑)。その人が作ったものについて一生懸命語ることが、存在を確かなものにしていくのかなと思います。
佐久間 コレクティブの活動をしていると、「何もできないんです」という方がやってくることがあります。私に編み物を教えてくださっている方も、最初はそうでした。社会から、特に女性は、私たち一人一人ができることは意味がなくて小さいことだと思わされているなと感じます。
山崎 編み物に関していえば、女性は「マフラーぐらいしか編んだことないです」って言わされちゃうみたいなことですよね。
佐久間 私はちょっと編んだだけで「やった!」って言っちゃいます(笑)。
気持ちの起点が違う
佐久間 私はもともとコレクティブをつくって活動をしていました。そこにたまたま「あの会社が廃棄することになった素材で何かできないか」という相談があったために、偶発的に編み物の会を開きました。なので、いわゆる編み物サークルとはちょっと起源が違うかもしれません。
コレクティブをやるようになって、世の中を変えるためには、私たちの気持ちを汲んでくれている人を地方政治や国政の場に送り込みたい、という思いが強くなりましたが、もともと私が日本で社会運動に参加したきっかけには、原発や五輪への反対の気持ちがありました。短い期間でオーガナイジングを行って、何かを動かそうとした時に、熱意が強く出過ぎちゃうこととか、攻撃的になってしまうようなことが、時としてあると思うんですね。
山崎 議論などで自分が攻撃的になってしまった瞬間に、その攻撃性こそがまさにこれまで自分を抑圧してきたものに似ているように思える──私はそうした嫌さを感じることがありますが、そんな感じでしょうか?
佐久間 正義感に突き動かされた人たちの間で、方法論などについての考えにズレが生じたり、例えば気候変動への危機感を共有していても、都会に住んでいる人と、そうでない人とでそれぞれ風景の見え方や優先事項が違ったり、そうしたいろいろな違いを乗り越えて進むことが社会運動では必要になります。とくに選挙は典型的な例ですが、短い時間で大きなアジェンダを実現しようとする時に、考え方や方法論の違いが内部の分断を生み出してしまうとしたら、矛盾を抱えることになってしまいます。攻撃性を持たざるを得ないくらい切羽詰まった人々の怒りを否定したくないな、とも思うし、背景にある社会の構造や問題についても想像力を働かせたい。
そんななか、誰かと編み物をする時は、手を動かしながら話すことそのものによって、自分たちの気持ちの起点が違ってくるといいますか。どうしてか人に優しくいられるなという実感があります。
編む社会実践
山崎 編んだり縫ったりする仲間で一緒にいる時って、みんなで下を向いていて目が合わないからかもしれないけれど、何かをぽろっと言っても、「うんうん、そうだよね」と受け止めてもらえますよね。たとえ怒りを含んだ発言だったとしても、単に怒りのままでは着地しないというか。編んでいる時の大きなメリットだと思います。
私は社会運動にすごく積極的に関わってきたかというと、そうではないのですが、手芸をすることが社会に対する何らかの抵抗になっている、あるいは手芸を核にして運動をしている事例は、研究する中でかなり意識的に見てきました。また現代アートには、社会を変えようとする意図を明確にして作られた作品が多くあります。なので、アートの観点から運動に注目してもきました。
欧米では、女性たちが編み物や縫い物をしながら社会参画の意思表示をたくさんしてきたけれど、日本ではそうした事例が本当になかったなと思っていたところに、「政治的な手芸部」という、手芸を用いて社会運動を行っているグループ「山姥」によるプロジェクトに出会いました。「わあ、参加したい!」と思い、加えていただきました。私は一、二枚の小さな布片に刺繍を施して毎年送っています。布片は縫い合わされて大きなバナーになるのですが、本当は私も縫い合わせる場に行きたいし、何よりその出来上がった大きなバナーを持って、国際女性デーにみんなと一緒に歩きたい、と思っているのですが、ちょうど大学の入試シーズンで、なかなか東京に行けず……。いつか参加するのが夢です。
自分ができることは小さいし、作っているものもとても小さいし、でも、「政治的な手芸部」のみなさんがそれを持って歩いてくれているんだと思うだけですごく嬉しいです。毎年小さいものを作って送っているということが、ずっと手芸をやってきた私にとってすごく誇らしく、思いを込めて縫っています。
佐久間 日本にも「政治的な手芸部」や、「港まち手芸部」など、手芸を中心にした活動がいろいろなところで立ち上がっていることを知りました。お互いのことを発見し合って、いろんなことを一緒にやって、その輪を全国にちょっとずつ広げていくような、手をつなぎ合う活動ができたらとても素敵だなあと思います。
編むことは力
佐久間 編み物を始めて感じたのは、例えばカバンの中に毛糸と針が入っていて、それをちょっと触るだけで、社会に対する行き場のない憤りから、自分の温度を下げてくれるような気がするんですよね。
山崎 私は編むプロセスが好きです。嫌なことがあって眠れなくなった時、あ、今日は眠れるっていうところまで編むと、心がリセットされる。私が次の朝、また起きるための大事なものというか。編み物、いいですよね。
佐久間 みんなが簡単に参加できるし、少しやるだけでも本当に心が静かになるよ、と広めたいなと思っています。いつか山崎さんと編み物ができればうれしいです!
山崎 ぜひ一緒に編みましょう!
(2024年10月21日)
山崎明子(やまさき・あきこ)
奈良女子大学教授。千葉大学大学院博士課程修了。博士(文学)。視覚文化論、美術制度史、ジェンダー論。著書に『近代日本の「手芸」とジェンダー』(世織書房)『「ものづくり」のジェンダー格差──フェミナイズされた手仕事の言説をめぐって』(人文書院)、共著に『ひとはなぜ乳房を求めるのか──危機の時代のジェンダー表象』(青弓社)『現代手芸考──ものづくりの意味を問い直す』(フィルムアート社)など。
佐久間裕美子(さくま・ゆみこ)
ライター、アクティビスト。慶應義塾大学卒業、イェール大学大学院修士課程修了。ニューヨーク在住。カルチャー、ファッション、政治、社会問題などに関し執筆。著書に『Weの市民革命』(朝日出版社)『みんなで世界を変える! 小さな革命のすすめ』(偕成社)など。訳書にザック・エブラヒム、ジェフ・ジャイルズ 『テロリストの息子』(朝日出版社)。Sakumag Collectiveを通じて勉強会や情報発信などの活動を行っている。