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蟬丸 舞踏と山海塾[『図書』2025年3月号より]

舞踏と山海塾

 

 舞踏という踊りを始めて50年になる。1975年に天児牛大の呼びかけに応じて山海塾というグループの結成に携わったのが始まりだ。昨春、山海塾50周年を目前に代表の天児が心不全のため自宅で亡くなった。2017年に喉に出来た腫瘍の摘出手術を受け、定期的に検診を受けていたのだが2023年の新作発表後再手術を受け自宅で療養していた。摘出手術後も話は出来たので毎年作品発表を続けていたのだが、食事の量が減り体力はどんどん衰えていった。劇場公演の現場では私が演出助手として天児の代わりにリハーサルを主導し、インタビューに答える事も有った。既に2年先の公演スケジュールも入っているので当分この様な状態が続くと思っていて、亡くなる1週間前にはメールで今後のツアー状況を説明し、後日50周年記念事業の相談をすることにしたが叶わなかった。

 遺族の意向で2024年3月に家族葬を行い、後日山海塾主催でお別れの会を持つ事にしたのだが、そのための会場探しや準備の時間が必要で、幾つか組まれている公演ツアーが終わる10月末以降の11月5日とすることにした。この日付は山海塾創立後10年以上たってから天児と私が話し合って決めた山海塾創立日である。そして会場は何度も提携公演を行ってきた世田谷パブリックシアターとなり、タイトルは天児牛大メモリアル映像上映会と決まった。

 この会の準備のために過去の資料に目を通し幾つもの確認をする過程で多くの忘却した過去を目撃する事になり、また自分の記憶とは全く違う事実を驚きを持って読み解いていく事になった。それは私を情緒不安定にし、肉体にも影響を及ぼすストレスとなった。本当の過去の姿と作り出された「あるべき過去」の姿。その両方を認める事でようやく心の平安が保てるようになった。50年前を思い出してみよう。

 駅のホームで数分おきに来る電車を30分もやり過ごしていた。朝のラッシュアワー、渋谷まで三駅の池ノ上では駅員がホームで乗客の背中を両手で押して車両の中に押し込みドアを閉める。それが嫌で何度も朝の授業に間に合わなかった。行き過ぎる電車の中のサラリーマンを見ながらどうして皆ネクタイをしているのか不思議に思った。大学を卒業してあの状況になるのは嫌だと思ったが、故郷の農村から抜け出すには都会の大学に進学するのが一番簡単だった。仕送りは受けず奨学金とアルバイトで東京の大学生活を送っていた。

 そんな時バイト先にずいぶん年上の人が入って来て一緒に働く事になり、仕事が終わって一緒に帰る事も多くなった。ある日電車の中で演劇に興味があるのなら今夜渋谷で公演が有るから観ると良いと教えてくれた。渋谷駅から大学に通う途中にあり以前から奇妙な建物だなと思っていた天井桟敷というところで摩訶摩訶という劇団だったと思う。階段を降りて地下の受付で教えてくれた人の名前を言うと開場前なのにタダで客席の中に入れてくれた。芝居の内容は忘れたけれど終演後の役者紹介で全員が主演女優を取り囲み「我らが銀粉蝶」と叫んだのが印象に残った。毎日アルバイト先で顔を合わせるその人はたまに長期間来ない事が有り話を聞くと、芝居の稽古や公演に出ているそうだ。芸名を守鏡丸といい、誘われて私も裏方の手伝いや出演をするようになった。決まった劇団に所属しているわけではなく頼まれて顔を出すようで、私を色々なところに連れて行ってくれた。演技を指導してくれた事は一度もないけれどいつしか私は自分の師匠と思うようになった。裏方を手伝ったババリア幻想劇団の青森公演では4トントラックを運転したが、所有者は大駱駝艦というなんだか恐ろしいグループの様だった。

 私が初めて舞踏と出会ったのは守鏡丸に勧められて観た「馬頭記」と「陽物神譚」という大駱駝艦の映画で、強烈な印象を受けた。私は物書きになりたくて文学部に進学し脚本も勉強していたのだが、この言葉のない強烈な舞台の正体を知りたくなり、会場に掲示してあった北方舞踏派結成記念公演「塩首」のポスター内容をノートに書き写して、後日山形県鶴岡市に向かった。日雇い仕事で往復の電車賃と入場料を稼いで各駅停車の列車を乗り継ぎ目的の公演を観た後、予定していた出羽三山巡りは強い雨で叶わず困っていると出演者の一人が、明日も公演を観る観客が客席で雑魚寝をするから潜り込めば良いと誘ってくれた。言われるままに客席に居るとおにぎりと味噌汁が振る舞われた。観客たちの話によると公演は毎回微妙に変わり客演者はかなり豪華な顔ぶれで、ほとんどの観客が3回の公演を全部観る予定らしい。翌日から私は受付でチケットのもぎりを担当し公演も観る事が出来た。公演終了後も後片付けを手伝っているとトラックの運転が出来ないか尋ねられた。青森公演で運転したのと同じ4トントラックだったので3日間ほど機材の返還を担当し、最終日には寿司を振る舞われグループに参加しないかと誘われた。

 会場で手にした大駱駝艦公演チラシと山海塾第一期塾生募集チラシを持って帰京し大駱駝艦の公演を手伝い山海塾の話を聞く事が出来た。ババリア幻想劇団の座長に相談すると座長と奥さんは大駱駝艦のメンバーだったとのこと。山海塾の研修開始前の面接に酒を持参して大駱駝艦に潜り込めば良いとアドバイスしてくれた。私は嫌気が差していた大学を中退し大駱駝艦の寮で暮らし、普段はメンバーと一緒にキャバレーのフロアーショーに出演する集団生活を送るようになった。

 半年という山海塾研修期間が過ぎたがはっきりとした公演計画もないので30人ほど居た研修生は来なくなったが、時々顔を出していた滑川五郎が会社勤めをやめて寮で暮らすようになり、大学を卒業した高田悦志も来るようになった。そしてようやく1977年4月「アマガツ頌」を上演したのだが、この時のチラシを見返すと山海塾の文字が無い。1978年6月「金柑少年」では舞踏手が2人増えているが大駱駝艦制作部山海塾となっている。後に天児から聞いたのだが山海塾という名前は大駱駝艦の研修機関として残し、違うグループ名で旗揚げを考えていたそうだ。大駱駝艦から分派したグループは沢山有るが、その主宰者は皆かなり我儘で欲深く見えた。その中でも天児は我儘で一番欲望が強く見えた。何しろ公演活動だけで生活する事を目指していたのだ。私自身はそんな事は夢にも思っていなかったので、天児をボスに選んだのはタイミングもあるが、その欲望の大きさからだった。

筑豊廃坑にて(1979年) 奥より、蝉丸、岩下徹、高田悦志、緒方篤、天児牛大、滑川五郎(提供 著者)
筑豊廃坑にて(1979年)。奥より、蝉丸、岩下徹、高田悦志、緒方篤、天児牛大、滑川五郎(提供 著者)

 高田は広報の渉外を担当し、滑川はその資料となる写真や映像を担当、私は舞台装置を担当した。「アマガツ頌」と「金柑少年」から幾つかの場面を組み合わせて「処理場」や「魚の骨の森」などのタイトルを付け山海塾というグループ名で学園祭やライブハウスで公演した。この頃メンバーは7人になっている。

 1979年になると天児がフランス人と接触するようになり海外公演が具体的になってきた。1980年2月、高田と共に公演準備のためフランスに発った時、私は23歳だった。3月には残りのメンバーがパリに来てダンサーは5人、スタッフは舞台監督、大道具、照明、音響がそれぞれ1人ずつ、総勢9人で1年を超える海外活動の始まりだった。渡欧当初決まっていた公演はパリのフォーラム・デ・アールの中庭、カレ・シルビア・モンフォールのテント小屋、出演料無しのナンシー国際演劇フェスティバル、ボルドーのシグマフェスティバルのみだったと思うが色々な人との出会いや助力で最後は南米に渡り帰国まで13カ月間のツアーとなった。

 その後は日本より海外の方が長い生活が続きテレビ番組やCMに出演したりしてスポンサーも付くようになった。私は舞台装置を運ぶトラックを運転するために大型車両、牽引車両の運転免許を取得して世界中で運転する事になるがこの頃の舞台の思い出は「眠い、ひもじい、寒い」。

 さて、困難の多い公演活動だったが遣り甲斐を感じはしゃぎながら過ごしていたと思う。定期的にワークショップを開催し、海外でもワークショップを行うようになり山海塾に加わりたいという人も出てきた。天児の希望もあり少しずつダンサーが増えて多い時は10人となった。ある程度確立した山海塾よりもその前の苦しみながらの活動の方が遣り甲斐があると思う一方、私には別の夢がある。

 ティーンエイジャーの頃、自分の生まれてきた意味や生きていく意義が判らず、苦しみ荒れていた。舞踏と出会いこの新しい芸術のうねりの時に自分が遭遇し、この前衛芸術を継承しやがて古典となっていく。そこに自分の存在意義を感じるようになり山海塾はその足掛かりとなる重要なもの。山海塾は前衛であり続けなければならず、時代を牽引すれば10年後、20年後には新たな舞踏が存在するだろう。

(せみまる・舞踏家、山海塾)


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